【2018年反省会(18)】「多様性社会」とは「総差別社会」である(1)

【2018年反省会(18)】「多様性社会」とは「総差別社会」である(1)
 

【2018年反省会】記事一覧(全26回)

《今回の記事の執筆にあたり参考にした書籍》







教養としての言語学 (岩波新書)
鈴木 孝夫
岩波書店
1996-09-20













ダイアローグ――対立から共生へ、議論から対話へ
デヴィッド・ボーム
英治出版
2007-10-02












以前の記事「【2018年反省会(5)】なぜか「就労移行支援事業所」でアルバイトをしようと思っていた」、「【2018年反省会(19)】障害者は自らの「トリセツ」を訴求した方がよい」で「差別」について触れたので、この「差別」という現象をもう少し掘り下げてみたいと思う。

「ダイバーシティ」とは、人種、民族、国籍、性別、年齢、身体的能力、宗教、文化、価値観など人々の多様性を指している。ダイバーシティ・マネジメントとは、企業が社員やステークホルダーの多様性を源泉として革新的な事業を創造しようとする取り組みのことである。ちょうど、私が前職のコンサルティング会社に転職した10数年前に注目され始めた。

最近では「インクルージョン」という単語がついて、「ダイバーシティ&インクルージョン」とワンセットで用いられる。ダイバーシティが本来的には多様性それ自体を強調するのに対し、インクルージョンはその多様性を認め、受容すると同時に、人々が共生し、包摂される存在であるという点に重きを置いているという意味で、より進んだ考え方である。以前の記事「【2018年反省会(19)】障害者は自らの「トリセツ」を訴求した方がよい」で紹介したように、「平成30年度予算の編成等に関する建議財務省の予算建議」に、障害者を社会の「支え手」として位置づける文言が入り、健常者と障害者の共存を志向したのはその一例であろう。

ただ、ダイバーシティ&インクルージョンを競争力の源泉とすることができている企業がどの程度あるのか、個人的には疑問である。日本の場合は、最近でこそ外国人の社員が増えているとはいえ、人種、民族、国籍といった目に見える違いはほとんどないものとされ、主に女性の活躍を推進するためにダイバーシティ・マネジメントという手法が導入された。実際には、単に女性の管理職を増やすのではなく、市場においてしばしば購買意思決定権を握っている女性のニーズを効果的に取り込むために、女性社員の力を活用するケースが多い。

しかし、これはイノベーティブな製品・サービスを開発するためというよりも、顧客のニーズをより丁寧に吸い上げようとするマーケティングの延長にすぎない。近年では女性だけでなく、高齢者や外国人、さらには前述のように障害者などを取り込もうとしているが、日本社会が直面している労働力不足という深刻な問題を少しでも緩和しようという動機の方が強い。男性社会であった旧来的な企業が、女性の価値観を融合させることで、例えば海外市場において全くのホワイトスペースを発見したなどという事例は、私自身は耳にしたことがない。

ダイバーシティは生物の多様性になぞらえられることがある。だが、生物の多様性と人間の多様性では、仕組みが全く異なるように思える。生物界では食物連鎖によって各々の種が相互に結びついている。ここで、ある種が絶滅すると食物連鎖が寸断され、生物界全体が崩壊してしまう。そこで、種の内部で遺伝子を多様化させることで、外部からの脅威に備える。だから、たとえわずかしか個体数がない種であっても、保護しなければならない(人間が絶滅寸前の種を保護するのは、しばしばそのような種から、現在または将来の人間にとって有益な食物や医薬品の原料を採取することができるためという人間側の事情もある)。

一方、産業界にはバリューチェーンが存在するが、構成要素間のつながりは生物界に比べると弱い。川上の企業は特定の川下企業と強固に結びついているとは限らず、別の川下企業を顧客として選択してもよい。これが顧客の多様化である。川下企業も特定の川上企業と強固に結びついているとは限らず、別の川上企業をサプライヤとして選択してもよい。これが供給源の多様化である。ある企業の経営が苦しくなったとしても、自由競争の結果であり必ずしも保護の必要はない。その企業が倒産したら、川上企業や顧客は別の企業へと移行すれば済む。それに、生物界ではどの種にも存在価値(人間にとっては経済価値)があるのに対し、倒産寸前の企業は市場や社会から価値がないと判断された企業に他ならない。

なるほど企業が内部を多様化すれば、組織の内外で多様性が実現され、外部環境の変化に対する耐性が強くなるかもしれない。多様化によって競争力が上がるというのが、ダイバーシティ・マネジメント推進派の意見であろう(私も前職の会社ではそう説明していた)。ところが、生物界では、種の多様化が生産力の向上に結びつかないこともままある。

ここで言う生産力とは、光合成によって光エネルギーを生物体に変化させること(1次生産)、環境中の有機物質を分解すること(分解)、栄養物や水、窒素などを生物内と環境の間で移動させること(生物学的サイクル)などを指す。熱帯林と海岸の湿地帯では前者の方が種が多様化しているのに、生産力には差がないとされる。温帯広葉樹とマツの人工林では、意外なことに雨水の最大流出量は後者の方が小さいという研究結果もある。マツの広い冠樹で雨水が遮られる上に、マツ林からの水の蒸発速度が速いことがその原因である。だから、人間界のダイバーシティと生物の多様性の比較には慎重にならなければならない。

人間と生物のもう1つの違いは、言葉を使用するか否かである。我々は言葉を使わないと他人を理解できない。ここでの言葉とは、必ずしも書き言葉でなくてもよい。話し言葉やボディランゲージも含む。「言葉を発しない」という仕草も、何かしらの意味を相手に伝えようとしているという点で、一種のボディランゲージである。あまり他の患者のことを書くのは適切ではないのだが、私が地元で入院した病院には、今までの病院とは違って重篤な患者が多かった。言葉を上手く操れない人がいた。身体的障害を合併しているせいで、ボディランゲージも困難な人もいた。以前の記事「【2018年反省会(17)】ヒアリングが1次情報なら吉田証言を信じた朝日新聞は正当化されてしまう」で書いたように、医師が患者の手がかりを知るほとんど唯一の手段は、患者からのヒアリングである。それが難しいとなると、医師による治療は厳しくなる。

しかしながら、この言葉というものが非常に厄介である。我々は原初的に共同体を形成する。そして、共同体の中で通用する言葉が生まれる。やがて、交易手段が発達して他の共同体と接する機会が増えると、お互いに相手の共同体の言葉を理解する必要が出てくる。コミュニケーションを効率化するには、言葉を統一すればよい。これを様々な共同体の間で繰り返していくと、一種の標準語が生成される。標準語は政治や教育によって広められ、顔を合わせたことがない人々の間でも意思疎通が可能になる。社会は全体で1つの標準語を共有する。我々は本質的に、「他者と同じでありたい」という欲求を持っていることに起因している。

一方で、我々は「他者と違う存在でありたい」という矛盾した欲求も抱いている。社会全体で標準語を共有しても、とりわけ自分と近しい人々との間では、特別な言葉を持ちたいと願う。つまり、標準からの逸脱が起きる。地理的に近いところでの逸脱が方言であり、仮想空間上での逸脱がネットスラングである。標準から分化した言葉であっても、再び社会全体でその意味が共有されると、新たな標準となる。広辞苑に新しい言葉が掲載されるのはその象徴である。言語は収束=標準化と拡散=多様化を繰り返しながら、語彙を豊かにしていく。

標準化と多様化のプロセスの中で、我々は2種類の差別を経験する。ある標準が確立された後では、その標準から外れた存在を差別する。白人社会において黒人が差別される、男性社会において女性が差別されるというのが解りやすい例である。最近は減ったような気がするが、「荒れる成人式」を演出している若者も、標準からの逸脱例である。ニュースに接した多くの人は、幼稚な大人だと彼らに対して差別的なまなざしを送る。

しかし、彼らには彼らなりの理由がある。成人式を荒らした若者へのインタビューによると、彼らは役所のお偉い方の話が気に食わないから成人式を荒らしているわけではないという。学歴社会、偏差値社会という規範から早々にドロップアウトし、社会から負のレッテルを貼られた彼らが、学歴社会にいながら中途半端な人間関係に終始してなお将来のことを真剣に考えようとしない同級生に対して、自らの結束力を見せつけるために暴れる。

では、学歴社会という標準側、規範側にいる人々には問題がないかというと、そうでもない。我々は引きこもりに対しても差別的な目を向けるが、引きこもっている人たちには高学歴の人が少なくない。彼らは偏差値社会という標準的なレールに乗っかって、そのまま何も考えずに進めば順調に日本社会に順応したはずである。ところが、途中で「自分は一体何のために生きているのか?」と考え出すと、標準にしがみつく理由を見失う。その結果、彼らと社会をつないでいた唯一の接点である偏差値が瓦解し、引きこもるのである。荒れる成人式を引き起こす若者が、標準側からはじき出された存在であるとすれば、引きこもる人々は、自らを標準からはじき出してしまった存在であると言える。我々は、どちらのケースの人たちに対しても、自らの存立基盤である標準を死守するために、逸脱事例を激しく攻撃してしまう。

標準からの拡散が起きると、事態はさらに複雑になる。我々は混沌とした世界を理解するために、とりあえず社会を分割し、それぞれのカテゴリーに名前をつけてみる。若者を理解するためにゆとり世代、さとり世代、マイルドヤンキーなどとネーミングする。なるほど確かにカテゴリー化は相手を手っ取り早く理解するのに役立つ。一方で、マイルドヤンキーと言えばこういう特徴を持った人たちだというイメージが先行し、マイルドヤンキーと似たような特徴を持つ若者を見ると、まるでその人がマイルドヤンキーの特徴とされる属性を全て備えているかのような錯覚に陥る。いわゆるステレオタイプ化であり、差別につながりやすい。

「他者と同じでありたい」、「他者と違う存在でありたい」という相反する欲望でも、1つの共通点がある。我々は他者を自分と比較したがるということである。比較するということは、何らかの価値基準において優劣をつけることである。標準からの逸脱であれば、黒人に対する白人の優位性、女性に対する男性の優位性を示すだけで十分であった。ところが、標準からの拡散により様々なカテゴリーが増えると、その分だけ比較対象が増えることを意味する。よって、差別は多面的になる。しかも、明確な標準というものが共有されず、曖昧な状況の中でそれぞれの人がお互いを殴り合っているようなものだから、余計にたちが悪い。

さらにカテゴリーが増えていくと、我々の理解を超えるようになる。Facebookでは50もの性別を選択できるが、性的マイノリティに詳しくない私などが誤解を恐れずに言うならば、「もはや性のことが解らない」。解らない対象からは逃げればよいのだが、いよいよ逃げ切れないと悟ると、我々は解らないものを全て攻撃し始める。ただでさえ言葉には対義語というものがあり、同じ価値基準の上で正反対の意味を持つ語がふんだんに含まれている。私はこれが差別の温床となっていると考える。これに加えて、我々は「非」、「不」、「未」、「無」という1文字をつけるだけで、簡単に対義語を生成することができる。だから、多様性社会とは総差別社会である。シャーデンフロイデや仮想的有能感は、差別の結果として生まれる感情である。どんな有名人が何をやっても叩きたがる人たちは、この感情を獲得しようと躍起になっている。

言語学には、この世界はあらゆる概念によって覆われており、1つの概念が1つの単語に対応していて、単語が世界を埋め尽くしているととらえる「言語場」という考え方がある。新しい言葉が生まれるということは、我々が今まで拿捕できていなかった概念を浮き彫りにすることである。だが、言葉の数があまりにも増えると、新しい言葉が追加されることによって、既存の言葉がその居場所を削られてしまう。テリトリーを犯された人たちは、テリトリーを犯した(とテリトリーを犯された側が勝手に思い込んでいる)人間を排撃したがる。

カテゴリー化は外部のカテゴリーを差別するだけでなく、自らが属するカテゴリーの内部を分解することもある。「旅の恥はかき捨て」ということわざは、「旅先では自分のことなど誰も覚えないのだから、多少傍若無人に振る舞っても構わない」といった意味である。しかし、この意味で使われるようになったのは明治時代以降だそうだ。元々は、「旅先では自分が知らないことで失敗し、他人に迷惑をかけることもあるが、それは仕方ないことだと割り切ればよい」という意味だった。両者の意味は似ているようで微妙に違う。本来の意味には他者に対する恥の意識があるのに対し、現在の意味には恥も外聞もあったものではない。

江戸時代に民衆の間で旅行が広まると、自分がいる共同体とは違う共同体に接する機会が増えた。すると、今まで当たり前だと思っていた共同体の規範が、必ずしも別の共同体では通用しないことに気づき、共同体のルールが揺らぐ。ダイバーシティ・マネジメントの観点からは、動揺を活用して新たな規範を構築すべきだということになるが、事はそんなに簡単ではない。ルールが揺らいでいるのだから、その適用方法は共同体のメンバーによって異なる。Aは「Xが悪い」と言い、Bは「Yが悪い」と言う。AとBはルールの適用方法をめぐって、XとYはどちらが本当に悪いかをめぐって対立する。こうした争いが共同体のあらゆる場所で起きる。

被害者の属するカテゴリーの人が、加害者や加害者の属するカテゴリーの人を批判するだけではない。被害者の属するカテゴリーの人による批判が、被害者自身に向けられることがある。心理学では、その名の通り「被害者非難」と呼ばれる現象である。例えば、レイプ被害に遭った女性を他の女性が批判する。女性というカテゴリーが細分化されると、女性とはかくあるべきだという従来の標準型とは異なる見解を持つ女性が増える。標準からの逸脱であれば、社会的に共有される1つの基準を基に判断される。しかし、標準からの拡散が起きた後では、細分化したカテゴリーがそれぞれに保有する基準によって裁かれる分だけ、批判が複雑になる。以前の記事「【2018年反省会(5)】なぜか「就労移行支援事業所」でアルバイトをしようと思っていた」で書いたように、障害者が他の障害者を差別するのもこれに似ている。

批判合戦が社会を崩壊させた一例として、民主主義の原型にして最高傑作とされる古代ギリシアの民主政を挙げてもよいのではないかと私は思う。アテネはペルシア戦争に敗れたあたりから堕落し、デマゴーゴスの台頭とともに衆愚政治化したというのが、我々が世界史で学習する一般的な説明である。ところが、アテネの歴史に詳しい橋場弦氏によれば、ペルシア戦争後のアテネは決して一直線に衰退していったわけではないという。アテネの軍事力と莫大な富を支えていたデロス同盟が崩壊したにもかかわらず、アテネは海運力を回復し、再び繁栄を手にした。その根底には、多様性を尊重する成熟した民主政があったという見立てである。

一方で、ペルシア戦争後の時代には、市民による弾劾裁判が増加した。弾劾裁判の制度自体はペルシア戦争以前からあったものだが、ペルシア戦争以降はより積極的に弾劾裁判が行われるようになった。裁かれたのはほとんどが将軍である。将軍は軍隊のマネジメント上の失態によって裁かれたのではなく、「民主政転覆罪」という抽象的な犯罪によって裁かれた。中には、笛屋(芸者)に、不当な賃料で物件を貸し出したというだけで民主政転覆罪が適用された案件もあるらしい。テオフラストスは著書『人さまざま』の中で、「言論の自由、民主主義、自由独立ということばをたてにして言い逃れしながら、ひどくののしる。そして、それを人生で何よりの楽しみとしているのである」と記している。まさに、現代の批判厨と同じであろう。

橋場氏は、最終的にアテネが消滅したのは、マケドニアという外部要因があまりにも強すぎて、アテネになす術がなかったためだと分析している。しかし、アテネはやはり強大な力を持つペルシアには勝利した過去を持つ。素人目線だが、アテネ民主政の終わりは、溢れかえった批判厨のために政治が前進しなかったという内部要因に求められると感じる。これは衆愚政治ではない。衆愚政治は集団思考に陥って個々の人間が思考を放棄した結果である。アテネの場合は、人々は色々と考えていたのに、それが生産的な方向に向かわなかった。成熟した民主政で多様性を確保した社会が、マケドニアという一点突破型に負けた事例である。

正高信男『ことばの誕生―行動学からみた言語起源論』には次のようにある。

ことばはあくまでも社会の効率的な維持のために進化したのであって、淘汰圧はわれわれの発話行為そのものに深く浸透して集団内の凝縮度(cohesiveness)を最大限に高めようと働く。ところがそれはひるがえって集団外に向けての排他性を増すことと同義なのである。第三者の介入を受け入れるという言語の公共性は、その第三者が該当する集団内のメンバーであるときにのみ許容されるということを意味し、集団外からのよそ者は常に排除される。言語の運用範囲が小さければ小さいほど、凝集への特殊性は可能となる。特殊化は集団内の成員間の私的なかかわり合い、あるいは成員のみが共有する私的な経験を基礎に形成される。

かつて「平和で民主的な社会をめざして」というフレーズを眼にしたことがあったが、これほど矛盾する二つの形質の並列も珍しいのではないだろうか。もっとも民主的な社会は、おそらく対外的にはもっとも好戦的であるに違いない。最適に近い程度に互いの意思疎通に役立つことばは、集団外ではもっとも不可解に響くだろう。

だから、言葉があるがゆえに相互理解が進まず、世界が分断されると指摘した物理学者のデイビッド・ボームは全く正しい。しかし、言葉が支配する顕在秩序の背後には内蔵秩序という統一的な世界があり、我々が意識を集中させて内蔵秩序にアクセスすれば分断は解決されるというボームの主張は、あまりにもナイーブであろう。ボームの考えを下敷きにして発展した「U理論」はより現実的な路線を採用し、言葉を用いた対話(ダイアローグ)を推奨する。とはいえ、U理論のダイアローグも、メンバー間の対立が強まり緊張が最高に達した状態を耐え抜けば、ある時ふっと霧が晴れると言っているだけのように見える。

その2へ続く)

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