【2018年反省会(3)】(負け犬の遠吠え)資格学校の講師を専業とする人は何が楽しいのかと思う
- 2019.01.24
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【2018年反省会】記事一覧(全26回)
資格学校の講師の仕事をするべきでなかったもう1つの理由は、10年以上前の話に遡る。前職のベンチャー企業に入社する前に転職活動をしていた時、ある外資系コンサルティング会社の子会社に応募したことがあった。面接官から「あなたはどんな分野を専門としたいですか?」と尋ねられた際、私が経営学者のピーター・ドラッカーに憧れてマネジメントのあらゆることに精通したいという思いがあったのと、経営全般について幅広く勉強しなければならない中小企業診断士の試験に合格したばかりであったことに加え、当時の私が20代半ばで生意気だったのも手伝って、「戦略、組織、財務会計、マーケティング、生産管理、人事などの仕事を数年ずつ経験して、全ての分野の専門家になりたい」といった回答をした。
これに対して、面接官は「例えば人事を極めるだけでも10年かかるのに、全ての専門家になるのは無理だ」と言った。今となれば面接官の反応は至極まっとうだと解るのだが、青二才だった私はそんなはずはないと食い下がった。すると、私が中小企業診断士の試験に合格していることを知っていた面接官は、「そんなに全部の分野をやりたいのであれば、中小企業診断士の資格でも教えていればよい」と呆れかえっていた。それを聞いて、資格というのはこの程度にしか軽く見られていないのだと悟った記憶がある。X社から講師の打診を受けた時にこの話を思い出していれば、最初から仕事を引き受けなかっただろう。
前回の記事で書いたように、中小企業診断士のうち、6~7割ぐらいは資格学校で勉強している。それに、私自身も資格学校の講師をやっていた事実はあるのだから、あまり大きな声では言えないものの、資格学校の講師は何が楽しくて講師をしているのかと思うことがある。特に、資格学校の講師を”専業”としている人には、果たしてやりがいがあるのだろうかと感じてしまう。どんな資格でもそうだが、資格とはある仕事をするのに必要な最低限の知識を知っていることを保証するものである。いや、厳密に言えば、実務ではほとんど使わない知識、あるいは自分が覚えなくても他人に聞けばすぐに解る知識もあるから、必要最低限の知識ですらない。私も講師をしながら、「こんなことは覚える必要はないのに」と思うことが多々あった。だが、テキストに書いてあり、試験に出る可能性がある以上、講義で取り上げないわけにはいかない。
資格を取得するというのは、ある仕事のスタートラインに立つことにすぎない。中小企業診断士に関しても、合格する前の勉強量より、合格した後の勉強量の方が圧倒的に多い。これはどの資格にもあてはまるだろう。資格学校の講師は、他人をスタートラインに立たせるお手伝いをしているだけである。X社のメインの講座を担当している講師は、他の資格学校から引き抜かれた名物講師であり、講師業を生業としている有資格者であった。確かに、その講師の講義は非常に解りやすいと評判だった。だが、へそ曲がりの私が意地悪な見方をすれば、いくら講師としての能力が高くても、所詮は他人をスタートラインに立たせているだけであり、せっかく資格を持っているのに、社会に対してほとんど付加価値を提供していないようにも映る。
このように書くと、教えることを専業としている学校の先生はどうなるのかという疑問を抱く方もいらっしゃるに違いない。子どもの場合は、そもそも自分で学習する方法を知らないから、それを教える人が必要である。自分で学習する方法を身につけるために、各年齢で有益と考えられる知識をまとめたのが学習指導要領や教科書である。その内容を正確に教えないと、子どもが自分で学習する方法を習得できない。したがって、教える専門家が不可欠である。
とはいえ、教える専門家が必要なのは高校ぐらいまでであろう。大学生ともなると、相当程度自力で勉強することが求められる。だから、大学教授は教える専門家ではない。それでも教授が学生に教えるのは、自分の研究分野に対する理解を深めるためである。ドラッカーが90歳過ぎまで教授を務めたのも、「教えることによって自分が最もよく学ぶことができるからだ」と語っていた。大学を出れば、もはや自主学習が中心となる。
もちろん、全てを完全に自力で勉強できる人はほとんどいないから、資格学校に対するニーズが生じることは理解できる(資格勉強用のテキストに対するニーズが生じることも解る)。だが、その資格に基づく専門的な仕事を生業とする人が、本業の傍らで他人の資格取得を支援するならばともかく、基本的に自主学習ができる人に対して、講師(あるいはテキストの執筆者)が必要最低限の知識を教えるのに一生懸命になっているだけだとしたら、その仕事にどれほどの意味があるのか疑問である。自主学習すべき人に対して、基礎知識を手取り足取り教えることで、かえって自主学習を阻害しているとさえ言える。こうなると、社会的には害悪である。
弁護士で伊藤塾の塾長を務める伊藤真氏という人がいる。法曹関係者ならば知らない人はいないだろう。伊藤塾は司法試験の予備校であり、1995年に開設されてから20年以上続いているから、それなりに高い評価がされているのだと思う。しかし、司法試験の内容を解りやすく教えられることと、法律に関する最新の議論ができることは別であると思い知らされた本がある。もっとも、伊藤真氏の件をもって、資格の専門講師が実務から乖離していると一般化することはあまりにも乱暴であることは百も承知である。しかし、資格講師の能力と実務能力が別物であることを示す例として、伊藤真氏の『憲法問題』(PHP新書、2013年)を紹介したい。
同書は、自民党が野党の時代にまとめた「日本国憲法改正草案」の各条文に対して、著者が問題点を指摘するというものである。確かに、自民党の草案は私が読んでも滅茶苦茶だと思う部分が多い。だが、著者の反論にも結構無理がある。細部で1つ例を挙げると、自民党の草案では参政権を日本国籍を有する者に限定している(現行憲法では明記されていない)。ここで著者は、外国人であっても住民税を支払い地方自治体の行政サービスを受けているのだから、地方行政に意見する権利があるとして、地方選挙に限って参政権を認めるべきだと主張する。実際、EUにおいては、各加盟国は他の加盟国の国民が自国内に居住している場合には、その外国人に地方参政権を認めなければならないことになっている。オランダなどはもっと進んでいて、EU非加盟国の在留外国人に対しても地方参政権を付与している。
ここで、地方参政権を外国人に認めると、地方自治体の条例が外国人の好きなように制定されるのではないかという懸念が生じる。昨今、日本に居住する中国人が増えており、中国人が地方議会の多数を占めるようになると、中国共産党にとって有利な条例を策定される恐れも否定できない。著者は、仮に外国人に対して有利な条例が作られたとしても、条例は法律に反してはならないと憲法に定められているから杞憂であると言う。著者は明らかに、国政参政権については日本国籍を有する者に限定することを想定している。参政権の根拠として納税を持ち出すのであれば、国政参政権も外国人に認めなければおかしい。先ほどオランダの例を挙げたが、実はオランダも国政参政権はオランダ国籍を有する者に限定している。国政参政権と地方参政権でこのようなねじれが生じる理由を著者は十分に説明できていない。
これは細かい話であって、私は著者の言うそもそも論に対してそもそも疑問を抱いている。著者は、主権者である国民が国家の権力を縛る法として憲法を制定するという考え方が立憲主義であると指摘する。立憲主義のルーツは啓蒙主義の時代に遡る。啓蒙主義者は、人間が生まれながらにして有する自然権を発見した。ただし、各人が自由に自然権を行使すると、他人の自然権を侵害する恐れがある。そこで、各人の自然権を守る目的で政府を構成し、政府が各人の自然権を庇護することを契約で約束する。政府がこの契約に反した場合には、各人は抵抗権(革命権)によって政府を打倒できる。これがいわゆる社会契約説である。
憲法が国家の権力を縛る法であるとすれば、憲法においてはまず国家が有している権力が明記されていなければならない。その上で、どの権力をどのように制約するのかを定めるのが筋である。だから、条文の基本形は、「国家は○○することができる。ただし、○○の場合は○○してはならない」となるはずだ。ところが、日本国憲法の条文は「何人も○○する自由を有する」となっているものが多い。だから、一部の保守派にとっては、現行憲法は西洋の自由主義の影響で国民の権利ばかりが強調されており、国家に対する義務が退行していると映る。なぜ、「国家は○○してはならない」という形で国家権力をダイレクトに制限せず、「何人も○○する自由を有する」という設定によって間接的に国家権力を制限しているのか、私には理解できない。
また、憲法によって制限される権力も不明確である。社会契約説が想定している権力とは政府の権力、つまり行政権である。フランスや、フランス革命に影響されたアメリカの憲法においては、前述のような条文形式の問題はあるにせよ、制限の対象となっているのは明らかに政府の権力である。ところが、日本の場合は天皇という存在がある。現行憲法では、天皇は日本国民の象徴とされ、国事行為が限定的に列挙されているにすぎない。言い換えれば、明治憲法とは違って、天皇の権力はほとんどないに等しい。
著者は自民党の憲法草案によって、天皇の権力が増すことを危惧している。だが、元々現行憲法によって天皇の権力をほぼ無力化した根拠が何であり(昭和天皇の下で戦争が拡大したから天皇の権力を大幅に制限したというのは理由にならない。なぜなら、後の東京裁判で昭和天皇の責任は不問にされたからだ)、その根拠が自民党案によってどういうふうに阻害されるのかが明白にされていない。また、何の権力もない天皇とは、権力のない権力者なのか、あるいは権力者以外の別物なのか、著者がどうとらえているのかも読み取ることができない。
権力のない権力者であれば、当初は権力があったわけだから、一定の論理をもって権力を追加することができる。自民党はこのように考えていると思う。これに対して、著者はおそらく権力者以外の別物であると位置づけているため、自民党案は天皇に新たな権力を付与することになり、そのためには相当の理由づけが必要だと反発しているのだろう。それならば、現行憲法で定められている国事行為は、権力の発露でなければ一体何なのかという疑問も生じる。
社会契約説に従うと、各人は生まれながらにして同じ自然権を有している。だとすれば、その自然権を守る方法も1つであり、政府は1つあれば足りる。1つの政府の権力を縛るのが憲法であるから、憲法も1つで済む。よって、カントの言う世界政府も実現されるだろう。しかし、実際には世界は複数の国家に分かれており、各国が独自の憲法を有している。百歩譲って、各人には契約の自由があるから、どの政府と契約するのかを自由に決定することができると考えれば、国家が複数併存する理由も理解できる。問題は、なぜ国境という地理的境界線が存在するのかということである。ヨーロッパ大陸に存在するある政府と契約する人が、アフリカ大陸、ユーラシア大陸、オーストラリア大陸、アメリカ大陸などに点在していてもおかしくない。
イスラームにおいては、ムスリムは皆共同体の一員であるとされる。彼らはイスラームの教えに忠実な自分たちを庇護してくれる人を指導者として仰ぐ。その指導者が自分たちの生活にとってプラスの影響をもたらしてくれるならば従う。指導者が世襲制の王であろうと独裁主義者であろうとほとんど関係ない。一方、マイナスの影響を及ぼす時にはその指導者を打倒する。これが本来のジハード(聖戦)の意味である。それぞれのムスリムがどの場所にいて、どの指導者に従うかは本人の自由に委ねられている。これは、彼らが本来遊牧民であることも強く影響している。ムスリムは、物理的な境界線によって分断されることをひどく嫌う。
私は啓蒙主義者がどのような理屈で自然権を発見したのか十分に理解していないが、結局のところ自然権は”存在すると信じる”しかないのではないかと思う。この点で、宗教と決別したはずの啓蒙主義は、実は「自然権教」とでも呼ぶべき一種の宗教である。その宗教のあり方は、西洋社会よりもイスラーム社会の方が理想に近いように感じる。それなのに、領土的概念によって国家を設定し、人々を束ねるためにネイションという観念を導入しなければならなかったヨーロッパ諸国は、イスラームを前近代的、非民主的などと批判し、排除しようとしている。
啓蒙主義の最先端であるフランスは、革命で勝ち取った自由、平等、博愛の精神を受け入れる人ならばフランス共和国の一員になれると約束している。以前、ムスリムの女性がイスラームの教えに従って身につけているスカーフが女性の人権を抑圧しているとヨーロッパで非難されたことがあった。フランスは世俗主義(ライシテ)が徹底しているため、とりわけ強い批判が起きた。だが、イスラームでは女性の髪は性器である。性器を覆うのは人間として当然であろう。ヨーロッパ人がムスリムのスカーフを問題視するならば、彼らはパンツを履けなくなってしまう。
さらに言うと、フランスに移住したムスリム女性の中には、フランスの教育を受け自由の精神を学習した上で、自らの意思でスカーフを着用している人もいる。それなのに、フランス社会はこういう人までも排除する(内藤正典『ヨーロッパとイスラーム―共生は可能か』〔岩波新書、2004年〕を参照)。西洋の倒錯した国家観を、啓蒙主義をルーツとする立憲主義によってどのように説明すればよいのか、著者の記述の中に手がかりを求めることができない。
最後にもう1つ。憲法は国家の権力を縛る法であるというのが立憲主義の立場である。権力は腐敗し、暴走するものであるから、何らかの縛りが必要だという考えが背景にある。国家権力とは、モンテスキューの三権分立論に従うと、立法権、行政権、司法権である。司法権はひとまず脇に置くとして、行政権は憲法によって制約がかかっている。一方、立法権を支えているのは、啓蒙主義者の主張に従うならば国民主権である。現行憲法にも、前文で国民主権が明確にうたわれている。ということは、国民主権、すなわち国民の権力も、誰かが何らかの方法で制約しなければならないことになる。著者はこの点に全く触れていない。
実際には、行政権を有する内閣によって作成された内閣提出法律案が国会で可決されることにより(行政立法)、行政権による国民への制約を、国民が自らの代表を通じて承認していると言える。とはいえ、行政による国民への制限(法律)が、国民による行政への制限(憲法)よりも強い場合には、行政権が強すぎる、すなわち憲法違反であると司法に訴えることができるのに対し、逆の場合に行政権が国民の権力を制御する仕組みがないのではないかと私は思う。法的効力の序列は一般に憲法>法律とされる。しかし、三権分立においては、国民主権に裏打ちされた立法権と行政権は対等である。だから、単純に考えれば法的効力も対等でなければおかしい。この辺りをどのように整理すればよいのか、著者の見解は見当たらない。
伊藤真氏は、現行憲法のことを教えるのは上手であろうと思う。しかし、こと新しい憲法の話となると、本書を読む限りでは、根本的な部分に関する考察が不十分であるがゆえに、あまり建設的な議論ができないように見受けられた。
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