【2018年反省会(2)】資格学校の講師の仕事は止めるべきサインがあった(続き)

【2018年反省会(2)】資格学校の講師の仕事は止めるべきサインがあった(続き)
 

【2018年反省会】記事一覧(全26回)

前回の記事で、2017年7月時点で中小企業診断士講座の受講者数が50人しかいないと書いた。私は2016年4月から収録を開始しており、2017年7月までに1年4か月も仕事をしていたから、仮にこのタイミングで契約を解除しても、ダメージが大きいことには変わりがなかった。それよりも、今になって振り返ると、もっと前に契約を解除すべきタイミングがあったと思う。

私はセミナーや研修の講師をしたことはあったが、資格講座のe-Learningの講師をした経験はなかった。セミナーや研修であれば、顧客企業と企画内容を擦り合わせた上で、ある程度裁量を持ってコンテンツを開発することができる。また、セミナーや研修の本番中に多少言い間違いがあっても、その場で修正することが可能だ。一方、資格講座の場合は教えるべき内容が決まっている。さらに、e-Learningともなれば、さながらテレビ番組のように、視聴している受講者がストレスを感じないよう、流麗な動画に仕上げる必要がある。e-Learningを提供する資格学校は、コンテンツの構成とプレゼンの技術についてノウハウを持っていなければ勝負にならない。

収録を始めたばかりの頃は、自分の動画をX社がどのように評価しているのかを知りたくて、「今日の講義はどうでしたか?」と担当者によく確認していた。X社からは、「この部分をこのように説明してほしい」、「話し方をこのように工夫してほしい」などとダメ出しが入ることを覚悟していた。ところが、X社からの返答は、「迫力があってよかったです」、「とても解りやすかったです」といったものばかりで、動画に対する注文が全くと言っていいほどなかった。そのため、X社は前述のノウハウを持っていないのではないかと疑うようになった。

報酬をめぐる交渉で問題になったレジュメ(パワーポイントで作成した講義用資料)も、毎週の収録日に先立ってX社の担当者にメールで送付し、チェックを受けていた。担当者のチェックを通っても、収録中に自分でレジュメの間違いに気づくことがある。その際は、その場でレジュメを修正し、収録後に修正後のレジュメを担当者へ送付して差し替えてもらっていた。レジュメに関しては、内容の解りやすさもさることながら、パソコンとスマホの両方の媒体ではっきりと見えるように、レイアウトや文字サイズ、色などを調整する必要があった。だが、X社の担当者からは、収録の前にも後にも、レジュメの修正を依頼されたことが一度もない。ついには、収録開始から1年ぐらい経った頃に、担当者から「レジュメは収録後にまとめて送ってくれればよい」と言われた。担当者はレジュメを真面目にチェックしていなかったのだろう。

X社の担当者も頻繁に交代していた。私がX社の仕事をしていた2年近くの間に、担当者が3回代わっている。交代した際に、「今度から担当が○○に代わります」と連絡してくれればよいのだが、X社の場合はしれっと担当者が変更になっていた。まず、担当者の他に副担当者らしき人がつき、メールのCCに追加される。私が担当者とメールのやり取りをしていると、次第に副担当者が前面に出てくるようになる。私が収録でX社のオフィスを訪れるうちに、そう言えば最近担当者を見かけないと感じて、副担当者に担当者はどうされたのかと尋ねてみたところ、実は担当者が随分前に退職していたことが判明した。そして、その副担当者が次の担当者に昇格するのであった。3回の交代劇はいずれもこのようにして行われた。

X社の社長の資質にも問題があったと感じる。X社は社員が30人程度のベンチャー企業であった。にもかかわらず、社長には秘書がついていた。このパターンはどこかで見たことがあると思ったら、私の前職のベンチャー企業であった(以前の記事「【ベンチャー失敗の教訓(第5回)】とにかく形から入ろうとする社長」を参照)。

それなりの規模の企業であれば、経営陣に秘書がつく理由も理解できる。本社には顧客、取引先、金融機関、投資会社、業界団体、大学、研究機関、行政から果ては政治家まで、様々な人からメール、電話、郵送物で連絡が入る。顧客以外にも本社に物申したい人はいるし、取引先の他に営業をかけてくる企業もある。慈善団体が寄付を要求することもあるだろう。それらのことに経営陣が逐一対応していたら本業に集中できないため、前裁きをしたり、経営陣に代わって対応したりする人が必要になる。これが秘書の役割である。だが、社員が30人ほどの企業に関与する人などたかが知れている。私は中小企業向けの補助金事業の仕事をして、社員数が数十人程度の企業を100社ぐらい訪問したが、秘書がいる企業など見たことがない。

私は、中小企業の社長は、自ら製品・サービスの開発・製造・提供をするか、自ら営業を行うか、少なくともどちらかの役割を果たさなければならないと考えている。自分ができない役割については、それを遂行してくれる信頼に足る右腕を置く。ホンダ、ソニー、パナソニックなど、現在の日本の代表的な大企業が中小企業だった頃は、社長とその右腕となる人物が二人三脚で製造と営業をリードしていたものである。ところが、X社の社長は、サービスの開発にも営業にもあまり関与していなかったように感じた。これも、私が前職のベンチャー企業で見た光景とそっくりである(以前の記事「【ベンチャー失敗の教訓(第2回)】営業活動をしない社長」、「【ベンチャー失敗の教訓(第3回)】製品開発・生産をしない社長」を参照)。

まず、X社がメインとしている講座については、社長が自ら講師を務めておらず、他の資格学校からスカウトしてきた名物講師らしき人をあてていた。では社長が営業をしていたかと言うと、Youtubeにチャネルを開設して宣伝動画をアップし、全国で雀の涙ほどの回数しか開催していない少人数の説明会で話をするだけで終わっていたように見えた。X社は自社でe-Learningのコンテンツを提供する以外に、他の資格学校にもコンテンツを販売しようとしていた。その営業を行っていたのは、私が知る限り社長ではなく、一般の社員であった。私には、社長は本ばかり書いている人にしか映らなかった。新刊が出る度に私も頂戴したものの、似たような内容を繰り返しているという印象しかなかった。ここまで来ると、もはや完全にデジャブである(以前の記事「【ベンチャー失敗の教訓(第7回)】本を書いて満足してしまう社長」を参照)。

これだけのサインがあれば、X社は危険だと判断してしかるべきだった。それなのに、私は契約解除を申し出ることができなかった。だがそれ以前に、そもそもこの仕事を引き受けるべきではなかった理由が2つある。1つ目は、前回の記事でも触れたレベニューシェアという報酬形態である。レベニューシェアとは、端的に言い換えれば成果報酬型である。私は独立した当初から、成果報酬型の仕事は基本的にやらないと決めていた(書籍の出版に関しては、印税方式という業界慣行を変えることがほとんど不可能であるため、例外的に印税方式に従っていた)。

営業力強化のコンサルティングを行っている企業の中には、成果報酬型を売りにしているところもある。営業の場合は、元々営業担当者の給与にコミッションが取り入れられていることからも解るように、成果に対する営業担当者の貢献度合いが比較的解りやすい。受注金額から原価を引いた売上総利益のうち、営業担当者の固定給や管理部門の人件費、広告宣伝費その他本社の固定費を除いた金額に対して、営業担当者がどの程度寄与したかを取り決めたものがコミッションである。成果報酬型のコンサルティング会社は、コンサルティングによって前述の金額がどのくらい増加するかを見込んで、パーセンテージを設定する。

だが、私の専門領域はビジョンや事業戦略(事業計画)の策定、それに紐づく人材育成計画の作成、計画に基づく研修の企画・開発・実施である。もちろん、私も顧客企業の業績が上向くことを願って仕事をしている。とはいえ、私の仕事がどの程度顧客企業の利益増に貢献したかを測ることは、私の仕事以外に影響する要因が多すぎるがゆえにほとんど不可能である。他方、私の仕事以外に影響する要因は多いものの、私の仕事は利益につながる因果関係の一部であり、私の仕事がなければ利益増は達成できなかったと考えれば、増加した利益が私の成果であり、それをそのまま支払ってほしいという強弁も成り立つ。しかし、こんな主張を受け入れる顧客企業などまずいない。だから、私は成果報酬型の仕事はしないことにしていた。

安倍政権になってから中小企業向けの補助金が増加し、コンサルタントが補助金の申請書(事業計画書)の作成支援を依頼される機会が増えた。コンサルタントの中には、採択された補助金額の一定割合を報酬として請求する、つまり成果報酬型の契約を締結している人もいた。しかし、作成”支援”と言いながら、実質的には作成”代行”になっていることも往々にしてあった。私からすると、作成代行で成果報酬を請求する場合には、事業計画のネタこそ顧客企業が持っていたとはいえ、こちらが作成代行をしなければ補助金を受けられなかったのだから、補助金をほぼ全額頂戴したいという気持ちになる。

もちろん、この論理が相手に通用するはずもない。例えば、行政書士に会社設立の手続きを代行してもらった際に、事業プランは依頼者にあったかもしれないが、行政書士が会社設立の手続きをしなければそもそも会社を立ち上げることができなかったのだから、設立後の利益を全部寄こせなどと言われたら、誰もが怒るだろう。

私は、中小企業をメインの顧客としている機械メーカーから、顧客企業に提供する追加サービスの一環として、補助金の申請書の作成支援(実質的にはほとんど代行)をしてくれないかと打診されたことがあった。顧客企業の事業計画が採択されれば、計画の遂行段階で必要となる機械をそのメーカーから購入してもらうという目論見であった。機械メーカーの担当者からは、私の仕事は成果報酬型でないと顧客企業に提案できないと言われた。成果報酬に対して否定的だった私は、採択の有無にかかわらず、顧客企業の経営者の頭の中にあった事業計画を目に見える文書として構造化したこと自体に価値があると主張し、一定額の報酬を要求した。

この件に関わらず、価格に対する私の考え方はシンプルである。まず、私と同じ仕事を顧客企業が自力でしたら、どの程度の期間と費用がかかるのかを見積もる。私がその期間よりも短期間で仕事をする場合には、顧客企業が要したであろう費用よりも高い価格を想定する。ただし、私がどの程度の品質(早く仕上げることも1つの品質である)を達成する見込みで、顧客企業がそれにいかほどの価値を認めるかはケースバイケースであるから、価格交渉の余地が生じる。一方、私が顧客企業とほぼ同じ期間で仕事をする場合には、顧客企業の費用よりも安い価格を想定する。とはいえ、際限なく安い価格では私が採算割れしてしまうし、同じ期間でも品質を上げられるならば、想定価格より高い価格を設定できるかもしれない。これも交渉事である。先ほど触れた行政書士の各種手続きなどの値段も、同様の考え方で設定されているはずだ。

この機械メーカーにはこういう話が通じなかったため、話はお流れになった。正直に言って、私の仕事を成果報酬型でないと顧客企業に売り込むことができないというこの企業の営業担当者は腰抜けだと感じた。仮に、この機械メーカーの顧客企業から、機械の値段は成果報酬型で支払いたいなどと言われたら、営業担当者は間違いなく拒否するだろう。まして、この手の企業の主たる収益源となっているアフターサービスの費用を成果報酬型で支払いたいなどと言う顧客企業は、営業担当者が必死で説得するに違いない。

私が以前精神科の病院に入院していた時、看護師に私の仕事内容を説明したことがあった。経営コンサルティングの仕事は、必ずしも顧客企業の業績アップにつながるとは限らず、その点で顧客企業はリスクを抱えているという話をしたら、看護師からは「そういう性質のサービスであれば、自分なら成果報酬型でお願いしたいと思う」という反応が返ってきた。

看護師の気持ちは解らなくもない。しかし、その理屈が通るならば、医療サービスについても、患者が治るかどうかを医師が保証できないのだから、患者が診療報酬を成果報酬型にしてくれと要求してもおかしくないことになる。とはいえ、もしそのような主張を許してしまったら、日本の医療制度が崩壊することは誰の目にも明らかである。特に精神疾患は、他の疾患に比べて、治るかどうかがより一層不透明である。さらに、私が抱えている双極性障害は、寛解すること(症状が治まり安定すること)はあっても完治する可能性は低いとされている。その治療費を成果報酬型にしてしまったら、精神科医は皆逃げ出すだろう。

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