Hello! My Name Is 404│シャイン経営研究所―中小企業診断士・谷藤友彦 https://shain-keiei.biz 「社長のやりたいを形にする」中小企業の経営理念・事業戦略策定、Webマーケティング・法人営業力強化を支援。 Wed, 05 May 2021 11:33:23 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.0.7 https://shain-keiei.biz/wp-content/uploads/2022/01/cropped-logo-32x32.jpg Hello! My Name Is 404│シャイン経営研究所―中小企業診断士・谷藤友彦 https://shain-keiei.biz 32 32 斎藤慶典『デカルト(哲学のエッセンス)』―理論とは「建築物」か「3本の矢」か? https://shain-keiei.biz/descartes/ Wed, 05 May 2021 03:00:00 +0000 https://shain-keiei.biz/?p=1553  

若き日のデカルトは、膨大な読書を通じて過去の偉人との対話を重ねていた。文学、雄弁術、詩、数学、哲学、法学、医学などである。しかし、どれを読んでも彼の知的欲求を完全には満たすことがなかった。彼は最終的に、「おびただしい疑いと迷いに取りつかれてにっちもさっちもいかないありさま」(『方法序説』)に陥った。「本当に疑い得ないもの」とは何なのか?岩盤や粘土層のように諸学問を基礎から支えて揺らがないものとは何なのか?デカルトはそれを追い求めて、書物を捨て現実世界と自分自身と徹底的に向き合うことにした。

「本当に疑い得ないもの」を掘り当てるためにデカルトが編み出したのは、「方法的懐疑」という手法である。「少しでも疑わしいものは真ではない」として退ける(「偽である」と断定するわけではない。偽の可能性が否定できないという意味である)。あらゆるものの中から方法的懐疑に耐えて残ったものこそ、「本当に疑い得ないもの」と呼ぶにふさわしい。

デカルトがまず検討の俎上に載せたのは「感覚」である。我々は日々五感を通じて様々な刺激を受けている。それは我々の身体が確かに受け取った認識であり、疑い得ないのではないか?デカルトの答えは否である。我々は頻繁に見間違いや聞き間違いを犯すから、感覚は絶対ではない。

感覚は誤ることがあるとしても、我々が感覚を媒介として結びついているこの「現実世界」そのものはどうであろうか?世界があることは自明であるように思える。もしこの世界が嘘であったら、我々は今どうしてここに生きていると言えるだろうか?しかし、デカルトは現実世界も疑わしいと断言する。というのも、現実世界は夢である可能性があるからだ。

我々が普段夢を見ている最中に、それが夢であると気づくことはまずない。夢が夢であったと解るのは、夢から覚めた時である。なるほど夢の世界はおかしなことがたくさんあったとしても、夢から覚めて振り返った時にそう思うにすぎないのであって、夢の最中ではそれがたとえ混沌に満ちていようが現実だと信じて疑わない。夢の構造がこのようであるならば、我々が今生きているはずの現実世界も、本当はただ覚めていないだけで、もしかしたら夢なのかもしれない。

では、現実世界を離れて、我々が頭の中で考えている「理念」はどうであろうか?例えば、「美しさ」は1個の理念である。我々が現実的に知覚できるのは美しい花、美しい人、美しい風景といった具体的な事物だが、これらのものは全て現実世界に属しており、前述のようにその現実世界自体が疑わしいとして退けられる以上、個別の事物も阻却される。一方で、「美しさ」という理念そのものは、我々が思考する限りにおいて、それ自体で存在していると考えられそうである。もっと解りやすい例を出せば、現実世界がどのようになっていようとも、「1+1=2」は絶対に疑いようがないのではないか?

ここでもデカルトの答えは否である。ひょっとしたら「欺く神」や「悪しき霊」なるものが存在して、本当は「1+1=2」ではないにもかかわらず、我々の理性を騙して「1+1=2」と思い込ませているかもしれないとデカルトは疑うのである。

感覚も現実世界も理念も方法的懐疑には耐えられなかった。だが、そのようにあれこれと思考している当の私がいることだけは絶対に疑い得ないのではないか?デカルトがいったん出した結論とはこれであった。『省察』では「私はある、私は存在する」と表現されている。「私は考える、ゆえに私は存在する」という『方法序説』や『哲学原理』の言葉の方が一般には有名であるが、この言葉はデカルトの意図を正しく伝えていない。

「私は考える」のだから「存在する」という因果律で結びついているのではない。因果律は理性の働きの一種である。しかし、「理念」の箇所で見たように、理性そのものは欺かれる可能性がある。そのような疑わしいものを差し挟んだ形で、デカルトが絶対的な命題を打ち立てることはない。「私は考える」ことは、端的に「私は存在する」ことに等しい。

もう1つつけ加えるならば、デカルトは「思考すること」を「感ずること」とも言い換えている。なるほど「思考すること」には、対象に向けられた能動性が含まれている。ところが、デカルトが発見したのは、私がそこまで肩肘を張らなくても、自ずと何かを察知してしまうという存在の本質であった。だから「感ずること」という、受動性を含んだ言葉を用いている。

こうして、「ある」=「存在する」=「思考すること」=「感ずること」という等式が成立する。とはいえ、思考することとは理性の働きではないし、感ずることは感覚の働きでもない点には改めて注意が必要である。既に見た通り、理性も感覚も方法的懐疑によって退けられた。私の存在をどのように表現すればよいのかは、非常に難しいところである。およそ言葉というものが理性や感覚の結晶である限り、言葉にこだわること自体が不適切なのかもしれない。それでも敢えて言語化を試みるならば、個人的には「何となく、ぼんやりと意識されてしまうこと」という表現がイメージに近いように感じる。

通常はデカルトの最終到達地点として知られている「私はある、私は存在する」には、実はまだ続きがある。デカルトは、「思考すること」によって拿捕される「思考されるもの」の考察へと進んでいく。デカルトは「思考されるもの」を「観念」と呼び、「本有観念」、「外来観念」、「作為観念」という3種類に分類した。この中で、「思考すること」自身を起源としない観念があれば、それは「他者」の存在を意味する。

「本有観念」とは、「思うこと」のうちに初めから含まれている観念であり、それが何であるかを私(=思うこと)は私自身から直接理解することができる。デカルトは、<もの>、<真理>、<思う>を本有観念の例として指摘している。「外来観念」とは、「思うこと」の外部から、後に与えられた観念である。例えば、私に物音が聞こえ、太陽が見え、火の熱が感じられたとすれば、それらはいずれも私の外から到来したと考えられる。最後の「作為観念」は、私自身によって作り出された観念のことで、妖精たちや竜のような空想上の存在が挙げられる。

「本有観念」はその定義からして「思うこと」を起源としている。「作為観念」も、私自身がその作者であるのだから、私すなわち「思うこと」が起源である。問題は、私の外部からやってくるかのように思える「外来観念」である。繰り返すように、外部の現実世界も、それを私へと媒介する感覚も絶対的なものではない。外部から観念がやって来るというよりも、私の内に既に観念があって、それがたまたま現実世界と一致したにすぎないとデカルトは見る。確かなのは私の内にある観念の方で、夢として破れる余地を残す現実世界ではない。このように考えると、「外来観念」は「本有観念」の組み合わせによって生じるものであり、私の中に起源がある。

デカルトが最後に検討したのが「神」という観念であった。神は「無限性」を特徴とする。神の無限性が際立つのは、私の有限性と鋭い対比をなすからである。私の有限性の中に無限なる観念が与えられているとすれば、そのような無限は有限な私の中のどこを探しても見当たらない以上、私の外にその起源を有することは明らかである。これが、デカルトによる「ア・ポステリオリな(=経験より後の)」神の存在証明である。

神の存在証明には長い歴史があり、「ア・プリオリな(=経験に先立つ)」証明が有名だ。神とは唯一絶対、完全無欠な存在である。もしその存在を欠いているのであれば、神の完全性に背くことになる。したがって、神という観念の中に、一切の経験に先立って、それとは独立に神が存在していると考える。ただし、デカルトはこの「ア・プリオリな」証明を否定する。というのも、神の観念に完全性という特徴を与えたのは理性の働きであり、その理性はくどいようだが騙されているかもしれないためだ。

とはいえ、先ほどのデカルトの説明でも、神の無限性を前提としていた点が私としてはひっかかる。そこでもう少しデカルトの言葉を追ってみると、私という有限をどこまでも拡張させても、決して到達することのない無限を意識せざるを得ないといった文章が見られる。神の無限性は自明、つまり経験に先立つのではなく、私の有限性を極大化させるという経験の後で初めて自覚される。だから、「ア・プリオリな証明」ではなく、「ア・ポステリオリな証明」に分類される。

無限の神は私の外部に起源を有するのであろうか?デカルトは、無限とは本有観念であると言い切る。「思考すること」のうちに含まれる観念なのである。なるほど確かに、デカルトの言う通り、私=思考することの有限性を最大限にまで引き延ばすことによって初めて経験されるのが無限であるならば、無限は私の内部に起源がある。しかし、無限の神は、私の内部に起源があるにもかかわらず、決して私からは理解できない形で、私の外部にある。

神は私にとって特別な他者である。私は神に「触れる」ことしかできない。だが、私が「思うこと」の端的な存立であることは同時に、無限の神に触れることでもあり、両者はコインの裏表の関係にある。デカルトが方法的懐疑の末に到達したのは、このような境地であった。以上が本書の大まかな内容である。

デカルトをめぐっては、しばしば3つの点で誤解されていると私は感じる(私自身もよく誤解していた)。まず、「私はある、私は存在する」という命題における「私」とは、特定の誰かを指しているわけではない。一般的にこの命題は、まるで私という固有の存在だけは絶対的であり、それがあたかも近代啓蒙主義に象徴的なエゴイズムをよく表していると理解される。だが、特定の誰かとは現実世界に属する事象であり、方法的懐疑によって否定された。私とは誰のことでもない。思うこと、端的な存在に対して与えられた仮称にすぎない。

2つ目として、デカルトの合理主義は理性至上主義につながったとされる点も疑ってかかる必要がある。理性が生み出す理念が方法的懐疑によって退けられているからだ。「思考すること」=「感ずること」という等式からもうかがわれるように、デカルトは理性よりももっと感覚的(方法的懐疑によって阻却された感覚のことではなく、端的に感じ取るということ)なことを重視していた。

啓蒙主義は、中世の時代には神の領域に属していた絶対知を、絶対的な理性の働きによって人間のものとし、神を忘却させた。その祖がデカルトだと言われる。しかし、デカルトは神を忘れることはなかった。むしろ、私が有限であることを自覚する限りにおいて、忘れようとしても忘れられない形で、私の外部にぴったりと無限の神がくっついている。かといって、私は神を理解することはできず、ただ触れるにすぎない。こうしたデカルトの極地も正しく理解されていない。

中世までの神に代わって、神と等しい絶対的な理性を持った私という固有の存在が、デカルトのような懐疑論的アプローチで究極の平等を実現しようとすると、暴力的な全体主義を招く(以前の記事「納富信留『プラトン(哲学のエッセンス)』―否定=支配を伴わない新しいUnlearnの形を模索したい」を参照)。全体主義の悲劇は、デカルトの思考を誤解したことで生じる。

万人に同じものを与えるという方法で平等を実現するのは現実的ではない。例えば、世界中の人に米を100kg与えたら平等になるかと言うと、そうではない。ある人にとってはその量は少なく、またある人にとってはそもそも米は必要ではない。したがって、究極の平等は、誰もが何物をも持たない状態を作ることによってのみ達成される。ゼロはどのように比較してもゼロである。懐疑論的アプローチによる否定を通じて、絶対無を実現する。ところが、絶対無を実現しようとしている当の本人は、否定という強力な力を駆使する絶対有の存在である。この点で、極限の平等主義は論理的に破綻してしまう。

ここからは話題を変えて、「解る」とはどういうことなのか、私なりに考察してみたい。本書の著者は冒頭で、「この本はデカルトという死んだものとの間で交わした対話の記録である」といった旨のことを述べている。現代を生きる著者が、既に死んでいるデカルトとの間で対話を交わしたという意味ではない。デカルトが自らの考えを表明した時点で、デカルトという人物は死ぬ。後には「テーマ」だけが残る。そのテーマを著者が「復活」させ、解釈を与えていく。これが「対話」だと言うのである。著者の発想は、デリダの「脱=構築」を想起させる。

確かに、我々が書物を読む時にはこういう態度を取るだろう。作者の人となりなどはひとまず脇に置いて、書かれた言葉とじっくり向き合い、論理の道筋を丁寧に追っていく。我々が熟考するには、作者には死んでいてもらわなければならない。そうでないと、我々が作者の言葉を自由に持ち運んで検討することができないからだ。作者の論理展開が概ね了承された時(完全に了承できることは少ない)、我々は「解った」とうなずく。その論理は時間の制約を超えて通用する。つまり、超時的である。これが「頭」で解るということである。

誰かと直接話をしている時も同様である。相手が言っていることを理解するには、まずは相手の発する言葉に真摯に耳を傾ける。この時点で、話し手とその言葉はいったん切り離され、話し手は死ぬ。会話の場では聞き手が十分に理解できなければ、後から回想したりメモを書き起こしたりしてみて(相手が死んでいるから可能である)、「相手があの時言いたかったことはこういうことか」と納得する。ここでも、話し手の論理は超時的であり、聞き手の理解は頭によるものである。

しかし、これだけで本当に著者や話し手のことを理解したと言えるだろうか?頭で解っていても心がついて行かないという事態は往々にして生じる。心で解るとは、相手の価値観をとらえることである。論理の背景となっている考え方の前提を見出すことである。

論理は少なくとも80%程度の確率で正しいと言えなければならないのに対し、価値観には絶対的な正しさはない。むしろ、反対の価値観を容易に想起できる価値観こそが価値観の名にふさわしい。一例を挙げると、「人を殺してはならない」は論理である。100%正しいかどうか私には自信がないが、社会で広く受け入れられているのは事実だ。一方、「まずは他人を大切にしなければならない」は価値観である。というのも、「まずは自分を大切にしなければならない」という価値観もまた同程度に成立するからである。

頭でも心でも理解するとは、価値観を前提にした論理が成立することが解ることを意味する。単に「他人を殺してはならない」と理解するだけでなく、「まずは他人を大切にしなければならない」から「他人を殺してはならない」と理解することである。あるいは、「まずは自分を大切にしなければならない」から「他人を殺してはならない」と理解することでもある。

一口に価値観と言っても、人生、他者、愛、友人、家族、仕事、遊び、お金、社会、共同体、自然、技術、政治、宗教、国家など、様々なものに対する価値観がある。相手の価値観は、その人と直接接している時、空間を共有している時の言葉の節々、振る舞いの端々に顔を出す。少しずつ、不安定な形で表出する。論理が超時的であるならば、価値観は同時的である。もちろん、後から場面を振り返って、あの人はこんな価値観なのだろうと気づくことはある。だが、価値観の大半は、その場で瞬発的に捕捉される。だからこそ我々は、あの人に共感するとか、逆にあの人のことは気に食わないなどと、直観的に判断を下すことができる。

一般的に、理論とは絶対的な前提に基づき、前提から次の命題を導き、その命題から次の命題を導き・・・という過程を経て結論を得るものだと考えられている。数学が解りやすい例で、100%正しい公理を出発点に様々な証明が組み立てられる。しかし、論理を重ねるうちに徐々に亀裂が走るのが常である。だから、最終的な結論はせいぜい80%程度の正しさしかなく、それゆえに多くの人にある程度受け入れられる一方で、一部の激しい批判も生む。

デカルトは理論を建築術に例えた。そして、建築物を構成する諸要素の1つ1つを疑っては取り除き、本当に疑い得ない岩盤、粘土層のようなものを発見しようとした。本書の著者は、理論とは本当に建築術のようなものなのか?と疑っているのだが、私は別の観点からデカルトの発想を疑ってみたい。つまり、絶対的な前提から出発するのではなく、相対的な価値観から出発する理論の組み立て方、絶対的な前提から命題を積み重ねていくうちに理論の精度が落ちていくのではなく、相対的な価値観を組み合わせていくことで理論の精度が上がっていくという方向性があるのではないか?ということである。

人間に価値観があるのと同様、企業にも価値観がある。通常それらはビジョン(経営理念)に内包されている。何十年にもわたり高いパフォーマンスを上げ続けている偉大な企業は、強固な価値観に基づいた経営を行っていると指摘したのは、アメリカの経営学者ジム・コリンズであった。コリンズの主張で重要なのは、価値観に絶対的なよしあしはないという点である。一般的に、高業績企業は顧客志向の価値観を持っていると思われている。ところが、コリンズがビジョナリー・カンパニーとして挙げているソニーは顧客志向の考え方が弱く、代わりに技術志向が非常に強い。また、タバコがこれだけ世界的に悪者にされつつある中でも、ビジョナリー・カンパニーの1つであるフィリップ・モリスは、タバコの効用を強く信じ、価値観経営の中心に据えている。

私が普段お世話になっている営業研修会社の社長から、最近営業の世界では興味深い変化が起きているという話をうかがった。一昔前までは、御用聞き営業を脱して、顧客企業の課題を解決するソリューション営業が有効だとされていた。ところが、今やどの営業もソリューション提案を行うため、それだけでは差別化できず、結局価格競争に陥ってしまうのだという。

現在注目されているのは、「インサイトセールス」という考え方である(※コロナ禍で進んでいる「インサイドセールス」=内勤営業のことではないので要注意)。単に「御社の課題はこれです。だからこのソリューションが有効です」と提案するだけでは不十分である。顧客企業には頭でその重要性を理解してもらうことはできても、残念ながら顧客企業の心にまでは響かない。これからの営業は、「御社のビジョンはこれです。その実現のためにこのソリューションが有効です」と提案しなければならない。


相対的な価値観を内包するビジョンもまた相対的であるにすぎない。絶対に正しいビジョンなど存在しない。にもかかわらず、顧客企業を取り巻く事業環境や、内部の業務・仕組みを客観的に分析してソリューションの妥当性を説明するよりも、顧客企業のビジョンを下地としてソリューションの妥当性を説明する方が、提案全体の精度が上がる。ここでもまた、デカルトが想定する建築物的な理論構成とは逆の流れが見られる。

もう少し粒度を落とした表現をすれば、「弱いものを束ねると強くなる」ということである。毛利元就が子どもに話した「3本の矢」の教訓が思い起こされる。私はこれまで、シナジーとは足し算ではなく掛け算であり、弱いもの、つまり1を切るものをいくら束ねても、強くなるどころか弱くなる一方だと信じていた。だから、前職のベンチャー企業はグループ企業間でシナジーを発揮できなかったと書いたこともある(前ブログの記事「【ベンチャー失敗の教訓(第11回)】シナジーを発揮しない・できない3社」を参照)。

現在の中小企業診断士としての仕事に関連して言えば、中小企業庁が実施している支援策には、中小企業のグループ化を推進するものが多い。商店街の広域連携、下請製造業の共同販路開拓などが該当する。行政が個社単位ではなくグループ単位にこだわるのは、効率的に支援実績を上げるためだという話を聞いたこともある。

とりあえずグループ化すれば何となくシナジーが現れるだろうと期待するのは、金属材料を適当に混ぜ合わせればやがて金が作れるというまやかしの錬金術に等しいと、以前の私は手厳しく批判したものだ。ところが、もし「弱いものを束ねると強くなる」ということが本当であるならば(商店街や下請製造業を「弱いもの」と決めつけていることには反発もあるだろうが)、グループ化推進施策にも十分な意義が認められる。おそらく中小企業庁も自分ではよく解っていないその意義を、私はもう少し真剣に探索してみようと思う。

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富松保文『アウグスティヌス(哲学のエッセンス)』―「自分を知る」とはどういうことか? https://shain-keiei.biz/augustinus/ Wed, 21 Apr 2021 03:00:00 +0000 https://shain-keiei.biz/?p=1520  

アウグスティヌス(354~430年)は、西ローマ時代に北アフリカで活動した教父である。テオドシウス1世がキリスト教を国教として公認した時期にあたる。ローマ=カトリック教会の理念を確立させ、中世以降のキリスト教に多大な影響を与えた。著書は100冊以上に上るが、代表作は『告白』、『三位一体』、『神の国』である。

本書は、聖書に残されている「コリントの使途への手紙一」という書簡の中の「愛の賛歌」に着目し、次の文章の意味を掘り下げた1冊である。

わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この3つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

我々が日常生活の中で鏡をのぞき込むと、そこに自分の顔がはっきりと見て取れるのは自明のことである。ところが、「愛の賛歌」では「おぼろに映ったもの」と表現されている。しかし、「そのときには」、「顔と顔を合わせて見る」ことになり、「はっきり知られているようにはっきり知ることになる」と言う。聖書の表現であるから、ここでの「そのとき」とは、キリストが再臨して神の国が実現された時と解釈することができるだろう。

その時に、鏡を介して突き合わせている「顔と顔」とは、私の顔と私の顔なのではなく、私の顔と神の顔ではないだろうか?私は、鏡に映った私の顔を通じて私を知るのではなく、神の顔を通じて私を知るのではないだろうか?

アウグスティヌスは『告白』の中で、「いまや自分自身が、自分にとって大きな謎となった」と述べている。そして、『ソリロキア』という作品の中では、「何を知りたいのか」と自問し、「神と魂を知りたいのだ」と自答する。単に神を知るだけでもなく、魂を知るだけでもない。神を知ることは魂を知ることと一体不可分の関係にある。では、なぜ自分自身を知ることが神への問いをはらんでしまうのか?

この問いに直接答える前に、我々が鏡に映った顔を自分の顔として認識するとはどういうことなのか整理しておきたい。幼児が鏡像認知できるようになる正確な月齢を確かめようとする動きは、20世紀半ば以降に本格化した。ギャラップは実験を通じて、鏡像の自己認知が可能になるのはおおよそ18~20か月だと結論づけた。

松沢哲郎は、鏡映像に対する幼児の反応には、時期に応じて「他者への反応」、「鏡映像の探索」、「自己認識」という3種類があると指摘する。「他者への反応」期は、鏡像を注視し始める4~5か月頃からスタートして、鏡像に笑いかけたり触れたりする6~8か月で頂点に達し、その後こうした反応は、自己の鏡像認知が可能になる1歳半までに急速に消える。「鏡映像の探索」は12~14か月を頂点とする時期で、鏡に近づいて後ろをのぞく、鏡像の動きを積極的に観察するといった行動が見られる。また、9か月頃からは尻込みしたり、鏡を避けたりもする。これは18~20か月で頂点に達するというから、時期的には次の「自己認識」と連なっている。「自己認識」は1歳半で始まり、この頃になると探索や回避行動が減少する代わりに、照れたりおどけたり見とれたりといった自己耽美的な行動が現れる。

幼児が鏡映像を自分だと認識できるようになるには、他者の存在が欠かせないようである。ギャラップはチンパンジーを用いて次のような実験を行った。まず、隔離したまま育てた3頭のチンパンジーは鏡像認知を示さないことを確認した。次に、3頭のうち2頭を12週間にわたって同類の仲間と一緒に過ごすようにさせた一方で、もう1頭は引き続き檻の中で隔離したままにした。

再び鏡像認知のテストを行うと、隔離されたままだったチンパンジーは相変わらず自己認知ができなかったのに対し、別の2頭は自己認知ができるようになっていた。ギャラップは、同類の仲間を視覚的に認知したことが、自分自身の認知につながったと分析した。よもや人間の子どもを使って同じ実験をすることはできないが、人間の場合も事情は同じだろうと推測される。

だが、他者を認知することが鏡映像の自己認知にすぐさま直結しているというわけでもなさそうである。というのも、自己認識が可能となる1歳半と言えば、歩行はもちろん、指差しや初語の時期も過ぎ、二語文や三語文も見られるようになっている時期である。つまり、自分自身を他者や物との間の関係でとらえることが既に可能となっている。

心理学者のナイサーは、人が自分自身について情報を得る仕方には、「生態学的自己」、「対人的自己」、「概念的自己」、「記憶された自己」、「私的自己」の5つがあるとした。

最後の「私的自己」とは、「こころの理論」、つまり、人はそれぞれの人なりの信念や欲求を持っており、行為はそうした信念や欲求によって制御されているという素朴心理学的な理解がはっきりとしてくる4歳頃にになって形成される。

「記憶された自己」とは、単に現在のことばかりでなく、過去や未来についても語ることができ、その連続した時間の流れの中で自分自身をとらえることができるような、いわば自伝的な物語を語ることができる「時間的に拡張された自己」のことで、3歳以降に現れ始める。

「概念的自己」はそれよりももっと以前に、10か月頃から形成される。自分と他者が同じ物や出来事に一緒に注意を向けることができ、その他者の注意がまさに自分に向けられていると理解できるようになると、自分を思考の対象として表象的にとらえることが可能となる。

しかし、表象としての自己理解よりもはるかに先立って、自己についての知覚というものはある。例えば大人でも、自分の乗った列車が駅に止まり、たまたますぐ隣に止まっていた列車が動き始めると、まるで自分の列車が反対方向に走り出したような感覚になることがある。我々は周りの環境を知覚することで、同時に自分の運動や位置を知覚している。こうして自覚される自己が「生態学的自己」で、生まれて間もない頃から備わっている。そして、環境と自己とが表裏一体となった関係は、他者と自己との関係にも同じようにあてはまる。これが「対人的自己」である。

ナイサーの分類に従えば、自己の鏡像認知は概念的自己が形成される時期に相当する。ただ、概念的自己が10か月前後から形成され始めるのに対して、鏡像認知はそこから半年~1年ほど遅れる。ナイサーはこの点に触れて、ちょうどこの時期、幼児が失敗するとばつの悪そうな表情をするといった、他人の評価を気にする態度が見られるようになることから、自己の鏡像認知には「評価的自己意識」が大きく関与しているのではないかという解釈を提示している。

私の理解では、「対人的自己」とは「私“が”ある」という知覚であり、他者との物理的・空間的関係を通じて養われる。そしてそれは、外的な物との関係において獲得される「生態学的自己」が基盤となっている。一方で、「概念的自己」とは「私“で”ある」という知覚であり、「○○ちゃんはいい子だね」とか、「○○ちゃん、顔にご飯がついているよ」とか、「○○ちゃん、絵本を片付けないとダメじゃないの」といった他者からの数々のフィードバックを引き受け、自分のものにすることで芽生える。

「鏡映像が自分“で”ある」という理解は、「ほら、○○ちゃんが鏡に映っているよ」と他者から鏡映像を指差しされたり、鏡の前で不思議そうに手を動かし顔を傾げていると、「鏡の中の○○ちゃんは○○ちゃんと同じ動きをするね」と他者から指摘されたりする中で得られる。他者との関係を通じて、単に自分自身を自分として引き受けるのではなく、最初は他者と認識していた鏡映像を自分として引き受けるのだから、鏡像認知は概念的自己の形成より時間がかかるのだと思われる。

このようにして、幼児は鏡に映った自分を自分だと知る。では、ここからぐっと踏み込んで、「私が私を知る」とは一体どういうことなのか考えてみたい。アウグスティヌスの『告白』の主題はここにある。『告白』は、「ミラノでの回心」と呼ばれる、アウグスティヌスがキリスト教へと回心するきっかけとなった出来事が下地となっている。「回心」とは、一般的な理解に従うと「生まれ変わること」である。一方で、フランスの哲学史家であるピエール・アドによれば、「起源への回帰」という意味もあるそうだ。アウグスティヌスの関心は、「私のはじまり」へと向けられていく。それは、徹底的に内向的、内省的になることでもある。

ところが、「私のはじまりはいつか?」と問うて、アウグスティヌスはいきなり行き詰まる。私が生まれた時の記憶はない。もちろん、脳が発達していないから生まれた時の記憶がないと言ってしまえばそれまでである。しかし、仮に生まれた時の記憶が存在するほどに脳が発達していたとしたらどうだろうか?生まれた瞬間のことを覚えている脳は、いったいいつから存在したのだろうか?はじまりを知る存在は、はじまりよりも前に存在していなければならないではないか?この矛盾ゆえに、私がはじまりを知ることは決してない。私のはじまりは時間的に私を超越している。

空間的にも同じことが言える。私を知るとは、端的に言えば私の内側の意識を知ることでもある。では「私の内とはどこにあるのだろうか?」理解を助けるために、私が3次元の空間に球体として浮かんでいると想像してみよう。まるで、玉ねぎの皮を1枚ずつ剥いでいくように、球体の皮を1枚ずつ剥がしていく。原点に近づけば近づくほど、私の内に迫るはずである。

しかしながら、どこからが私の本当の内なのだろうか?原点に限りなく接近して、わずかに私の球体が残存している時、それが私の内なのだろうか?いや、もはやほんのわずかであっても原点に迫る余地がある以上、内とは言えないのではないか?とはいえ、全てを剥いで原点に接触したら、私の内は消えてしまう。よって、私の内をここだと特定することはできない。要するに、私の内も空間的に私を超越している。

時間的にも空間的にも超越している存在は、神しかいない。だから、本当の意味で私を知るとは、神を知ることに等しい。鏡に映し出された顔は、自分の理解を助ける他者なら誰でもよいというわけではない。いや、誰でもない、他ならぬ神でなければならないのだ。

古代ギリシア史を専門とするフランスの歴史家であるヴェルナンは、「個人」のとらえ方について、「狭い意味での個人」、「主体」、「自我あるいは人格」という興味深い3つの分類を提示している。「狭い意味での個人」とは、古代ギリシアで言うならば、ホメロスに歌われている英雄アギレスや立法者ソロンといった、並外れた個人のことを指す。「主体」とは、一人称単数で「私は」と言う時の「私」であり、「主語」と言い換えてもよい。あなたはこう感じ、そう考えるかもしれないが、私はこう感じ、こう考える。他の人とは違う私という個人が意識されており、それは外の世界、他者との関係に向けられている。

これに対して、「自我あるいは人格」とは、閉ざされた内的世界であり、自分自身の人格との向かい合いであり、何かを意識しているというそのことを意識しているような自己意識を表す。

この3分類自体は決して時代の推移に明確に対応しているわけではないものの、少なくとも「自我」については、古代ギリシア(紀元前4世紀以前)にもヘレニズム期(紀元前4世紀~紀元前1世紀頃)にも見られないとヴェルナンは言う。

ヴェルナンによれば、「自我」が現れるのは、紀元2世紀の後半~4世紀にかけてである。ちょうど、ローマ帝国が衰退に向かい社会が混乱する一方でキリスト教が急速に広まり、社会的紐帯を絶たれた人々が自分の存在とは何かと追求を始めた時期である。アウグスティヌスはまさにこの時代に活躍し、「神と向き合う」という信仰を通じた個人の確立を提示した。一般的には、「自我」は近代の啓蒙主義によって生じたと了承されているが、実はアウグスティヌスの時代に早くもその萌芽を見出すことができるのである。

我々は通常、外部環境、とりわけ他者との相互作用を通じて自分自身を知る。そして、自分の強みを発見し、それを活かすことが大切だとされる。だが、強みを活かすだけで本当に十分なのかと個人的には疑問に感じることがある。

20世紀の偉大な経営学者であるピーター・ドラッカーは、エグゼクティブ(経営管理者)は強みに集中しなければならないと繰り返し、組織には人間の弱みをなかったものにする作用があると力説した。例えば、経理に強い専門家は、個人で事業をしている限りでは、本人が苦手とする営業や事務も自分でやらなければならない。ところが、組織化して営業に強い人、事務に強い人を集めれば、本人は強みである経理に集中することが可能となる。組織は強みを持った人材の組み合わせで成り立つという発想は、現在注目が高まっている「ジョブ型雇用」にもつながる考え方である。

だが、社会から要求される仕事がこれだけ複雑化している現代において、各人が自分の強みにだけ専念することが果たしてどれだけ現実的だろうか?仕事に必要な能力のうち、自分の強みが活きるのはごくわずかであり、弱みが制約となる局面の方が圧倒的に多いのではないだろうか?よって、個人は弱みを克服する努力を忘れてはならないし、組織は人材開発への投資を怠ってはならない。そう言えば、前述のようにアウグスティヌスが個人意識を表出させた『告白』という著書のタイトルには、「罪を懺悔する」という意味がある。自分を知るとは、そのまなざしを強みだけではなく、同時に、いやそれ以上に弱みへと向けることでもある。

自分が強みとしている仕事では、何となくであっても成果が出せる。ただそれは、別の見方をすれば、再現性が低いことでもある。反面、自分が懸命に克服した弱みは、そのストーリーを形式知化しやすい。プロスポーツの世界において、最初から才能があり高い成績を残した一流選手が一流のコーチになるとは限らないのに対し、怪我や挫折を乗り越えた選手の方が優れたコーチになりやすいのはこのためである。

どうしても克服できない弱みが残る場合には、それを強みとする他者を頼る。自分が面倒くさいからというだけの理由で他者を頼る場合、我々はややもするとその他者をぞんざいに扱いがちである(外注先をいじめる企業の心理はこうである)。ところが、自分が逆立ちしてもできなかったことをたやすく実行できる人には、自然と敬意が芽生える。弱みと真摯に向き合えば、人は謙虚になれる。このように、人々が弱みに着目することは、社会の知や徳を発展させる上で重要である。

だが、ここでもう1つ別の問題が生じる。我々が自分の強みや弱みを知るのは、他者との相互作用の中で、換言すれば他者との比較の中においてであることが多い。とはいえ、過剰な比較は過剰な競争を生み出し、人々を疲弊させる。

私自身は昔から劣等感が強く、他人と比較しては自分の足りないところに敏感に反応し、深刻な憂鬱に陥る癖があった。中小企業診断士として独立してからも、様々な分野で活躍する診断士と自分を比べては、「なぜ僕はこんな風に成果が出せないのだろうか?」とよく悩んだ。診断士は何かと飲むのが好きで、お酒を交わしながら「自分はこんな仕事をしているんだ」などと語り合う機会が多い。しかし、他人の話を聞いて落ち込むことが容易に予想された私は、そういう会合に出席するのが嫌でたまらなかった時期がある。

比較対象は診断士に限られない。例えば医師と自分を比べては「なぜ僕は他人の生命を救えないのだろうか?」とか、アーティストと自分を比べては「なぜ僕にはクリエイティビティの才能がないのだろうか?」などと、全方位的に比較して精神をすり減らしていた。

随分昔に「鳥取の公立小学校はどんな平等を目指しているのか?」という記事を書いたのだが、私は今でも競争社会を全面的に否定しようとは考えていない。他者との関係で自己を理解することは、「生態学的自己」や「対人的自己」を基盤として成り立つ「概念的自己」が人間の自然な生育を通じて発露する以上避けられないし、「主体」という自己理解のあり方も、社会の自然な発展の結果と言える。しかし、ヴェルナンが「主体」の次に「自我」を設定したように、そして、アウグスティヌスがその移行プロセスを明らかにしようとしたように、他者との比較を超える次元というものを想定することには十分な意義がありそうである。

私は最近になってようやく、他人と比べたがる衝動を少しずつ抑えられるようになってきた。それは、人生を賭けて達成したい自分なりの目標、一言で言うと志がようやく朧気ながら見えてきたからである。今の自分はその目標に向かうことができているかと意識を集中させれば、周囲の人のことはそれほど気にしなくても済む。比較すべきは「現在のあらゆる他者」ではなく、「未来の自分1人」に絞られる。

志の導き方については、前回の記事「内発的アプローチで小規模企業の事業戦略をデザインする~私自身を題材に」で書いた。志は、「自分もしくは他人の成功を他の人にも広めたい」、「自分もしくは他人の失敗と同じ思いを他の人には味わってほしくない」という願いから生じる。左上は「自分の成功」を他の人にも広め「共有」したいという志である。右上は「他人の成功」に「憧れ」、それを他の人にも教えたいという志である。左下は「自分の失敗」を「教訓」とし、他の人を同じ目に遭わせたくないとする志である。右下は「他人の失敗」に「共感」、彼ら彼女らを失意から救おうとする志である。

私の志の最大の源泉は、前職のベンチャー企業での失敗にある。人材育成をテーマとしている企業でありながら、自社の社員育成が十分でなく、グループ全体で最大50人ほどいた社員が、私の退職時には10人あまりにまで減少してしまった。同程度の規模の企業には私と同じ事態を経験してほしくない。そして、“50人の壁”を超えて持続的に成長する企業を支援したいというのが私の強い願いである(以前の記事「ベンチャー失敗事例」シリーズを参照)。

また私は、世界的に大成功した経営学者であるピーター・ドラッカーの思想が若い時から好きである。さらに、最近は中国儒教の重要な経典である四書五経に強く惹かれるようになった。儒教は古くから日本文化と密接な関係にあるし、ドラッカーの経営学は20世紀後半の日本企業の発展に大きく影響を与えた。私は、これらの教えをもっと広く知ってもらいたいと思っている。とはいえ、四書五経もドラッカーも、今の日本にそのまま適用できるとは限らない(先ほども少し指摘した)。現代の社会的文脈の中で再解釈した上で、日本らしい経営学を構築するという、かなり壮大なプランを抱いている。

私の志は、この「教訓」と「憧れ」が結びついたもので、「ドラッカーや四書五経を日本的に再解釈しつつ、中小企業が人材育成を通じて50人の壁を超える方法を創造すること」である(今回の記事では省略したが、前回の記事では「共有」と「共感」についても触れている)。

私が自分の劣等感を乗り越える方法として、上記のように志を設定したのは効果的であった。しかし、今回の記事との関係性で言うと課題は残されている。というのも、自分や他者の成功、失敗とは、客観的であれ主観的であれ、結局のところ他者との比較において決まるものであり、したがって、競争社会的思考、「主体」的思考を完全には脱していないと感じるからである。日本人の文化的特質として、和辻哲郎は人間(じんかん)主義という言葉を、浜口恵俊は間人(かんじん)主義という言葉を用いた。どちらも、他者との間に生きるのが日本人だという意味である。私はまだその精神的宿命にとらわれているような気がしてならない。

個人が他者との比較によって自分の強みや弱みを知ろうとすることが精神を摩耗させるのと同様、企業が競合他社との比較の上にポジショニングを行う経営学の競争戦略論は、働く人をあまり幸せにしない恐れがある。今のアメリカ企業が競争戦略論を乗り越えてイノベーションに走る背景はここに求めることができる。イノベーションについては前ブログの「現代アメリカ企業戦略論」シリーズで整理を試みたことがあるが、端的にまとめると、リーダーが唯一絶対の神に直接アクセスして自らの使命を受け取り、それを世界中で実現させるという普遍化の契約を神と交わし、履行することである。イノベーターは「主体」を超えて「自我」となる。

競争戦略論の大家であるマイケル・ポーターは、最近になってCSV戦略(Creating Shared Value:共通価値の創造戦略)というコンセプトを提唱した。CSVとは、社会的課題の解決を通じて経済的利益を創造することである。しばしばCSVと対比されるCSR(Corporate Social Responsibility:企業の社会的責任)は、事業で得た経済的利益の一部を社会的課題の解決に配分するものであり、引き算の発想に立っている。これに対してCSVでは、最初から社会的課題をターゲットとし、従来の経済的利益以上の利益を達成するという足し算の発想を行う。

ポーターだけの責任ではないが、競争戦略論は勝ち負けの世界であるから、弱者を生み出し社会的課題を深刻化させるという難点があった。そのポーターが社会的課題の解決に本腰を入れたというのだから、世界中の経営者や研究者が驚いた。ポーターがCSV戦略で目指しているのは、一言で言えばイノベーションである。

社会的課題は当事者それぞれにとって固有であり、全体で見ると非常に多様である。福祉問題に携わっている方はお解りいただけるだろうが、例えば貧困層は、貧困の度合いが深刻になるにつれて、当事者を取り巻く現状もその原因も細分化される。その多様性、複雑性をOne-to-Oneマーケティング的なやり方で1つずつ地道に解決するのではなく、普遍的な製品やサービスによって一気に解決しようというのがCSV戦略でありイノベーションである。社会が多様であればあるほど、逆説的に高い普遍性が生まれる余地があることは、以前の記事「日本からイノベーションが生まれない根源的理由」でも触れた。

富松保文『アウグスティヌス(哲学のエッセンス)』―「自分を知る」とはどういうことか?

キリスト教圏の国、特にアメリカには、「主体」を超えて「自我」となる、別の表現をすれば、他者との個別具体的な比較関係を超えて神と直接つながって自己を発見し、イノベーションを起こす道が用意されている。翻って多神教国である日本の場合はどうであろうか?仮に、前述の人間主義や間人主義を克服することができたとしても、神仏とつながるとはどういうことを意味するのであろうか?あまた存在する神仏のいずれと結びつけばよいのだろうか?もし自分の好きな神仏を選ぶとしたら、それは他の神仏と比較検討していることを意味し、現実世界の「主体」的発想が神仏の世界に転写されただけとは言えないだろうか?

一神教国において自分を知るとはどういうことなのかは、本書を読んで多少の手がかりが得られた。では、多神教国において自分を知るとはどういうことなのだろうか?真の意味で自分を知ることができた時、他者との関係はいかなるものになるのだろうか?私は前掲の記事「日本からイノベーションが生まれない根源的理由」でも述べたように、日本人がイノベーションを起こす可能性についてはかなり悲観的である。とはいえ、それではあまりに希望がない。日本企業をこのまま暗澹たる競争社会の中にずるずると押しとどめて集団疲弊に至らしめるのか、はたまたアメリカのイノベーションとは異なる第三の道というものを見出し得るのか、これからも思索を続けたい。

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内発的アプローチで小規模企業の事業戦略をデザインする~私自身を題材に https://shain-keiei.biz/smallbusiness-strategy/ Wed, 07 Apr 2021 03:00:00 +0000 https://shain-keiei.biz/?p=1942  

《本記事と関連する研修サービス》

事業戦略を立案する方法には「外発的(外部環境)アプローチ」と「内発的(内部環境)アプローチ」があり、どちらかと言うと前者の方が一般的ではないかと思う。外発的アプローチは、あまたある業界の中から魅力的な業界を発見するところからスタートする。

魅力的であるとは、別の言い方をすれば収益性が高いという意味である。そして、業界の収益性を分析するフレームワークの代表例としては、マイケル・ポーターのファイブ・フォーシズ・モデルが挙げられる。ポーターは、業界ごとの収益性の違いが生じる要因として、①売り手(供給業者)の交渉力、②買い手(顧客、販売チャネル)の交渉力、③競争企業間の敵対関係、④新規参入業者の脅威、⑤代替品の脅威という5つを指摘した。これらの5つの力が弱い業界ほど収益性が高く、逆に強い業界ほど収益性が低くなる。

収益性が高い業界を特定した後は、その業界をさらに詳細に分析する。初めに、市場を①地理的変数、②人口動態変数、③心理的変数、④行動変数などの切り口によっていくつかのセグメントに分解する。次に、市場規模が十分に大きく、自社の組織資源とフィットしそうなセグメントにターゲットを絞る。そして、同じターゲットをめぐって競争する他社といかにして差別化するかを決定し、市場における自社の立ち位置、すなわちポジションを確立する。セグメンテーション⇒ターゲティング⇒ポジショニングという流れは、英語の頭文字を取ってSTPアプローチと呼ばれる。

これが外発的アプローチの大まかな流れである。しかし、業界や市場、競合他社に関する情報が豊富に入手可能で、かつそれらの情報を十分に分析する余裕のある大企業ならともかく、社員数が数人ほどの小規模企業で外発的アプローチを採用するのはほとんど現実的ではない。また、私のような中小企業診断士を含む各種士業で独立している方々の大半も小規模企業に該当するが、外発的アプローチで自分の事業を設計している人にはほとんどお目にかかったことがない。

中小企業診断士の場合で言えば、中小企業が抱える様々な課題、すなわち新製品・サービス開発、営業力強化、販路開拓、業務プロセス改善、製造ライン機械化、IT活用、人材育成、財務管理、事業承継ごとに、コンサルティング市場がどの程度存在するのかを推定し、自分が参入する市場を特定する。次に、その市場を業界や社員規模、地域といった変数で切り分け、ターゲット市場を絞り込む。そして、競合となる他の中小企業診断士やコンサルティング会社の特徴を踏まえて、自分の差別化の方向性を明確にする。これが外発的アプローチとなる。しかし、ここまで重厚な分析作業をしなくても、立派にビジネスを営んでいる中小企業診断士はたくさんいらっしゃる。

小規模企業の場合は、事業戦略立案のもう1つのアプローチである「内発的アプローチ」に立脚すれば足りると考える。私は今年で独立してちょうど10年になるものの、恥ずかしながら内発的アプローチすらまともに検討したことがなく、浮沈の激しい10年を送ってしまった。今回の記事では、内発的アプローチによって小規模企業が自社の事業をデザインする方法を、私自身を例にとって述べてみたいと思う。

内発的アプローチとは、換言すると「内なる軸」に基づくアプローチである。そして、内なる軸とは、①志、②コンピテンシー、③価値観の3つからなる。志は「私はどこへ向かうのか?」という方向性を、コンピテンシーは「何に基づいてそこへ向かうのか?」という資源を、価値観は「どうやってそこへ向かうのか?」という手段を表す。

小規模企業の事業は次のように整理できる。まず、ターゲットとなる顧客が存在し、彼ら彼女らに対して、自社としての価値を競合他社と差別化しながら提供する。その方法は、マーケティング・ミックスによって具体化される。マーケティング・ミックスとは、①製品・サービス(Product)、②価格(Price)、③Place(販売チャネル)、④Promotion(販売促進)の4つであり、英語の頭文字を取ってマーケティングの4Pとも呼ばれる。

そして、志はターゲットと提供価値/差別化要因を規定する。コンピテンシーは提供価値/差別化要因を規定する。価値観はマーケティング・ミックスを規定する。よって、小規模企業においては、代表者が内なる軸をはっきりさせれば、自社の事業について相当程度に一貫性の取れた形でイメージを固めることが可能となる。

私は前ブログの記事「【中小企業診断士】私が独立診断士として失敗した5つの原因」でも書いたように、自分自身の事業戦略が曖昧なせいで手痛い失敗を犯してしまった。前ブログの記事の内容を上図にあてはめてもう一度整理し直すと、私の失敗要因は以下の4つに集約される。

①志に関して=個人的な夢はあったが、本当の意味で志と呼べるものがなかった。独立したからにはお金儲けをしたいとは思っていたものの、それをストレートに表明するのははばかられたため、「顧客企業の社員が稼げるようにし、自分もその果実の分け前にあずかる」といった内容のビジョンを掲げていた。しかし、これでもかなり俗っぽい内容であり、私が私なりの味を出して社会に貢献する道筋を示すものになっていなかった。

②ターゲット=志がはっきりしていなかったため、ターゲットも明確ではなかった。何か案件の依頼を受けると、よく考えずすぐに飛びつき全力投入することの繰り返しであった。その結果、特定顧客への依存度が常に70~80%という、中小企業経営としては非常に危険な状態が続き、リスク分散ができなくなってしまった。

③製品・価格=中小企業診断士の世界では、コンサルティングという目に見えないサービスを販売する。しかし、目に見えないからと言って、どんな形のサービスを提供してもよいとは限らない。顧客企業の課題に対して、私なりにどのようなアプローチをするのか?そのアプローチの結果、どのような解決策や施策が導き出されるのか?というメソッドをまとめてプロダクト化する必要があったのに、私はそれを長らく怠っていた。

例えるなら、私のお店は何を売っているのかが外からは見えず、ただ時価とだけ掲げて営業していたような状態であった。顧客としては、私に何かを注文すると、いくらでどんなものが出てくるか解らず不安である。よって、「とりあえず安いお茶ぐらいにしておこうか」となってしまう。

④チャネル・販売促進=私は、自力での営業をほとんど行っておらず、他の中小企業診断士からの紹介案件に頼りすぎていた。②③とも関連するが、私は周囲の人たちから、とにかく頼めば安い価格である程度何でもやってくれる便利屋のように見られていたのかもしれない。したがって、仕事の内容や進め方、価格設定の面で主導権を握ることができなかった。

これらの問題を解消するために、私は自分の内なる軸をじっくりと見つめることにした。手始めに、ライフチャートというキャリア開発の分野でよく用いられるツールを用いて、これまでの人生の出来事を棚卸しした。下図は私のライフチャートである。縦軸は充実度、横軸は年齢を表す(下図では20歳以降とした)。

先ほど、内なる軸とは①志、②コンピテンシー、③価値観の3つであると述べた。このうち、一番分析しやすいのは②コンピテンシーである。コンピテンシーとは能力のことであり、ありていに言えば強みである。ただし、専門知識とは異なる。というのも、専門知識は時間とともに陳腐化しやすく、中長期的に事業の源泉とはならないからである。コンピテンシーは、「~する力」という形で表現される行動特性で、特定の仕事分野に限定されず、様々な分野で通用する能力を指す。

ライフチャートの中から、上手くいった仕事、十分な成果を上げた仕事のようなプラスのイベントを抽出し、自分のコンピテンシーを分析する。最初は洗い出せるだけ洗い出し、その後に「これは自分らしい」と思えるものを3つ程度に絞り込む。

私の場合、抽出したイベントは以下の4つであった。

①塾講師(22歳)=他の塾講師よりも多くの大学受験生を担当。それぞれの生徒に合わせた教材を開発し、学習スケジュールを立てることで、成績をアップさせた。

②社内資格制度構築のコンサルティングプロジェクト(26歳)=初めてプロジェクトを1人でリード。複数部門、複数階層にまたがる多様な関係者の協力を得て成果物をまとめ、社長・専務にも納得いただいた。

③中小企業向け補助金事業の事務局(32~35歳)=補助金のルールを柔軟に解釈しつつ、かつ周りの事務局員よりもスピーディーに各種書類を処理して、補助金をお支払いした。

④ブログ(34歳頃)=開設から10年ほど経った頃から、自分でも納得のいく文章が書けるようになった。「解りやすい」、「読みやすい」という評価もいただけるようになった。

この4イベントから、「学習のヒントを与える力」、「計画を立てる力」、「フレームワークを駆使する力」、「利害関係者を巻き込む力」など8つのコンピテンシーを導き出した。そして、類似のコンピテンシーを集約して、最終的には「相手に考えさせる力」、「相手の立場に合わせる力」、「アウトプットする力」という3つとなった。

次に分析するのは価値観である。価値観とは行動規範のことであり、正解のない意思決定を下す際に判断基準として用いられるものである。企業経営において価値観が非常に重要であることを説いたのは、『ビジョナリー・カンパニー』シリーズを著したジェームズ・コリンズである。コリンズによれば、偉大な企業となるのに、よい価値観・悪い価値観というものはない。

一般的に、偉大な企業と言えば顧客志向の価値観を掲げていると思われがちだ。しかし、コリンズは顧客志向は必須ではないとしており、現に設立趣意書に技術志向が色濃く表れているソニーをビジョナリー・カンパニーの1つに数えている。さらに言うと、世間からの風当たりが強いたばこ産業の巨人であるフィリップ・モリスも、コリンズにとっては確固とした価値観を基盤に経営を行っている偉大な企業である。

フィリップ・モリスの例はそれでも善悪の評価が分かれるかもしれないが、ここではもう少し単純な例を取り上げてみたい。ビジネスをデザインするにあたり、顧客、ビジネスモデル、組織の3要素に関して、以下のようにそれぞれ2通りの考え方が成り立つ。

【選択1】顧客数
A:多くの顧客を対象として、社会に広く影響を及ぼす仕事がしたい。
B:特定少数の顧客とじっくりと付き合い、顧客のために深く貢献したい。

【選択2】ビジネスモデル
A:できる限りシンプルで、誰に対してもわかりやすく説明できるようなビジネスにしたい。
B:簡単には理解されなくても、差別化された専門性を強みとして持つビジネスにしたい。

【選択3】組織
A:ルールやシステムをしっかりと整え、効率的にマネジメントできる組織にしたい。
B:社員の創意工夫を促すため、できるだけ管理の少なくてすむ組織にしたい。

A・Bともに、どちらが正しいと決定づけることは非常に困難で、個人の価値観に依存する。【選択1】~【選択3】についてA・Bどちらかを選択すると、ビジネスの形態としては全部で8通りが想定される。個々の価値観の善悪を決定することがほぼ不可能であるのと同様、選択を積み重ねた結果としてでき上がるビジネスの形態にも善悪はない。ただ1つ確かなのは、8つの形態の中に客観的な正解はないものの、個人が選択した形態は、本人の価値観と密接に結びついている限り、その人にとって絶対的に正しいということである。

自分の価値観を発見するには、ライフチャートの中から、今度は失敗も含めて印象に残っている出来事をピックアップする。そして、その出来事からどういう考え方を学んだかを文章で記述する。コンピテンシー分析の場合と同様に、まずは価値観を洗い出せるだけ洗い出し、その後に「これは自分らしい」と思えるものを5つ程度に絞る。

私の場合、以下の5つのイベントに注目して価値観を特定した(それ以外にもたくさん候補はあったが、「それは私らしいか?」という基準に照らし合わせて却下した。例えば「120%のチャレンジが必要な仕事をする」は、私からすると一般的な成功哲学によく見られる信条で、必ずしも私らしいとは言えなかった)。

①塾講師(22歳)=他の講師が手を焼いた受験生2人を担当。遅刻しようが宿題を忘れようが叱らずに見守り続けただけだったが、大学に合格した。
⇒「見守ることで成長を促す」

②外資系コンサルとの研修開発(25歳)=外資系コンサルの人と部下マネジメント研修を開発していた時、テキストの最後に私が参考情報として『老子』の一文を入れたら、「俺はよく解らないから」と言われて消されてしまった。外資系コンサル出身ではない私は、どうすれば外資系コンサルの人と戦えるのかと随分悩んでいたのだが、この出来事をきっかけに、古典などを使えば彼らと差別化できるのではないかと思うようになった。
⇒「温故知新の精神で行く」

③顧問契約をしない前職(27歳)=前職のコンサル会社では、企業から年単位の顧問契約を打診されても、「アウトプットの範囲が明確でない」とお断りしていた。アウトプットを出さなければ顧客からはお金をいただけないのだと学んだ。
⇒「形式知を創出する」

④巨人の肩に乗っている(社会人生活を通じて)=私の知識は過去の偉人の産物であるから、私が独占するのはおかしい。また、元来、人に物事を教えるのが好きである。
⇒「ノウハウを積極開示する」

⑤30代半ばの事業の失敗=仕事がない状態が怖くて、アルバイト程度のお金にしかならないと解っていても目の前の仕事に飛びついてしまった。
⇒「自分を安売りしない」

最後は志である。「自分が本当にやりたいこと」とはいったいどのように導かれるのかと考えると、この志が最も難しいことに気づかされる。通常は直観的に明らかになるようにも思える。だが、敢えてフレームワークを使って志を描写する方法を下図のようにまとめてみた。

志は、「自分もしくは他人の成功を他の人にも広めたい」、「自分もしくは他人の失敗と同じ思いを他の人には味わってほしくない」という願いから生じる。左上は「自分の成功」を他の人にも広め「共有」したいという志である。右上は「他人の成功」に「憧れ」、それを他の人にも教えたいという志である。左下は「自分の失敗」を「教訓」とし、他の人を同じ目に遭わせたくないとする志である。右下は「他人の失敗」に「共感」、彼ら彼女らを失意から救おうとする志である。

私の志の最大の源泉は、前職のベンチャー企業での失敗にある(以前の記事「ベンチャー失敗事例」シリーズを参照)。人材育成をテーマとしている企業でありながら、自社の社員育成が十分でなく、グループ全体で最大50人ほどいた社員が、私の退職時には10人あまりにまで減少してしまった。同程度の規模の企業には私と同じ事態を経験してほしくない。そして、“50人の壁”を超えて持続的に成長する企業を支援したいというのが私の強い願いである。

また私は、世界的に大成功した経営学者であるピーター・ドラッカーの思想が若い時から好きである。さらに、最近は中国儒教の重要な経典である四書五経に強く惹かれるようになった。儒教は古くから日本文化と密接な関係にあるし、ドラッカーの経営学は20世紀後半の日本企業の発展に大きく影響を与えた。私は、これらの教えをもっと広く知ってもらいたいと思っている。とはいえ、四書五経もドラッカーも、今の日本にそのまま適用できるとは限らない。現代の社会的文脈の中で再解釈した上で、日本らしい経営学を構築するという、かなり壮大なプランを抱いている。

私の志は、この「教訓」と「憧れ」が結びついたもので、「ドラッカーや四書五経を日本的に再解釈しつつ、中小企業が人材育成を通じて50人の壁を超える方法を創造すること」である。

私自身の事業の話からはやや脱線するが、「共有」と「共感」に関しても志がある。私は大学受験も中小企業診断士の受験も、塾や予備校に通わずほぼ自力で乗り越えてきた。よって、効率的に学習効果を上げる方法を知っているつもりである。そのノウハウを伝えたいというのが「共有」にあたる。また、本HPをよく読んでいただけるとお解りいただけるように、私は精神疾患に罹患した経験がある。そして、似たような疾患で苦しみ、職場復帰できずに人生の大幅な軌道修正を余儀なくされた精神障害者を数多く見てきた。そういう人たちに「共感」し、仕事で生きがいを発見できる環境を作りたいとの思いも持っている。

どちらも社会貢献事業として取り組むことを検討中である。HPの「【募集】ボランティアをさせていただける事業所/ご家庭を募集しています」というページで、ボランティアとして、生活困窮世帯向けの家庭教師や、就労移行支援事業所のスタッフをさせていただける機会を募集しているのには、実はこうした背景がある。

ここまでの分析で、私の内なる軸、すなわち志、コンピテンシー、価値観を導き出すことができた。この内なる軸に基づいて、私自身のビジネスをデザインしたものが下図である。

「ドラッカーや四書五経を日本的に再解釈しつつ、中小企業が人材育成を通じて50人の壁を超える方法を創造すること」という志からは、「管理職育成に前向きに取り組む社員数50~100人程度の中小企業」というターゲットが特定される(この規模の企業では、管理職が業績の要を握っている反面、プレイングマネジャー化しており組織全体の能力を十分に活かし切れていないという課題を抱えていることが多い。そこで、特に管理職育成に注力する)。

また、この志と、「相手の立場に合わせる力」、「相手に考えさせる力」、「アウトプットする力」という3つのコンピテンシーに基づいて、「管理職が1人でも/複数人でも繰り返し読み、手を動かし、考え、議論する機会の提供」という提供価値を掲げた。志に含まれているドラッカーや四書五経の思想は、差別化の源泉の一部となる。私は、「考える深さ」や「基盤となる知識の深さ」で、他の人材育成会社との差別化を目指している。

「見守ることで成長を促す」、「温故知新の精神で行く」、「形式知を創出する」、「ノウハウを積極開示する」、「自分を安売りしない」という5つの価値観は、マーケティング・ミックスを規定する。「やること」と合わせて「やらないこと」もはっきりさせるのが重要である。本記事の冒頭で触れたマイケル・ポーターは、「戦略とは何を“やらないか”を決めることだ」と述べた。

私が提供する「製品」は、「考えるツールの集合」である。現在は研修事業を柱としているが、必ずしも研修という形態にこだわらなくてもよい。逆に、例えばアドバイスベースの顧問のような、ドキュメント(アウトプット)を伴わない仕事は原則として引き受けない。これは、「形式知を創出する」、「温故知新の精神で行く」という価値観に基づいている(誤解があるといけないので一言つけ加えておくと、アドバイスベースの仕事は“有償”では引き受けないという意味であり、“無償“のアドバイスについては、私が好き勝手言ってよいのであればいくらでもする)。

「価格」に関しては、顧客企業が人材育成に積極投資していると思わせる金額を設定する(だから、当事務所の研修は他社に比べるとやや高いと思う)。一方、成果報酬や低額のスポットは基本的にもうやらない。これは、「自分を安売りしない」という価値観に立脚している。

私は1人で仕事をしていることもあり、営業効率を追求するためにHP(ブログ)やSNSといった「販売チャネル」を積極的に活用する。Webチャネルを通じて、「形式知を創出」し、「ノウハウを積極開示する」という意味合いもある。反面、「自分を安売りしない」という価値観に従い、価格や仕事の主導権を握ることが困難な紹介には依存しない。

「販売促進」については、紹介案件に頼りすぎた過去を反省し、主体的に営業を展開する。その際、顧客企業が自ら課題に気づくようなツール(その1つとして「【無料】組織風土診断」がある)も提供していく。これは、「見守ることで成長を促す」という価値観とも関連する。主体的な営業と言っても、やみくもに飛び込みやDM、FAXでアプローチするといったプッシュ型の営業はせず、顧客企業の関心を上手く引きつけるプル型の営業を行う。

戦略立案の内発的アプローチは、本人の人生観をふんだんに反映させ、周りに左右されず自分なりに筋の通った事業を設計できるという利点がある。端的に言えば、自信と納得感を持ってビジネスを推進することが可能になる。このワークは、社員が数名程度の小規模企業において、代表の考え方を自社の仕事の中に練り込む際に有効ではないかと考える。また、私と同じように中小企業診断士として独立を計画している方も、守備範囲が広いこの業界で自分がいかに生き抜くか明確な羅針盤を持つために、このワークに取り組むとよいだろう。

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精神障害者雇用の3つのポイント~通常の採用準備・面接・定着支援と比較して https://shain-keiei.biz/seishin-shougaisha-koyou/ Wed, 24 Mar 2021 03:00:00 +0000 https://shain-keiei.biz/?p=1945  

《今回の記事と関連する研修サービス》

「障害者雇用促進法(障害者の雇用の促進等に関する法律)」により、社員数が一定数以上の規模の事業主は、社員に占める身体障害者、知的障害者、精神障害者の割合を「法定雇用率」以上にする義務を負う。民間企業の法定雇用率は2.2%であり、社員を45.5人以上雇用している事業主は、障害者を1人以上雇用しなければならない(社員数に法定雇用率を掛け、小数点以下を切り捨てた数字が雇用する必要のある障害者の人数となる)。なお、今年(2021年)3月1日から法定雇用率が2.3%に引き上げられるため、対象となる事業主の範囲は43.5人以上に広がる。社員数が43.5人以上45.5人未満の事業主には、新たに障害者雇用の義務が生じる。

(※)参考までに、特殊法人、独立行政法人、国・地方公共団体の法定雇用率は2.5%、都道府県などの教育委員会の法定雇用率は2.4%である。3月1日以降、法定雇用率はそれぞれ2.6%、2.5%に引き上げられる。

障害者を雇用する上では、作業施設・設備の改善、職場環境の整備、特別の雇用管理が求められ、一般の雇用に比べて経済的負担を伴うことが多い。そこで、障害者を多く雇用している事業主の経済的負担を軽減し、事業主間の負担の公平を図りながら、障害者雇用の水準を高めることを目的として、「障害者雇用納付金制度」が設けられている。

具体的には、まずは法定雇用率が未達成の企業のうち、常用労働者100人超の企業から、障害者雇用納付金(未達成の人数×50,000円)を毎月徴収する。この納付金を原資として、法定雇用率を達成している企業に対し、障害者雇用調整金を支給する。常用労働者100人超の企業の場合は、法定雇用率を上回る人数×27,000円が毎月給付される。常用労働者100人以下の企業に関しては、障害者を4%または6人のいずれか多い数を超え雇用している場合に給付対象となり、障害者1人あたり毎月21,000円が給付される。

(※)他にも特例調整金、特例報奨金、特例給付金の制度がある。詳細は厚生労働省HPを参照。

障害者を雇用するメリットとしては、第一には障害者雇用納付金の徴収を回避し、さらに法定雇用率を上回る雇用を達成すれば障害者雇用調整金が受けられるという点が挙げられる。ただし、これは法令遵守という最低限のラインをクリアしたにすぎない。一歩進んでいる企業は、ダイバーシティ(多様性)の実現やSDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)の達成を通じて社会的責任を果たし、企業のイメージアップを狙うことだろう。

個人的には、たとえそこまで深遠なゴールを追求しなくても、障害者雇用の取り組みを通じて、「働きやすい職場」が実現されることが最大のメリットではないかと考える。前述のように、障害者を雇用すると、職場は環境面や人事制度面で特別の配慮を払うことになる。元々は障害者のために行った配慮を、職場内の公平感を保つことを目的に、一般の社員に対しても推し広げていく。そうすれば、あらゆる社員にとって職場が働きやすいものとなり、社員満足度が向上する。

例えば、知的障害がある社員に対し、文章の理解が苦手であるという特性に配慮して、イラストを使って業務手順を指示するようにしたとしよう。そのやり方は、知的障害者だけでなく、実は一般の社員にとっても理解しやすいものかもしれない。知的障害者の雇用をきっかけに社内の業務手順書やマニュアルが見直され、その結果として業務上のミスが減少する可能性もある。

ADHD(多動性・注意欠陥障害)のような発達障害がある社員に対し、業務に集中しすぎた時に休憩できる簡易スペースを確保したとしよう。だが、業務負荷が高まった場合にちょっと休憩したいと思うのは一般の社員も同じである。そこで、思い切ってオフィスを改装し、休憩室を設置する。費用はかかるものの、社員の満足度が上がるとともに、勤務中に適宜休憩をはさむことでかえって業務効率が高まることも期待できる。

精神障害がある社員に対して、満員電車内で予想されるストレスに不安があり通勤が困難な場合には在宅勤務を許可したとする。それをきっかけとして、全社的に在宅勤務制度を導入してもよいだろう。小さい子どもがいる女性社員にも喜ばれるかもしれない。また、介護休暇を取得して時々実家に帰り親の介護をしなければならなかった社員が、介護休暇を消化せずに、実家で多少なりとも仕事をすることが可能になるかもしれない。

障害者雇用制度においては、2018年4月から雇用義務の対象に精神障害者も追加された。現在の精神障害者の雇用者数はおおよそ5.0万人で、全国に約400万人いると言われる精神障害者全体に占める割合は低いのが現状である。今回の記事では、精神障害者に焦点を絞り、精神障害者の採用準備、面接、定着支援におけるポイントを、一般社員の場合と比較しながら述べてみたいと思う。

(1)採用準備

「どんな仕事をしてもらう人材を、何人採用するのか?」を決めることがスタートとなる。まずは将来の経営目標を設定し、その目標を達成するための組織図を描いて、人員構成を明らかにする。例えば、現在売上高3億円の企業の営業部門が下図のような構成になっていたとしよう。3年後に売上高を4億円にまで増やすという経営目標を立て、3年後の組織図を組み立てる。

A部長は3年後には定年退職することが決まっており、B課長を部長に昇進させる。また、新規開拓を担当していたDさんは、かねてから他部署への異動を強く希望していることから、3年後にはその願いを叶えてあげる。売上拡大を計画しているため、新規開拓担当を2人から3人に増やし、今まで既存顧客のフォローを担当していたFさんとGさんの2人を、営業スキルアップも兼ねて新規開拓担当に変更する。すると、既存フォローが誰もいなくなってしまうのだが、1人は他部署からHさんを異動させることができそうである。

このように組織図を描いてみれば、新規開拓を担当する課長と、既存フォローを行う担当者はどうしても社内で調整することが難しいと判明する。よって、この2人を新たに採用しなければならない。採用ターゲットが決まったら、その具体的な人材要件を定義する。おおよその年齢、過去の経験業務なども重要であるが、最も大切なのは「我が社でそのポジションの業務を遂行するにはどんなスキルが必要か?」という能力要件である。上図では、採用ターゲットである2人について、それぞれ5つずつコアとなる能力を整理している。

精神障害者を採用する場合も、本来であれば一般の社員のケースと同様にして準備を進めたいところであるが、実際には今社員が行っている業務のうち、精神障害者に遂行可能な業務を“切り出す“のが現実的であろう。ただ、できることとできないことが比較的はっきりしている他の障害者とは異なり、精神障害者は人によってスキルに相当のばらつきがある。よって、この業務が精神障害者に向いているとなかなか言い切れないのが難しいところである。

とはいえ、知的障害者や発達障害者は精神障害を併発するケースがあり、知的障害者や発達障害者が得意とする業務に関しては、これまでの数多くの企業による実践を通じて、ある程度の知見が形成されている。よって、精神障害者の採用準備を進めるにあたっては、この知見が1つの参考情報になると思われる。

<知的障害者に向いている業務>
(※大胡田誠、関哉直人『今日からできる障害者雇用』〔弘文堂、2016年〕より)


①現業業務
・組立/物流作業補助
・作業に伴い発生する廃棄物の収集運搬

②非現業業務
・人事/総務/経理事務
・HP作成
・スタンプ押し
・名刺作成
・DM封入、販促品の発送
・文書PDF化、高速コピー、製本
・清掃、ランドリー
・事務用品/コピー用紙補充

<発達障害者に向いている仕事>
(※木津谷岳『専門キャリアカウンセラーが教えるこれからの発達障害者「雇用」』〔小学館、2018年〕より)


①アスペルガー症候群
・ルールやマニュアルがしっかりしている仕事(経理、財務、法務、コールセンター、テクニカルサポート)
・気分に左右されない論理的な仕事(プログラマ、ネットワークエンジニア)
・視覚優位が活かせる仕事(CADオペレータ、工業系デザイナー、設計士)

②ADHD
・自分の興味が活かせる仕事(編集、ディレクター、カメラマン)
・ものづくりに関わる仕事(料理人、整備士、プログラマ、アニメーター、デザイナー)
・専門分野が活かせる仕事(研究者、学者、塾講師、教員)

初めて精神障害者を雇用する企業においては、まずは上記に近い業務を社内で探し、その業務に挑戦できる人の採用を目標とするのがよいと考える。

(2)面接

採用面接では、応募者が自社の求める人材像に合致しているかどうかを明らかにする。先ほどの例では、既存フォローの営業担当者に要求する能力として、「顧客の潜在ニーズをくみ取る力」、「粘り強く提案を持ちかける力」など5つのスキルを定義した。面接では、応募者のこれまでの仕事内容を様々な角度からヒアリングし、能力の度合いを判定する。

例えば、「顧客の潜在ニーズをくみ取る力」に関しては、「お客様から『これがほしい』と言われる前に、ニーズを先取りして提案した経験はありますか?」と質問する。応募者が個別の事例を挙げ、その時に自分が実践した具体的な行動を詳細に説明できれば、能力が高いと評価できる。

一方で、「一定期間取引がなかったお客様には、こちらから電話して様子伺いのアポを入れるようにしていた」といった抽象的な説明に終始している場合は、あまりスキルが高くないと見てよい。また、年齢や経験を重ねた人であるほど、「その人自身の成果」と「チームや部門、果ては会社全体の業績」との区別がつかなくなるため要注意である。応募者が、「私がいた課では毎期営業目標を達成していた」とアピールしても、その人のマネジメントスキルが優れているとは限らない。本人が具体的に取った行動にフォーカスを当てることがポイントとなる。

能力の評価以上に、応募者の価値観が自社の価値観と合致しているかを確認することは極めて重要である。極端なことを言えば、能力面で多少問題があったとしても、入社後の人材育成で何とかカバーできる。一方で、価値観、言い換えれば業務上の重要な局面で意思決定を下す際の判断基準について齟齬があると、組織運営に支障をきたす。

例えば、自社が「ルールを守り卓越した成果を追求する」という価値観を掲げていたとしよう。能力を評価する場合と同様に、応募者のこれまでの仕事ぶりを聞き出し、応募者のものの考え方が自社の価値観にフィットしているかどうかを分析する。質問例としては、「道義的に問題がありそうな状況に直面した際、ルールを守りつつ成果を上げるために何か工夫したことはありますか?」といったものが考えられる。

ここで、「道義的に問題がありそうな状況に直面した際、ルールを守りつつ成果を上げるために“どうしますか?”」と尋ねるのは望ましくない。将来のケースを想定してどんな対応をするか聞いても、相手はおそらく教科書的な模範回答しか返してこない。判断材料となるのは、ここでもやはり応募者の過去である。

応募者の年齢が若いと、能力が十分ではなく、さらに価値観と呼べるものも本人の中にまだ醸成されていないことがある。その場合は、応募者の基本的な性格が自社に向いているかどうかを評価する。若手社員に求められる性格は、「素直さ」、「責任感」、「思いやり」といったところだろう。例えば、「お客様や上司からの意見を受けて、自分の今までの考え方を改めた経験はありますか?」といった質問を通じて、本人がどの程度素直な性格の持ち主なのかを見極める。

採用面接では、応募者に対しやみくもにたくさん質問すればよいというわけではない。まずは自社が求める能力、価値観、性格とはどのようなものなのかを整理し、応募者がその要件を満たしているかどうか、本人の過去に迫る質問をあらかじめ用意しておくことがカギである。ここまで述べてきた例も含めて、質問の一覧例を以下に示す。

精神障害者の採用面接では、上記以上のことを質問する。確認すべきは、「障害の認識」、「基礎的能力」、「支援の環境」の3つである。まず、応募者本人が自身の障害をどのように把握しているのかを説明してもらう。どういう症状が出るのか、どんな時に具合が悪くなるのか、具合が悪くなった時、あるいは悪くなる前に職場ではどんな配慮をすればよいか、といったことを尋ねる。精神科医のように専門的に回答できる必要はなく、自分なりに障害としっかり向き合っていることが観察できればよい。障害者手帳を持っているにもかかわらず、「私の病気はよくなった」、「仕事中は症状が出ることはない」などと自分をよく見せようとする人には気をつけた方がよい。

次に「基礎的能力」である。たとえ特定の業務を遂行する能力があったとしても、それ以前の問題として、社会人として継続的に働くことができなければ意味がない。規則正しい生活を送ることができているか、通勤には耐えられるか、周りの人と基本的なコミュニケーションは取れるか、といった点が評価の対象となる。

最後に「支援の環境」である。精神障害者に限らず、障害者は様々な社会的リソースを活用している。企業が障害者を雇用した後で何か問題に直面した際、自社でそれを丸ごと抱え込んでしまうと苦しくなる。社会的リソースにアクセスすることで、問題がスムーズに解決することもある。

もし、応募者が就労移行支援事業所のような支援機関を利用しているならば、その支援機関と自社が連携を取れそうか尋ねる。さらに、社会的リソースとして極めて重要なのが、応募者の家族である。応募者と家族の関係に立ち入りすぎるとプライバシー上の問題があるものの、いざという時に自社が家族と連絡が取れるかどうかは最低限確認しておきたい。

以下、精神障害者の採用面接における質問例を列記する(※刎田文記、江森智之『成功する精神障害者雇用―受入準備・採用面接・定着支援』〔第一法規、2017年〕を基に作成)。


<障害の認識>
①障害の状況
「ご自身の障害はどのような症状が出るものなのか?」
「通院・服薬は適切にできているか?」
「主治医とは何でも相談できる関係性ができているか?」
「当社から主治医に対し、情報提供などの協力を依頼しても問題ないか?」

②ストレス耐性
「どのようなケースで体調を崩しやすいか?」
「体調を崩した場合にはどのように対処しているのか?」
「今日面接を受けてどのような気分になったか?」

③必要な配慮
「通院のための休暇は必要か?」
「勤務中、こまめに休憩を取る必要があるか?」
「音や光に敏感ということはないか?」
「苦手な業務はあるか?どんな支援があると望ましいか?」
「対人関係上必要な配慮はあるか?」

<基礎的能力>
①日常生活のリズム
「3食取ることができているか?睡眠時間は確保できているか?」
「現在の1日のすごし方はどのようになっているか?」

②通勤能力
「通勤(往復)の練習はしたか?」
「その他の公共交通機関を使うことに問題はないか?」

③対人態度
「周りからの心遣いや支援に対してお礼を言うことはできるか?」
「周りからの注意や助言を素直に受け止めることができるか?」

<支援の環境>
①支援機関
「就労移行支援事業所などは利用したか?どのような訓練をしたか?」
「当社から支援機関に対し、情報提供などの協力を依頼しても問題ないか?」

②家族との関係
「ご家族は障害のことをどのように理解しているか?」
「ご家族はどのようなサポートをしてくれているか?」

(3)定着支援

社員が入社した後は、上司と本人が面談をして、業務や職場環境に馴染んでいるかをモニタリングし、問題がある場合には解決策をともに模索していく。入社直後は1~2週間に1回と頻繁に行い、毎回30分ぐらい時間をかける。入社から数か月が経過すれば、1か月に1回ほどへと頻度を落とし、1回あたり15分程度に短縮してもよいだろう。面談の中身ももちろんであるが、面談を実施することで、「上司は自分のことを見てくれている」と本人に感じてもらうことに意義がある。モチベーションにとって最大の敵となる職場の孤独は、何としてでも防がなければならない。

面談では、本人と上司の間で、仕事、対人関係、日常生活の3つについて、「できていること」と「まだまだなこと」の認識を合わせる。最初に本人の口から「できていること」と「まだまだなこと」を語ってもらい、次に上司の目から見て「できていること」と「まだまだなこと」を話すことで、両者の見解をすり合わせていく。面談の後半では、本人からの職場環境改善要望を聞き、上司としての対応を決定する。毎回面談が終わるたびに、上司は下図のような1枚メモを作成し、部下と共有すると効果的である。

精神障害者が入社した後も、上司は同じように面談を重ねる。加えて、私が推奨したいのは、「トリセツ(取扱説明書)」の普及である。プロ野球でFA宣言した選手が別の球団に移籍すると、ネット上では移籍先球団のファンが元の球団のファンに対して、「この選手の『トリセツ』を教えてくれ」とお願いするケースが見られる。「トリセツ」では、その選手の得意なことや苦手なことをはじめとして、チームに対する考え方やプライベートでの振る舞いまで事細かに語られる。

もちろん、内容自体はネット上のネタの域を出ない部分も多々あるのだが、「得意なことや苦手なことをオープンにして、組織に早く溶け込めるようにする」という発想には私も大いに賛同している。以前の記事で、私は障害者が自らの「トリセツ」を公開し、一般の人も障害者と「トリセツ」を交換して、お互いのことを尊重し支援し合える社会ができれば理想だと書いたことがある。

障害者に対しては、ややもすると「○○ができない人」というイメージが先行する。そこで、障害者が「得意なこと」を公表し、「自分にはこんなことを任せてほしい」と宣言すれば、組織内で障害者に対するポジティブなイメージが高まるに違いない。

逆に、一般の社員は、仕事とは自分の強みを発揮する場であって、簡単には周りに弱みを見せてはいけないと信じ込んでいる。しかし、障害者はその障害ゆえに色々と配慮を受けているのを目の当たりにするにつけ、本当は一般の社員にも配慮してほしい弱みがあるのに、それが障害者ほどには尊重されていないと不公平感を覚えるだろう。一般の社員の場合は、障害者とは逆に「苦手なこと」を明らかにし、「周りからこういう支援を受けたい」と打ち明ける。人は、他人の意外な困りごとには思わず手を差し伸べたくなるものである。信頼関係が極端に破綻している組織でない限り、自発的な協調関係が生まれるであろう。

参考までに、精神障害を持っている私の「トリセツ」を以下に掲載する。「トリセツ」は1人1枚に収める。そして、職場ではそれぞれの社員が皆の「トリセツ」をファイルにまとめ、いつでも参照できる場所に保管しておく。社員をより大切にする企業であれば、少しお金をかけて「トリセツ」を冊子にしてもよいかもしれない。

残念ながら、精神障害者の離職率は他の障害者よりも高く、入社して1年以内に離職する人が約半数を占めるのが実態である。これは、入社時のミスマッチと、入社後のフォロー不足が原因であると推測できる。法律が障害者雇用を要請しているからという受け身を超えて、今回の記事で書いたような採用準備、面接、定着支援を能動的に実践し、障害者雇用を職場全体の改善につなげられる企業が増えることを願っている。

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ジョセフ・ナイ3部作『ソフト・パワー』、『リーダー・パワー』、『スマート・パワー』を読んで  https://shain-keiei.biz/josephsamuelnyejr/ Wed, 10 Mar 2021 03:00:00 +0000 https://shain-keiei.biz/?p=1742  
ソフト・パワー 21世紀国際政治を制する見えざる力
ジョセフ・S・ナイ
日本経済新聞出版
2004-09-14

リーダー・パワー
ジョセフ S ナイ
日本経済新聞出版
2008-12-17

スマート・パワー―21世紀を支配する新しい力
ジョセフ・S・ナイ
日本経済新聞出版
2011-07-21

ジョセフ・ナイはアメリカの政治学者で、民主党政権でしばしば政府高官を務め、ジャパン・ハンドラーとしても知られる人物である。ナイの3部作『ソフト・パワー』、『リーダー・パワー』、『スマート・パワー』を約10年ぶりに読み直してみたのだが、本によって少しずつ主張している内容が変化しており、ナイの考え方をトレースするのに苦労した。今回の記事は、私なりにナイの議論の問題点を列挙するものである。

国際政治とは、主体のパワーがぶつかり合う舞台である。『ソフト・パワー』の中では、パワーとは「自分が望む結果になるように他人の行動を変える能力」と定義されている。国際政治の舞台において、国家が発揮する典型的なパワーと言えば、軍事力と経済力である。ただし、軍事力と経済力だけで、相手国の行動を望ましい方向に変えることができるとは限らない。ナイは外交政策や価値観、文化といった資源の有効性に注目し、これらの資源に基づくパワーを「ソフト・パワー」と呼んで、従来の軍事力や経済力を「ハード・パワー」とカテゴライズした。

ハード・パワーは「誘導と脅し」つまり「飴と笞」の両方に基づいている。これに対して、ソフト・パワーは「人びとの好みを形作る能力」に基づく。ハード・パワーがプッシュ型の支配力であるとすれば、ソフト・パワーはプル型の吸引力である。とはいえ、実際のところ、ハード・パワーとソフト・パワーは連続しており、支配力が弱まり吸引力が強まるにつれて、強制⇒誘導⇒課題設定⇒魅力という形でパワーの行使形態は変化していく(『ソフト・パワー』)。

一般的に、ナイの学問的業績と言えば、このソフト・パワーという概念の発見を指す。しかしながら、国際政治において文化などが影響力を持つことを指摘したのは、ナイが初めてではない。E・H・カーは早くも1930年代に、政治における権力を軍事力、政治力、宣伝力という3つに分類した。H・モーゲンソーは第2次世界大戦直後に、現状の変更を実現する政策(モーゲンソーの言葉では帝国主義)には軍事帝国主義、経済帝国主義、文化帝国主義の3種類があると整理した。ナイの発想は、彼らの延長線上にあるものと言ってよいだろう。

ナイは、「力を生み出す資源」と「力」そのものを混同しないようにと繰り返し警告している。トランプゲームを引き合いに出して、ポーカーなら勝てる高位札を持っていても、その時のゲームがブリッジなら役に立たないというわけである。力を生み出す資源として我々がすぐに思いつくものには、人口、領土、天然資源、軍隊の強さ、経済規模などがある。資源は客観的に測定することが容易であるがゆえ、パワーの大きさを推定しやすい。ところが、その資源を適切にパワーに転換する「能力」がなければ、せっかくの資源も宝の持ち腐れとなってしまう。

第1作目の『ソフト・パワー』では、この「能力」の中身が必ずしも明確ではなかった。能力に関する具体的な議論は、第2作の『リーダー・パワー』で展開される。ナイは、ハード・パワーに転換する能力として①組織能力、②マキャヴェリズム的スキルを、ソフト・パワーに転換する能力として①EQ(心の知能指数)、②コミュニケーション、③ビジョンを挙げた。

「資源が能力によってパワーに転換される」という構図は、第3作目の『スマート・パワー』になるとよりはっきりする。もっと言えば、それまでは軍事力や経済力を端的にハード・パワーと位置づけていたナイの見方に大きな変化が現れる。つまり、軍事力や経済力であってもソフト・パワー的な側面を有することがある点を認めているのである。

人員、武器、戦略、外交、組織、予算などの軍事資源は、ハード・パワーに転換する能力(ナイはこの能力に特別の名称を与えていないが、上図では解りやすくするために「ハード・スキル」と名づけた)によって、戦闘、破壊、威嚇外交といったハード・パワーの行使に至る。一方で、同じ軍事資源を用いても、ソフト・パワーに転換する能力(同じく、上図では「ソフト・スキル」とした)をもってすれば、同盟、平和維持、援助、訓練といったソフト・パワーの行使に至る。

経済力に関しても同様である。GDPの規模と質、技術、天然/人的資源、市場に関する政治/法律制度などの経済資源は、ハード・スキルによって制裁、報奨といったハード・パワーの行使に至る。一方で、同じ経済資源を用いても、ソフト・スキルをもってすれば、経済援助といったソフト・パワーの行使に至る。

ナイの議論をめぐる1つ目の問題は、前述のように「力を生み出す資源」と「力」そのものを区別しなければならないというナイ自身の忠告にもかかわらず、ナイは国家のパワーを資源によって評価する傾向が強いということである。『スマート・パワー』では、アメリカとヨーロッパ、日本、ブラジル、ロシア、インド、中国のパワーを比較評価し、アメリカが覇権を譲る日が来るのか否かを予測している。しかし、判定の根拠となっているのは、主に軍事・経済資源の大きさである。

アメリカが過去にロシアの軍事資源のみ、日本の経済資源のみに着目してしまった(そして、両国のパワーを過大評価してしまった)という反省は活かされているものの、資源と能力を区別するという根本的な原則は遵守されていない。

確かに、『リーダー・パワー』で抽出したハード・スキルやソフト・スキルそのものを評価することが困難である点はナイも理解している。そのため、ヨーロッパのパワーを評価するにあたっては、「ヨーロッパの統合度」という新しい尺度を持ち出している。ヨーロッパの各種資源がハード/ソフト両面のスキルによって転換された結果の1つがヨーロッパの統合度合いに現れるという発想に立っているのだが、それにしてもあやふやな指標である。

では、どうすれば能力の大きさを測定することができるだろうか?我々は、ある国のパワー行使が功を奏すれば、その国の能力をつい高く評価してしまいがちである。これは企業においても同じであって、ある社員の成果が大きければ、その社員の能力を高く見積もる傾向が強い。だから、1990年代から日本企業に急速に広まった成果主義に対して、日本企業の伝統である能力主義をやはり貫かなければならないと批判を向ける人が、結局は成果主義的な評価を行ってしまうというジレンマにしばしば陥る。

国家の能力を正しく評価するためには、その国家が取った具体的な政治的行動を丁寧に拾い上げるしか方法はないと考える。ハード・スキルを評価するには、組織能力が発揮された行動、マキャヴェリズム的スキルに該当する行動を1つずつ描写する。ソフト・スキルを評価するには、EQが発揮された行動の他、その国の具体的なコミュニケーションやビジョンを1つずつ検証する。

ポイントは、国家のパワーが成功を収めた場合だけでなく、失敗に終わった場合においても、同じように行動を評価することである。成功する時は必要な行動を取ることができるのに、失敗する時はからっきし行動が取れなくなるという国家は、能力が高いとは言えないだろう。企業でも同様であり、例えば営業スキルと言えばヒアリング力、情報収集力、仮説立案力、人脈形成力、提案力、価格交渉力、クレーム対応力、製品知識などが挙げられる。受注できる時はあらゆる能力がいかんなく発揮されるのに、失注する時は必要な行動を取っていない営業担当者は、能力面においてまだまだ課題があると言わざるを得ない。

営業は能力が全て結果に結びつく世界ではなく、例えば顧客の気まぐれ、さらには景気動向といった、営業担当者本人にはどうしようもない外的要因によって失注することも多い。それでも、真に優秀な営業担当者とは、全ての営業スキルとまでは言わないにせよ、ある程度の能力を発揮して最善を尽くしているものである。だから、人は失敗しなければ、本当に能力があるかどうか判断できないと私は考える。

一営業担当者の業績ですら、本人の能力以外の外的要因によって左右される。まして、多様な国家の利害が複雑に絡み合う国際政治においては、国家の思い通りの結果にならないことが多々ある。ただ、逆に言えば、失敗の数だけ国家の能力を適切に評価する材料が豊富に存在することを意味する。アフガニスタン政策に失敗してアルカーイダを生み出し、大義名分に欠けるイラク戦争で中東を混乱に陥れ、シリア戦争でイスラム国を適切にコントロールできなかったアメリカは、国際的な評判を大きく傷つけたが、それでも依然として世界の覇権国としての地位を維持している。成功と失敗の両方を合わせて国家の能力を適切に評価する方法の開発は、幾多の成功と、それに勝るとも劣らない数の失敗を重ねているアメリカ自身が最も向いているはずである。

2つ目の問題は、民主主義社会においては、ソフト・パワーの方が道徳的になりやすいというナイの認識にある。この認識にはさらにいくつかの細かい問題が内在している。まず、『リーダー・パワー』によると、ナイの学問的関心はあらゆる時代のリーダーを検証し、長年の研究の蓄積があるにもかかわらず玉石混淆状態となっているリーダーシップ理論に1つの道筋を見出すことであった。ところが、最終的にこの試みは成功しておらず、現代の民主主義社会にフォーカスを絞る形で課題が極小化されている。

次に、民主主義は必ずしもソフト・パワーの有効性を決定づける要因ではない。民主主義には柔らかいイメージが、その対極にある専制主義には硬いイメージが何となくつきまとうため、民主主義社会においてはソフト・パワーが、専制主義社会においてはハード・パワーが効果的であるかのような錯覚を抱きやすい。しかし、これだと民主主義が優勢となっている現代において、当の民主主義国家が依然として戦争というハード・パワーに訴えることがある点を説明できない。逆に、専制主義社会においても、ソフト・パワーが上手に活用される例があることが見過ごされている。

中国儒教の重要な経典である四書五経の中に、『書経』という書物がある。これは、堯・舜・といった古代の聖帝から始まり、夏・殷・周各王朝の皇帝の政治を記録したものである。中国に限らず、古代の王朝は家産国家、つまり国王の私物であり、ここに儒教社会の特徴であるタテ社会という要素が加われば、自ずと専制主義になびきやすい。ところが、『書経』の中では、民衆に対して刑罰というハード・パワーの行使を控え、反対にひたすら中庸の道に従って徳を推し広めるソフト・パワーに訴えた皇帝こそが称賛されている。

同時に忘れてならないのは、儒家は決してソフト・パワー一辺倒の皇帝を理想化したわけではないということである。例えば、殷末期の暴君である紂王を討とうと発起した武王は、臣下に向かって易姓革命による正統性を訴求すると同時に、自らの命令に反する者は徹底的に処罰すると厳しく宣言している。ハードとソフトを織り交ぜて臣下を鼓舞するというやり方は、周の成王が反乱軍を征伐する決意を表明した文章にも表れている。

要するに、政治形態がパワーの有効性を規定するのではなく、ありていに言えば“時と場合による”。この点はナイも最終的に容認せざるを得なかったようで、「現代の民主主義社会においても、ハード・パワーは有能なリーダーには必要不可欠な道具だ」という記述も見られる(『リーダー・パワー』)。いやむしろ、状況に応じてハード・パワーとソフト・パワーを使い分けることこそが有能なリーダーの条件であるという結論に転換している(この結論については、後述の第3の問題でさらに掘り下げる)。

ナイはソフト・パワーの方が道徳的になりやすいと言うが、“道徳的”というのも抽象的な表現である。『リーダー・パワー』の後半はリーダーの道徳性や倫理性に関する議論に費やされているものの、私自身が倫理学に疎いこともあってか、非常に理解が難しかった。

端的に言えば、道徳的であるとは他者を尊重することであり、別の表現を使うと他者に選択肢を与えることである。ハード・パワーは「これをせよ」あるいは「あれをするな」と言う形で相手の選択肢を限定するのに対し(だから支配力とも言う)、ソフト・パワーはこちらから選択肢を与え、相手に考えさせて、相手が納得した選択肢を取らせる(だから吸引力とも言う)。よって、ソフト・パワーの方が道徳的であるとナイは言いたいのだろう。

外交政策、価値観、文化という、ナイが挙げる3つの資源に基づくソフト・パワーをアメリカがもっと存分に発揮すれば、世界中に自由、平等、民主主義を広めるという使命が道徳的に達成されるに違いないというナイの期待が込められているようにも思える。

ここで、この記事の最初に掲載した図が内包する重要な欠点を1つ指摘しておかなければならない。ナイは軍事力や経済力がハード・パワーであるという単純な図式を見直し、軍事資源や経済資源がハード・スキルによってハード・パワーに転換されることもあれば、ソフト・スキルによってソフト・パワーに転換されることもあるという見解に変化した。ところが、ソフト・パワーの3つの資源に関しては、ストレートにソフト・パワーに転換されるという構造が修正されていない。

理論的な一貫性を追求するならば、ソフト・パワーの3資源(ナイはこれに特別な名称を与えていないが、敢えて名づけるならば、社会関係資源とでもなるだろうか?)がハード・スキルによってハード・パワーに転換される可能性も想定されなければならない。そして、実際にそのようなケースは存在するのである。例えば、カルト集団が教祖の強烈な価値観によって成員の行動を強く制約する場合、つまり洗脳などが挙げられる。

個人的には、ナイはソフト・パワーのことをややナイーブに扱いすぎていると感じる。ナイは、冷戦時代にアメリカがソフト・パワーを通じてヨーロッパ諸国と連携を強めると同時に、ソ連陣営の東欧諸国にも働きかけて冷戦後の体制転換に貢献したとする。

東欧諸国の指導者層に対しては、アメリカの指導者層が高級文化を輸出し、東欧諸国の民衆に対しては、アメリカの一般市民が大衆文化を輸出した。アメリカの高級文化は、東欧諸国の指導者層の中に、自由、平等、民主主義といった価値観を受け入れる土壌を用意した。そして、アメリカの自由主義的な文化に憧れる東欧諸国の民衆が、自国の権威主義に反発しこれを打倒したというわけである。確かに、アメリカの大衆文化は、その映画や音楽からうかがい知れるように、元来的に反権力的、反体制的である。では、その反骨精神にあふれるアメリカの文化が、なぜアメリカ自身の政治体制を壊すことがないのかという疑問がここで湧いてくる。

アメリカはヨーロッパ諸国に対しても同様に、高級文化と大衆文化の両方を輸出した。その結果、ヨーロッパ諸国の指導者層は概ねアメリカの指導者層に共感的であり、ヨーロッパ諸国の一般市民も概ねアメリカの一般市民に対して共感的となっている。ところが、各種世論調査によると、どうやらヨーロッパ諸国の一般市民は、アメリカの指導者層に対してあまり信頼を寄せていないことをナイも明らかにしている(『ソフト・パワー』)。こうした不思議なねじれ現象がどうして生じるのかも、ソフト・パワーだけでは説明がつかない。

だからこそ、ハード・パワーという変数を忘れてはならないとナイは主張するに違いない。状況に応じてハード・パワーとソフト・パワーを組み合わせるという考え方はナイに特有のものではなく、リーダーシップ研究においてはコンティンジェンシー理論としてよく知られたものである。しかし、ナイは『リーダー・パワー』の中で、「(コンティンジェンシー理論は)人間関係志向型リーダーと、任務志向型リーダーを区別し、リーダーのパフォーマンスと状況コントロールの程度を関連づけようとするものだったが、やはり、測定の問題や矛盾する結果という点に悩まされることになった」と述べて、その科学的研究の限界に言及している。

だからと言って、リーダーシップは考察に値しないし、まして我々が身につける必要のない特性だとナイは諦めてはいない。前述のように、『リーダー・パワー』ではハード・スキルとソフト・スキルを明確にした上で、両スキルを使い分ける能力として「状況を把握するIQ(広義での政治スキル)」という新たな能力を設定している。そして、状況を判断するには、具体的に①文化の状況、②力の資源の分散、③フォロワーのニーズと要求、④危機と時間の切迫性、⑤情報の流れという5つの要因を観察するのが望ましいとしている。

ただ、この5つの要素もそれなりに複雑であり、結局のところ、状況に応じてハード・パワーとソフト・パワーを使い分けるには、状況をよく判断するしかない、というトートロジーを抜け出せていないように見える。私としては、もう少し簡便に状況を把握する仕組みがないものかと、こんなツールを考案してみた。

まず、前提として、ハード・パワーとソフト・パワーの効用について整理しておきたい。ハード・パワーには“頭で解らせる”効果がある。今は体罰に対して社会的に相当厳しい目が向けられるようになってしまったが、子どもが何か悪いことをして親や教師から叩かれると、子どもは自分の悪い行為によって得られた便益は、叩かれた痛みによって全て失われてしまい、割に合わないものだと頭で理解するようになる。と同時に、心の中では親や教師に対して反発が生まれる。よって、ハード・パワーには“心が離反する”というリスクが伴う。

ソフト・パワーの場合はこれとは逆である。ソフト・パワーは相手の心を心酔させる。つまり、“心で解らせる”効果がある。とはいえ、あまりに柔和なアプローチで迫られ続けると、相手には何か裏があるのでないかという勘が働く。したがって、“頭が離反する”というリスクを伴う。

冒頭で述べたことの繰り返しになるが、パワーとは「自分が望む結果になるように他人の行動を変える能力」である。ここで、相手とは、国家であれ企業のような組織であれ、複数の人間から構成される集団であるという点を看過してはならない。集団の中には、自分に完全に賛成してくれる味方もいれば、完全に反対している敵もあり、さらにその中間層も存在する。味方とは、頭と心の両面で賛成してくれる人で、敵とはその逆である。中間層には、頭では賛成しているが心では反対している人と、心では賛成しているが頭では反対している人の2種類がある。

敵・味方・中間層が混在する組織に対して、リーダーがハード・パワーを発揮したとしよう。ハード・パワーには頭で理解させる効果があるので、敵(頭=×、心=×)を中間層(頭=○、心=×)に、中間層(頭=×、心=○)を味方(頭=○、心=○)に変えることが期待できる。一方で、心を離反させるリスクもあるため、中間層(頭=×、心=○)を敵(頭=×、心=×)に、味方(頭=○、心=○)を中間層(頭=○、心=×)に転じてしまう恐れもある。

今度は、リーダーがソフト・パワーを発揮したとする。ソフト・パワーには心で理解させる効果があるので、敵(頭=×、心=×)を中間層(頭=×、心=○)に、中間層(頭=○、心=×)を味方(頭=○、心=○)に変えることが期待できる。一方で、頭を離反させるリスクもあるため、中間層(頭=○、心=×)を敵(頭=×、心=×)に、味方(頭=○、心=○)を中間層(頭=×、心=○)に転じてしまう恐れもある。

リーダーが組織を動かす場合、必ずしもメンバーが皆賛成していなくてもよい。むしろ、全員が賛成していると、ハード・パワーであれソフト・パワーであれ、その副作用によって全員が一気に中間層に転落するリスクがあり、事態が行き詰まることも想定しうる。リーダーとしては、まずは組織を動かすのにちょうどよい敵・味方・中間層の割合を見極める。そして、ハード・パワーにしろソフト・パワーにしろ、パワーを行使するたびにその割合がどのように揺れ動くのかを注視し、ほどよい割合に落ち着くように次の一手を打つことが重要となる。

国際政治の舞台においては、パワー行使の影響をもう少し細かく追跡する。国家は、領土・軍事、経済、歴史認識、人権、環境など複数の課題と対峙しており、さらにそれぞれの課題について複数のステークホルダーを抱えている。相手国のそれぞれのステークホルダーが、それぞれの課題に対してどのような態度(賛成、反対、中間)を取っているのかを可視化することが状況把握の第一歩となる。こうして作成される下図のような表を「態度のマトリクス」と命名しよう。

ここで、ある国が、領土・軍事問題をめぐり、相手国内で反対(頭=×、心=×)の立場を取る集団Aに対してハード・パワーを行使したとする。集団Aは、領土・軍事問題に関しては中間(頭=○、心=×)の立場に軟化するかもしれない。一方で、環境問題に対してはせっかくこちらの国に同情的(頭=○、心=○)だったのに、領土・軍事問題をめぐる強硬な姿勢に嫌気が差して、中間(頭=○、心=×)へと転じてしまうかもしれない。これがタテ方向の影響である。

ヨコ方向の影響としては、例えば集団Aと同様に領土・軍事問題に関して反対の立場を取っている集団Dが、集団Aに対するこちら側の強硬姿勢を見て、自らの態度を改め、中間に変化することが考えられる。

そしてもう1つ、ナナメ方向の影響も存在する。領土・軍事問題をめぐる集団Aに対するこちら側のハード・パワーは、集団Bの人権をめぐる中間的な態度を変容させるかもしれない。集団Bが「頭=×、心=○」という中間的態度であれば、「頭=○、心=○」という賛成に変わることが期待できる一方、集団Bが「頭=○、心=×」という中間的態度であれば、変化は起きない。

国家のリーダーは、パワーを行使するたびに、態度のマトリクスがどのように変化するのか注意を払い、次の一手を模索する。これが、私の考える「状況に応じたリーダーシップ」である。

もちろん、

・頭で理解することと心で理解することをきれいに峻別することができるのか?

・相手国の各ステークホルダーの態度を正確に把握することは可能なのか?こちらが誤認する恐れがあるのではないか?

・ナイも示唆しているように、ハード・パワーとソフト・パワーの違いは時に相対的であり、こちらがハード・パワーだと思って行使した力が相手にはソフト・パワーに映る(あるいはその逆)こともあり、その場合は影響の見極めが困難になるのではないか?

といった問題があると私も認識している。だが、ナイが曖昧なまま残した状況把握の方法という課題について、議論の取っかかりとなる程度のツールにはなっているのではないかと考える。

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