「かけた情けは水に流せ、受けた恩は石に刻め」の実際

「かけた情けは水に流せ、受けた恩は石に刻め」の実際
 

「かけた情けは石に刻め」となっている人たち

「かけた情けは水に流せ、受けた恩は石に刻め」という言葉がある。「人から受けた恩はその人に返すのみならず、より多くの人に施せ。そして自分が施したことは、その瞬間に忘れよ」という意味である。元々は、仏教経典にあった「懸情流水 受恩刻石」から来ている。ところが、自戒を込めて言うと、この言葉とは逆の状態になっていることが往々にしてある。つまり、自分が受けた恩は水に流し、自分が他人にかけた情けの方を石に刻んでいる

どうやら、日本人にはかけた情けを石に刻むメンタリティが潜在しているようだ。現在、日本と韓国の関係は最悪の状態にあるが、韓国が何か騒ぐたびに、日本人(とりわけ右派)は日帝時代に朝鮮半島で実現した業績を強調する。日本人は道路などのインフラを整え、警察制度を導入し、教育水準を向上させ、朝鮮半島の人口増加に貢献した。だから、韓国や北朝鮮はもっと日本に感謝せよ、というわけである。朝鮮半島と同じように支配した台湾が親日的であることと対比させて、韓国の非礼を余計に問題視する。

その日本は、自国が受けた恩のことをすっかり忘れている。戦後のサンフランシスコ講和会議では、連合国側の思惑が錯綜し、例えばソ連が日本の分割統治を要求するなど、日本に対していかなる制裁措置を取るかで議論は紛糾した。 そのような中、スリランカ代表のジャヤワルダナ氏は、仏陀の言葉を引用して国家間の礼節と寛容を説いた上で、次のように演説した。

「アジアの諸国民が日本は自由でなければならないということに関心をもっているのは何故でありましょうか。それは日本とわれわれの長年の関係のためであり、そしてまた、アジアの諸国民の中で日本だけが強力で自由であり、日本を保護者にして盟友と見上げていた時に、アジアの諸国民が日本に対して抱いていた高い尊敬のためであります」(白駒紀登美「歴史に学ぶ 感謝報恩に生きた偉人の物語」〔『致知』2016年9月号〕)

ジャヤワルダナ氏は、スリランカが一切の対日賠償請求権を放棄することを明言すると、 会場の窓ガラスが割れるほどの称賛の嵐が起きたという。もしもジャヤワルダナ氏の発言がなければ、日本は今頃旧ソ連の思惑通りに分割統治されていたかもしれない。

現在の日本は、そのスリランカも「親日国」であると思っている。親日国という言葉には、日本がその国に対して大小様々の貢献をしたから、つまり、多くの情けをかけたから、日本に感謝してしかるべきだと要求するニュアンスが含まれている。そして、日本が国際社会で何か問題に巻き込まれた時には、親日国が日本を助けてくれるとさえ勝手に期待している。

私は各国の言葉をつぶさに比較したわけではないのだが、日本語の「○○してやる」、「○○してあげる」という言葉も、かけた情けを石に刻む日本語特有の表現だと感じる。親が子を育てて「やる」、上司が部下を指導して「やる」という場合、親や上司の恩着せがましさが元々の上下関係に基づく支配構造をさらに強化する。そして、親や上司の期待にそぐわないと、「あんなに○○してやったのに」と、子や部下の裏切りに憤慨する。

オリックス・バファローズ元監督・森脇浩司氏は、著書『微差は大差―オリックス・バファローズはなぜ変わったのか』(ベースボール・マガジン社、2015年)の中で次のように述べている。

指導した選手や部下に、期待した反応や成果が見られなかった時、人というのは「あんなに教えたのに」とか「あんなにノックを打ってやったのに」と不満を抱いてしまいがちです。それが我々指導者の当たり前の仕事なのですが、つい「のに」を連発してしまいます。しかし、相手を責める前に、自分に対しての反省が一番にこなければ、指導者は成り立ちません。


かけた情けを石に刻んでいる例


池永章『月収100万円超社長のルール―社員が10人を超えたら意識改革しなさい』(アスカエフプロダクツ、2005年)には、「誰かに騙されたとしても、それが世界の全てではない。10人に7人ぐらいはあなたに誠実に接してくれる」などと書かれていた。「10人に7人」という数字を多いと思うか少ないと思うかは人それぞれにせよ、確かに不誠実な人というのは存在する

ある年配の中小企業診断士が、若手の診断士に下請の仕事を発注しようとした。それは非常に単価の安い仕事であった。若手診断士が先輩に連れられて顧客企業のところに行くと、待っていたのは「食品スーパーの陳列棚に貼られているバーコードラベルを全て貼り替える」という、アルバイトレベルの仕事であった。それでも先輩は、「君の勉強のためになるからやれ」と迫ったらしい。若手診断士は、何とか理由をつけてその仕事を断ったとため息をついていた。

「君の勉強のためになるからやれ」という言葉は、診断士の間でよく飛び交う。私には、「安い仕事でも、その仕事を取ってきた自分に感謝して、勉強のつもりでやってみろ」という意味にしか聞こえない。本当は自分が面倒くさいからやりたくない仕事を、若手に押しつけるための常套句である。その後ろめたさを、感謝の強要という攻撃的な形に転換するのだからたちが悪い。

だが、これなどは、自分がかけた情けを石に刻んでいることが明確に伝わるケースであるから解りやすい。悪意もなく相手をコントロールしようとする人もいるから厄介だ。診断士の仕事は単価があってないようなものなので、こちらがよほど気をつけていないと、とんでもなく単価の 低い 仕事をつかまされてしまうことがある。しかし、仕事を紹介した診断士は、いたって真面目なのである。受けた診断士が、単価が安いことを理由に仕事の優先順位を下げるという、ビジネスパーソンであれば至極まっとうな対応をすると、「あいつは仕事で手を抜いている」などと仲間内で悪評を広められる。村八分を恐れる診断士は、支配の構造にどっぷりと組み込まれる。

顧客のことをあまり悪く言いたくはないのだが、私が個人的に注意した方がよいと考えている顧客のタイプの1つに、「帰りにお菓子を持たせてくれる顧客」というものがある。この手の顧客からいただいている報酬はたいてい低いものだ。にもかかわらず、お菓子を頂戴すると、こちらは何となくありがたい気持ちになる。感謝の気持ちを抱いたまま安いフィーに甘んじたら、相手の思うつぼである。もちろん、相手はよかれと思ってお菓子を渡している。「こんなに安い報酬で申し訳ないから、気持ちだけでも受け取ってほしい」と思って渡している。しかし、実態は、適正水準の報酬との差分をお菓子という安いツールで埋め合わせて、相手の返報心を利用しようとするサディスティックなテクニックに他ならない。

感謝をしてもしすぎることはない

感謝の気持ちを持つことは重要である。しかし、「受けた恩は水に流せ、かけた情けは石に刻め」と逆に考える人が一定数存在する以上、過度に感謝する必要もないだろうと最近は感じる。受けた恩はスポンジに水を吸わせる程度でよいのかもしれない。これは、かけた情けをこちらに刻み込もうとする人への防衛策である。スポンジには情けを刻むことができない。

感謝をしてもよいことがあるとは限らない。感謝をしすぎると、自分を低い立場に置いてしまい、弱みを握られてつけ込まれることもある。これが、私の普段の心がけが悪いせいなのか、世の中には不誠実な人がいるという動かしがたい事実のためなのかは、判断を留保したい。

私は新卒入社した企業を1年ちょっとで退職した後、8か月のブランクがあって前職のベンチャー企業に転職した。その時には、「長いブランクがある自分を拾ってくれてありがたい」と感じていたものの、2年後には現在にまで続く精神疾患を患ってしまった。昨年は心身ともにボロボロの私を実家に引き取ってもらい、「家族はありがたい存在だ」と感じていたのに、ここでは書けないような恩着せがましい言葉の数々を浴びせられて、東京に逃げ帰ってきた。東京に帰る時には色んな人に助けていただいたのでもちろん感謝しているのだが、今回ばかりは感謝の気持ちをほどほどにとどめておこうと思っている(関係各位には申し訳ない)。

私が感謝してもしきれない唯一の例外は「神」である。神だけは、人間にかけた情けを石に刻むようなことはしない。こちらが感謝しても、人間を主従関係に押し込めて操ろうとはしない。物臭な私はなかなか毎日日記をつけられずにいるのだが、日記の書き出しではいつも「今日も生命がありました。ありがとう」と、神への感謝の気持ちを表明している。