【2018年反省会(20)】入管法改正、副業解禁、高プロ制度に関する一考(2)

【2018年反省会(20)】入管法改正、副業解禁、高プロ制度に関する一考(2)

【2018年反省会】記事一覧(全26回)

その1からの続き)

ピラミッド組織には他にも利点がある。タテとヨコのコミュニケーションを公式化することで、コミュニケーションの問題を特定しやすくなる。社長⇒部長⇒課長と経営方針が下りていく過程で、部長と課長の言っていることが違っていれば、2人の関係に問題があると解る。社長がA事業部長とB事業部長に経営方針を下ろした後、A事業部とB事業部の利害が対立したままであれば、両部長の間で適切な調整が行われていないと解る。欧米人は記録魔で、様々な会話を文字で残す癖がある。メール文化は記録魔文化が背景になっている。記録魔がいれば、チーム型経営でメンバー同士が自由にコミュニケーションをしても、問題が起きた際にどこのコミュニケーションが機能不全を起こしていたか検証しやすい。しかし、記録を残す習慣が弱い日本人は、せめてパスだけでも明確に確立しておかないと、後で問題分析ができない。

以前の記事「【2018年反省会(18)】「多様性社会」とは「総差別社会」である(1)(2)」でも書いたように、単一に見える日本人は、実は思考の拡散傾向が強く、放っておくと勝手に多様化し、全方位的な差別を招く素地を持っている。思考が拡散した時に生まれるのが、非公式なコミュニケーションであり、これに匿名主義が重なると収拾がつかなくなる。公式なコミュニケーションとは、社員の思考を収束させ、組織としての標準を持つことに他ならない。「組織の<重さ>」をめぐる研究でも、公式なコミュニケーションが強い組織の方が業績がよいことが解っている。逆説的だが、公式なコミュニケーション基盤がしっかりしているほど、昨今話題のダイバーシティ・マネジメントから成果を回収しやすいというのが私の見立てである。

組織の“重さ”―日本的企業組織の再点検
沼上 幹
日本経済新聞出版社
2007-08-01



ピラミッド組織を維持するには、企業を拡大させ続けなければならない。上司と部下の人数比が1:5の組織で、社長1人、部長5人、課長25人、社員125人という構成である場合、全員を昇進させるならば、10年後ぐらいには社長1人と役員5人、部長25人、課長125人となり、さらに社員を新たに625人採用しなければならない計算になる。増加した社員の人件費を賄うために、企業は継続的に売上増・利益増を目指す必要がある。ピラミッド組織は、経営者に対して業績をアップさせる動機づけ要因となる。そして、企業はある程度の規模があった方が、社内でリスクを分散させることができ、経営基盤が安定する。前述のように、イノベーションのリスクを吸収する余裕も生まれる(だから、「『人生心得帖(『致知』2015年5月号)』―中小企業は「生業」で終わってはならないと思う」という記事を書いたこともある)。

もっとも、全ての企業が拡大志向を持ち、実際に成長を実現できるほどの余地が現在の日本経済にないことは私も重々承知している。また、人生100年時代に突入し、最低でも70歳ぐらいまでは働き続けることが一般化するだろう。加えて、少子高齢化で日本の人口ピラミッドは歪な形になっている。こういう状況下でもなお、企業がピラミッド型を維持するための素案を、旧ブログの記事「高齢社会のビジネス生態系に関する一考(1)―『「競争力再生」アメリカ経済の正念場(DHBR2012年6月号)』(2)(3)」で公開した。企業はポスト不足で昇進の見込みが少なくなった人に対して起業を促したり、彼らが興した企業への転職を促したりする。結果的に、日本には3タイプのピラミッド組織ができ上がると予測したものである。

ただし、企業で昇進の見込みが少なくなった社員というのは、少なくともその企業内では他の社員に比べて能力が劣ると評価された人たちであり、彼らが起業に向いているかどうか、あるいは今は向いていなくても起業のための能力を学習することが可能なのかどうかは議論が必要だろう。現在、国や自治体はミドルやシニアの起業を推し進めているが、私から見ると小規模店舗などの起業が多く、生業的な中小企業を増やしているように映る。私が必要としているのは、生業を超えてある程度規模の拡大を追求する企業である。ミドル・シニアがそのような企業を経営する能力やマインドをいかにして習得するかが課題である。

『武器としての人口減社会―国際比較統計でわかる日本の強さ』の著者である村上由美子氏は、ゴールドマン・サックス証券からOECDに転職した方である。同書はOECDの統計を引用しながら、日本の高齢者の基礎的な学力が他国よりも優れていることを示している。しかし、学力と経営能力が相関しないことは、とりわけ日本人がよく知っている。私は前掲の記事で3つのピラミッド組織を示したものの、ミドル・シニアが具体的にどんな産業で起業すればよいのかまでは考えが及んでいない。村上氏もまた、同書の中でそこまでは触れていない。



日本に最適な組織構造がピラミッド型であるならば、日本の人事評価制度が相対主義を採用している理由も納得がいく。日本企業の社員はしばしば、上司が1次考課で絶対評価をしても、役職者による最終考課で各社員の間の評価が調整されて、上司の評価結果が覆ることに不満を漏らす。だが、ここでもし最終考課が絶対主義で行われれば、例えば部長への昇進基準を満たす社員が複数いた場合に、彼らを全員部長に昇進させなければならない。逆に、ある課長が部長に昇進したのに、課長に昇進させるべき社員がいない場合には、次の課長が空位になってしまう。相対評価はピラミッド構造を維持するためにはやむを得ないのである。絶対評価は、メンバーを自由にとっかえひっかえできるチーム型経営に向いている。

報酬をめぐっては、成果主義だの職務給だの業績給だのと様々な考え方が日本に流入してくる。しかし、個人的に色々と検討した結果、ピラミッド型組織を前提とするならば、やはり日本の伝統的な年功制が最も適しているのではないかと思い至った。職務給や業績給を採用するには、個々の職務の価値や各人の業績を明確に数値化できることが条件となる。この条件は、組織が分解可能な複数の職務から構成されていると考えるモジュール型経営でなければ採用することができない。日本企業は、繰り返しになるが、永遠に学習を続ける不完全な個人が、タテとヨコの関係を活用しながら共同で仕事を進める擦り合わせ型組織である。よって、仕事の境界を明確に定めることができない。仮に職務分掌の明確化に成功しても、タテとヨコのコミュニケーションという、およそ金銭に換算することのできない仕事が必ず残る。

その境界線を無理やりはっきりさせようとするのが職務給であり、コミュニケーションの金銭価値を算出して業績への貢献度を導き出そうとするのが業績給である。だが、強引に数値化するためには、いくつもの仮定を設定しなければならない。例えば、難易度Aの仕事がPパーセントを占めていれば、その職務の価値をX円とする、といった具合である。数値化を精緻にするたびに、AやPのバリエーションは細かくなっていく。にもかかわらず、仮置きの計算に対して社員が納得するかははなはだ不透明である。制度を細かく設計すればするほど、人事制度の全体像が解りにくくなり、社員は制度そのものに対して否定的になる。社員満足度を上げるためによかれと思って再構築した人事制度が、社員満足度を下げるという皮肉な結果を招く。

私の平凡なコンサルティング経験の枠内で話をすると、企業には変えにくいものが3つある。社長、価格、人事制度である。経営に問題のある企業は、突き詰めれば社長に原因があるのだが、社長の首を挿げ替えることはできない。価格も、一度設定してしまうと、下げることは容易でも上げることは非常に難しい。価格を手っ取り早く上げるには、価格構造を敢えて複雑にしておき、一見安くなるようと思わせて実は高くなるという騙しを仕掛けたくなる。

ただし、社長を別の人に代えることは困難でも、社長の性格や能力を変えることは、工夫すれば多少はできる。価格に関しても、作戦を練って計画的に交渉を行えば、多少は上げられる。ところが、人事制度だけは変えるのも苦労するし、変えた後も苦労する。特に、制度の変更によって給与が下がる社員が出る場合には、後遺症が大きくなる。頻繁に制度をいじくってそのたびに社員の給与が変動すると、社員は将来の生活の見通しが立たないと企業に見切りをつけてしまう。だから、人事制度は手を入れにくいのである。一応、私は人事分野が専門であるとうたっているものの、給与に影響する人事制度のコンサルティングはほとんどしたことがない。というよりも、怖くて積極的には手が出せない。だから、私の実績の大半を占めているのは、人事評価方法の改善や人材育成計画の作成、社内研修コンテンツの開発である。

それでも敢えて給与に関する提案を1つするならば、コストと労力をかけても大して社員満足度が上がらないという現状に対しては、いっそのこと年功給で固定した方がよいと考える。しかも、職能資格制度と結びついて細かく号俸給が定められている現行制度ではなく、「年齢=基本給」ぐらいに単純化する。言うまでもなく、私のアイデアでも完全ではない。他方、万人が納得する人事制度などというのは存在しない。制度構築のコストと社員の納得感のバランスを考慮した場合、最適なのが年功制だと思う。年功制であれば、年齢とともに給与が上がることが明白であり、社員は年々上昇する生活コストをカバーできると安心する。

ダイバーシティ・マネジメントを行う、とりわけ女性の活躍を推進するためには、成果主義の導入が不可欠だという主張をよく耳にする。短時間労働の女性社員は生産性で評価するべきだというわけである。ところが、育児休業中は生産性がゼロであるから評価できない。すると、成果主義を導入したのに女性はやっぱり管理職昇進の際に不利になってしまう。先ほど紹介した村上氏も著書の中で成果主義の重要性を説いているのだが、氏がゴールドマン・サックス証券に勤めていた時代には、産休から復帰したところ上司からいきなりマネジャーに抜擢されたというエピソードを明かしている。つまり、成果主義とは関係がないのである。

ゴールドマン・サックス証券がとったのは、成果主義ではなく、「このぐらいの年齢である程度実力があれば昇進させよう」という、一種の「年齢制」である。私が主張する年功制も、厳密に言えば年齢制にあたる。年功序列は、文字通り「年次」によって「序列」が決まる制度である。だから、出産・育児で年次が遅れる女性はどうしても不利になる。一方、年齢制の場合は、例えば基本給が29万円である29歳の女性が1年間育児休業しても、30歳で復職したら基本給が30万円に上がる。さらに、その企業において30歳が主任への昇格の目安となっており、女性社員に昇進の意欲があれば、復職時には主任(あるいは主任候補)にする。

女性活躍を推進する人たちは成果主義の推進者でもあり、フラットなチーム型経営を志向する。ところが、面白いことに、女性活躍の推進度合いを測る指標として頻繁に用いられるのは、「管理職に占める女性の割合」である。つまり、管理職の存在が暗黙の裡に了承されている。女性活躍推進とピラミッド型組織の存在は決して矛盾しないわけだ。

ピラミッド型組織と年齢制が組み合わさった場合、それぞれの社員は、部下を少なくとも自分と同じレベルにまで育成しないと昇進できなくなる。能力に関係なく年齢ととともに勝手に昇進していく組織では、ある課長が部長に昇進しても、課長が部下を課長レベルに育成していないと、組織が回らなくなる。だから、社員には部下育成の義務が課せられる。この点でも、ピラミッド型組織は人材育成との親和性が高い。逆に、バブル崩壊後に新卒採用を控え、採用縮小を正当化するために組織のフラット化と成果主義の導入を進めた企業では、現在50歳前後の社員のプレイングマネジャー化が深刻であり、後進の人材育成が行われていない。

ある程度の能力と意欲があれば、年齢とともに昇給し、さらに昇進するチャンスがある。一方で、部下育成を怠った社員は昇進のチャンスを失い、40代ぐらいで企業から転職を促される。だから、私の言う年齢制は終身雇用とイコールではない。新しい企業に移った40代は、前職での反省を活かして人材育成に励む必要がある。ここでも人材育成を怠れば、60代ぐらいで再び転職を促される。3つ目の企業に移った社員が心を改めて人材育成に励めばよいが、再度その義務を怠ると、惨めなキャリアの終末を迎える。仏の顔も三度までである。

前掲の記事で提案した40代ぐらいをボトムとする第2の組織と、60代ぐらいをボトムとする第3の組織においても、私は年齢給を推奨する。もちろん、2つの組織は第1の組織ほど成熟していないため、転職によって給与が下がる可能性は大いに考えられる。ただし、そこから年齢とともに給与が上がるという期待が持てることが重要である。40代や60代で起業する人は、単に自分がやりたいことをやるのではなく、年齢給に耐えられるだけの事業機会を見つけなければならないし、年齢給を維持できるようなマネジメントを行う責務を負う。

働き方改革の一環としてもう1つ議論の俎上に載っていたのが、高度プロフェッショナル制度(高プロ制度)である。高プロ制度の原型は、アメリカのホワイトカラー・エグゼンプションにある。エグゼンプション(例外)と言うくらいだから、残業代が撤廃される仕事は例外である。海老原嗣生『いっしょうけんめい「働かない」社会をつくる』によれば、アメリカ企業ではマネジャーに昇進していく人とそうでない人のキャリアパスがはっきりと分かれている。非管理職の社員の仕事は職務定義書によって明確にされており、社員は雇用契約に従って仕事をすればよい。非管理職は企業の業績の変動とともに解雇されやすいが、自らの専門性を磨いているため転職もしやすい。非管理職の給与は高くないものの、共働きをすれば、夫婦が両方とも非管理職であっても生活には困らない世帯収入が得られる。典型的なモジュール型経営である。



ただし、マネジャー以上の職位になると、職務の中身が明確にできなくなるため、例外的に残業代を撤廃して、一括で給与を払うというのがホワイトカラー・エグゼンプションの趣旨である。とはいえ、海老原氏は、アメリカにおけるホワイトカラー・エグゼンプションの対象は管理職手前の人たちにまで拡大されつつあり、例外=エグゼンプションの方が大きくなっているとも指摘する。当然のことながらアメリカの政界・産業界の意向も働いているのだろうが、モジュール型経営を掲げるアメリカでも、モジュール化できない仕事が増えていることを認めつつあるという見方もできるだろう。だから、擦り合わせ型の仕事が全てである日本企業にホワイトカラー・エグゼンプションを導入すれば、例外が全てになってしまい、制度として成り立たなくなる(そのため、ホワイトカラー・エグゼンプションという名前を使わなかったのかもしれない)。

実は、海老原氏の主張は著書の中でかなり混乱している。日本にもホワイトカラー・エグゼンプションを導入すべきだとする一方で、若手社員は能力的に未熟であるから様々な仕事を経験させ、解雇しない方がよいと言う。逆に、管理職になればなるほど仕事が専門化するから、雇用の流動化を進めるべきだとする。これは、ホワイトカラー・エグゼンプションの本来の運用とは正反対になる。非管理職の仕事はモジュール化しており、代替確保が容易であるから解雇要件を緩和する反面、管理職の仕事はモジュール化されておらず代替確保が困難であるため、解雇しない代わりに給与を一定額にするというのがアメリカのやり方である。

さらに海老原氏は、日本の人事制度とアメリカの人事制度の折衷案として、キャリアの最初は解雇が容易なモジュール型の仕事に就け、能力が成熟してくるキャリア中盤では解雇対象から外し、マネジャーになるキャリア後半では再び仕事がモジュール化するから解雇要件を緩和するという制度を提案している。これではキャリアのほとんどが解雇と隣り合わせである。私が提案する年齢制も解雇を肯定する制度ではあるが、職位が上がるとともに徐々に解雇の可能性が高まるものであり、少なくとも海老原氏のような歪な提案とは異なる。

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