【論語】如之何、如之何と曰わ『ざる』者は、吾れ如之何ともすること末きのみ(衛霊公第十五の十六)

【論語】如之何、如之何と曰わ『ざる』者は、吾れ如之何ともすること末きのみ(衛霊公第十五の十六)
 

《参考文献》

論語 (1963年) (岩波文庫)
金谷 治
岩波書店
1963T


鈴木敏文「逆転発想」の言葉95
勝見 明
PHP研究所
2013-03-29


以前の記事「竹内均編『渋沢栄一「論語」の読み方』―明治豪傑の渋沢評」で書いたように、孔子は「学⇒聞⇒行⇒言」という順番を重視した。特に大事なのが「行⇒言」と言う順序であり、

竹内均編『渋沢栄一「論語」の読み方』―明治豪傑の渋沢評

《参考文献》 渋沢栄一論語の読み方 渋沢 栄一 三笠書房 2019-07-09 論語 (1963年) (岩波文庫) 金谷 治 岩波書店 1963T 渋沢栄一 「日本近代資本主義の父」の生涯 (幻冬舎新書) 今井 博昭 幻冬舎 2019-06

子の曰(のたま)わく、古者(こしゃ)、言(げん)をこれ出(い)ださざるは、躬(み)の逮(およ)ばざるを恥じてなり。(里仁第四の二十三)

【現代語訳】先生がいわれた、「昔の人がことばを〔軽々しく〕口にしなかったのは、実践がそれに追いつけないことを恥じたからだ。」

子の曰わく、君子は言に訥(とつ)にして、行(こう)に敏(びん)ならんと欲す。(里仁第四の二十四)

【現代語訳】先生がいわれた、「君子は、口を重くしていて実践には敏捷でありたいと、望む。」

と述べ、また、

子の曰わく、巧言令色(こうげんれいしょく)、鮮(すく)なし仁。(学而第一の三と陽貨第十七の十七に2度登場する)

【現代語訳】先生がいわれた、「ことば上手の顔よしでは、ほとんど無いものだよ、仁の徳は。」

と2回繰り返して、言葉だけの者を牽制している。孔子の弟子に子路という者がいた。非常に頭脳明晰で果敢な性格の持ち主だったものの、後述のように言葉が先走ってしまうのが玉に瑕だったようで、孔子からは「口達者は嫌いだ」と厳しい言葉を向けられている。孔子の約3,000人の弟子のうち、特に優秀な10人を「孔門十哲」(徳行は顏淵、閔子騫、冉伯牛、仲弓。言語には宰我、子貢。政事には冉有、季路〔子路〕。文學には子游、子夏。先進第十一の三を参照)と言い、子路も入っているのに、子路は『論語』の他の箇所でもたびたび孔子からの批判の対象となっている(ただそれは、孔子の愛情の裏返しなのかもしれない)。

子路、子羔(しこう)をして費(ひ)の宰(さい)たらしむ。子の曰(のたま)わく、夫(か)の人の子(こ)を賊(そこな)わん。子路が曰(い)わく、民人あり、社稷(しゃしょく)あり、何ぞ必らずしも書を読みて然(しか)る後に学と為(な)さん。子の曰わく、是(こ)の故に夫(か)の佞者(ねいじゃ)を悪(にく)む。(先進第十一の二十五)

【現代語訳】子路が〔季氏の宰であったとき、推薦して〕子羔を費の土地の宰(封地のとりしまり)とならせた。先生が「あの〔勉強ざかりの〕若ものをだめにしよう。」といわれると、子路は「人民もあり、社稷もあります。書物を読むことだけが学問だと限ることもないでしょう。」といった。先生はいわれた、「これだからあの口達者なやつはきらいだ。」

「学⇒聞⇒行⇒言」という順番のうち、「学」に関して付言すると、

子の曰わく、学んで思わざれば則ち罔(くら)し。思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし。(為政第二の十五)

【現代語訳】先生がいわれた、「学んでも考えなければ、〔ものごとは〕はっきりしない。考えても学ばなければ、〔独断におちいって〕危険である。」

という文章があるように、「学」と「思(考)」は一体である。「思(考)」についてはさらに興味深い文章がある。それが今回の記事のタイトルにした一文である。

子の曰わく、如之何(いかん)、如之何と曰わざる者は、吾如之何ともすること末(な)きのみ。(衛霊公第十五の十六)

【現代語訳】先生がいわれた、「『どうしようか、どうしようか。』といわないような者は、わたしにもどうしようもないねえ。」

一般的な感覚で言うと、「どうしようか、どうしようか」と慌てふためいたように考える人の方がどうしようもなさそうなものである。ところが、孔子は逆に、「どうしようか、どうしようか」と考えを繰り返さない人こそ、どうしようもないと批判している。裏を返せば、孔子は、物事をなす場合には「どうしようか、どうしようか」と2度考えよと言っているに等しい。これはつまり、何らかの施策を検討する(1度目の「どうしようか」)際には、施策に伴うリスクを想定し、リスクを低減するための方策も合わせて立案しなければならない(2度目の「どうしようか」)、という意味だと私は解釈している。

例えば、ある企業が設計部門と製造部門に「コンカレントエンジニアリング」の手法を取り入れたとしよう。コンカレントエンジニアリングとは、企画・設計などの上流工程と、製造・試験などの下流工程を同時並行で走らせ、開発プロセスを可能な限り短縮する手法のことである。コンカレントエンジニアリングを実現するにあたり、CAD/CAM/CAE、PDM(製品情報管理)といった、情報共有や機能間コミュニケーションを図るためのITを整備したとする。

だが、抜本的な改革が往々にして痛みを伴うように、コンカレントエンジニアリングにも様々なリスクがつきまとう。コンカレントエンジニアリングにおいては、製品設計に対して製造部門が加工・組立時の問題点を前もって指摘することにより、製造フェーズに入ってから不具合が発生しない設計にするという「フロントローディング」がカギを握っている。とはいえ、無制限に設計変更を行っていてはいつまでも前に進むことができない。そこで、デザインレビューや意思決定のルールをあらかじめはっきりと決めておく。加えて、設計担当者には設計変更の負荷が重くのしかかるから、設計部門のマネジャーは部下のケアを入念に行うようにする。

いくらITを導入しても、設計部門と製造部門の間で緊密な情報共有が行われないと、改革は頓挫してしまう。リスクを減らすには、人事制度を変更して両部門間のローテーションを頻繁に行い、相互知識を深める機会を増やすのも一手である。いっそのこと設計部門と製造部門の社員を同じフロアに配置すれば、日常的なコミュニケーションが活発になることも期待できる。こうしたきめ細かい目配りが、「2度考える」ということの意味である。

京セラ創業者の稲盛和夫氏は、「楽観的に構想し、悲観的に計画する」ことが大切だと説いている。稲盛氏は、困難が予想される新事業を進めるにあたっては、楽観主義者と悲観主義者をペアにして任せていたという。楽観主義者には先へ進もうとする馬力がある。だから、新しい構想の牽引役には向いている。しかし、その馬力ゆえに時に暴走したり、道を誤ったりすることがある。そこで、慎重で熟慮型の人間を副官につけて、あらゆるリスクを想定し、細心の注意を払って実際の行動計画を立てていく。これもまた、「2度考える」ことの実践例である。

昨年、「【2018年反省会(26終)】自分は「周囲の反対を押し切れるタイプ」か「意見を聞くべきタイプ」か?」という記事を書いて、セブンイレブンの鈴木敏文氏について調べていた時に、不思議なことを発見した。セブンイレブンでは、新商品を市場に投入する際には、原則として鈴木氏をはじめ役員が試食することになっている。市場投入時に試食から漏れた商品であっても、いつかは鈴木氏らの試食会にかけられる。試食会では、味に納得しない鈴木氏が市場投入の中止、商品の全回収を命じることも少なくない。

【2018年反省会(26終)】自分は「周囲の反対を押し切れるタイプ」か「意見を聞くべきタイプ」か?

東京に帰ってきたのは今年1月の半ばである。退院したその足で市役所に行って諸々の手続きを済ませ、一旦実家に戻って残りの荷物をまとめて宅急便で送り(この時も段ボール5箱しかなかった)、いち早く岐路に就いた。まさに、東京に「逃げ帰る」という表現がぴったりであった。2か月半も入院していたのに、退院の日に新幹線で400km以上も移動する人はそうそういないだろう。ここまで無理して帰京したのは、私が再び所…

ある時、売り出されたばかりのカレーパンを食べた鈴木氏は、カレーパンがぐっしょり、ぺちゃんこだったことに腹を立て、担当のバイヤーを呼びつけた。慌てて飛んできたバイヤーが「お言葉を返すようで申し訳ないのですが、このカレーパンはとてもよく売れています」と言ったところ、鈴木氏は余計に怒り出して、「こんなまずい物を売るなんてとんでもない。セブンイレブンを潰す気か?即刻、全部破棄しろ」と命じた。それから2か月ぐらいした後、具が大きくなってふっくらしたカレーパンに改善された。

鈴木氏にはこの手のエピソードがいくつもある。カレーパンの話だけを読めば、商品の品質に決して妥協しない、現場志向が強い経営者の理想像が映し出されているように見える。しかし、次に述べる赤飯おにぎりと本格チャーハンの例はどうだろうか?

赤飯おにぎりを試食した鈴木氏は、赤飯がふっくらしておらず、べちゃべちゃしていたことに納得がいかないようであった。担当者は「そこそこ売れています」と報告したのだが、カレーパンの時と同様に、この言葉がかえって鈴木氏の怒りに火をつけてしまった。赤飯がふっくらしていないのは設備に原因があった。白米を炊く設備と同じ設備で赤飯を作っていたからである。そこで、鈴木氏は設備の再設計からやり直しをさせた。

また、本格チャーハンを試食した鈴木氏は、中華料理屋のチャーハンのようにパラパラとしてないことが不満であった。「本格」とつくからには、名前に負けない商品にしなければならない。この時も、原因は調理機器にあった。密封型の鍋を回転させながら炒めていたため、高温にならず、米粒が崩れていたのであった。商品の再開発は調理機器の研究から始まり、本格チャーハンが再びセブンイレブンの陳列棚に並ぶまでには、実に1年8か月を要した。

私は、商品の企画が役員会にかけられた時に、設備面の問題やリスクに誰も気づかなかったのだろうかと疑問に感じた。後づけだと言われるかもしれないが、おいしい赤飯やチャーハンがどうやって作られているのかを想像すれば、白米と同じように炊いていては蒸し器のおいしさが出ず、密封型の鍋で炒めていては米から出る水蒸気が鍋を冷やしてしまうことに気づくことができたのではないかと思ってしまう。セブンイレブンお得意の「仮説思考」が企画の初期段階でリスクまで射程に収めていれば、膨大な設備投資を無駄にすることもなかったであろう。

もちろん、リスクを考えすぎるのも、リスクを考えないのと同様によくないことである。『論語』にはこんな文章もある。

季文子、三たび思いて而る後に行なう。子、これを聞きて曰わく、再びせば斯れ可なり。(公冶長第五の二十)

【現代語訳】季文子(※魯の家老)は三度考えてからはじめて実行した。先生はそれを聞かれると、「二度考えたらそれでよろしいよ。」といわれた。

緻密に考えれば、リスク回避策にもリスクが伴うため、そのリスクの回避策も検討することができる。しかし、そんなことをしていては、リスク回避策が無限に必要になってしまい、いつまでも実行フェーズに移ることができない。何をするかを考え、そのリスクと回避策を考えたならば、勇気を持って行動に移しなさいと孔子は背中を押してくれている。