【2018年反省会(14)】(一部公開)
- 2019.03.05
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【2018年反省会】記事一覧(全26回)
《今回の記事の執筆にあたり参考にした書籍》
(タイトルおよび前半部は非公開)
厚生労働省の「被保護者調査」によると、2018年12月時点での被保護世帯は1,638,866世帯、被保護実人員は2,095,756人である。うち、高齢者世帯が881,915世帯(54.1%)、母子世帯が86,824世帯(5.3%)、障害者・傷病者世帯が413,879世帯(25.4%)、その他の世帯が247,992世帯(15.2%)である。
「その他の世帯」には、若者・ミドル世代が含まれる。実は一昔前まで、65歳未満の就労可能な年代は、原則として生活保護の対象にはならなかった。ところが、2008年のリーマンショックの影響で失業者が増加したため、厚生労働省が方針を変更し、65歳未満も受け入れるようになった。その結果、2008年度の「その他の世帯」は121,570世帯(構成比10.6%)であったのに、2009年度の「その他の世帯」は171,978世帯(同13.5%)と急増している。そして、「その他の世帯」の数および構成比率の増加傾向は現在まで続いている。
『NHKスペシャル 生活保護3兆円の衝撃』は、「その他の世帯」に注目した1冊であり、全国でも被保護世帯の比率が高い大阪市の実態を中心に取材している。生活保護法1条に「この法律は、日本国憲法第二十五条に規定する理念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とする」とあるように、生活保護の目的は、①最低限度の生活の保障と②自立の助長の2つである。「その他の世帯」に含まれる失業者にとっての自立とは、再び仕事に就いて安定した収入を得ることを意味する。その目的が達成された時には、生活保護は廃止(被保護者に生活保護費が支給されなくなること)となる。
失業者のような被保護世帯に対しては、自立に向けた就労支援が行われる。しかし、就労支援には「半年の壁」があるようだ。大阪市の就労支援によって就職した人のうち、保護の停廃止となった割合は、受給開始後1か月以上6か月未満の場合は約15%であるのに対し、6か月以上1年未満になると約8%と半減し、1年以上3年未満と3年以上5年未満は約6%、5年以上10年未満は約1%へと下がり、10年以上の場合はついに0%となる。
被保護者には担当のケースワーカー(CW)がついて支援にあたる。同書では、生活保護を受給したばかりの若者が、最初は就労に前向きな姿勢を見せていたのに、受給期間が長くなるにつれて、CWとの待ち合わせをドタキャンする、CWが訪問しても表に出ないなど、生活態度が後退していく事例が紹介されている。また、CWがハローワークを通じて様々な仕事を紹介しても、「自分に合った仕事ではない」と断る人が少なくないらしい。被保護者は毎月CWに対して、その月の就職活動を報告しなければならない。しかし、どのレポートも、「毎週1回ハローワークに行ったが、面接に進めなかった」と判を押したような内容になっているという。
大阪市は、被保護者の勤労意欲の程度に応じて支援内容を変えることにした。具体的には、対象者の勤労意欲が高い順に、就労支援事業、就職サポート事業、キャリアカウンセラー派遣事業、自立意欲喚起事業という4つのメニューを展開した。4事業の対象者は合計6,709人であったが、保護廃止に至ったのはわずかに145人である。最も勤労意欲が高い被保護者向けの就労支援事業でも、保護廃止は5,235人中126人(2.4%)にすぎない。
被保護者が就労に至らない要因は主に2つあると考える。1つは、生活保護費だけで暮らしていける誘惑が存在することである。本書では、「ドーム」と「薬銀座」が登場する。ドームとは、暴力団が経営する闇賭博場を指す。1,000円あれば1日中遊ぶことが可能であり、しかも食事・酒・たばこが無料で楽しめる。個人的には、被保護者から1日1,000円徴収するだけで、食事などを無料にし、かつ手元に利益を残せるのか解らなかったものの、もし本当に1日1,000円でこの生活ができるならば、はまってしまう被保護者がいても不思議ではない。
「薬銀座」とは、覚せい剤、麻薬、精神病薬などを取引する闇市場であり、これも暴力団が絡んでいる。被保護者には医療扶助が支給されるため、医療費の自己負担はゼロになる。医療機関側から見ると、医療費は全額国から出ることから、被保護者を薬漬けにすれば、薬代で儲けることができてしまう。暴力団はこの点に目をつけて病院を巻き込む。まず、精神障害者は比較的生活保護を受けやすいという現実を利用し、精神科で適当に精神病名をつけさせる。そして、生活保護の受給開始後、必要以上に精神病薬を処方させる。精神病は継続治療が必要で、かつ薬の種類が多いがゆえに、治療目的と称して大量の薬を出すこともできる。
当然のことながら、被保護者は薬を飲み切れないし、そもそも飲む必要がない薬である。そこで、余った薬を売買するのが薬銀座である。精神病薬は薬価が高いので、暴力団に手数料を払っても十分利益が出る。また、後述するように、通常は生活保護の受給中に仕事をして収入を得た場合は、通帳に記載された金額をCWが確認して、保護費から収入分を減額する。だが、闇市場で飛び交うのは現金であり、CWのチェックを交わすことも不可能ではない。さらに、薬銀座での取引を見張る”シケバリ”になっても、暴力団から収入が得られる。
他にも、携帯電話を利用した暴力団絡みの犯罪に加わるといったケースもある。犯罪によって裏収入が得られるというメリットに加えて、犯罪に手を染めてしまったという罪悪感から、暴力団との関係を断ち切って自立しようというインセンティブが削がれる。
ドームや薬銀座などは極端な例だとしても、もう1つの要因はより深刻だと思う。それは、受給中に仕事をすると「収入認定」されて保護費が減額されること、また、それゆえに受給中に貯金をすることが極めて困難であることだ。失業した人がいきなり正社員に復帰することは難しい。まして、派遣社員やアルバイトの経験しかない人や受給期間が長い人にとっては、継続的に安定した収入を得るというハードルは格段に上がる。週数日、短時間のアルバイトなどから生活を立て直したいというケースも往々にしてあるだろう。しかし、例えば毎月の保護費が13万円で、アルバイトで3万円稼いだとすると、原則として保護費が3万円削られて10万円になる。つまり、仕事をしてもしなくても、被保護者に入る金額は同じになってしまう。
さらに、一般的な感覚で言えば、自立した生活を送るには一定の貯金が必要である。ところが、生活保護においては、保護費を節約して貯蓄することが認められない場合もある。貯蓄が収入認定されて保護費が減額されたり、最悪の場合は保護廃止に追い込まれたりする。一定額の貯金を認めた判例もあるものの、いくらまでなら許されるのかは個々のCW次第である。こんな仕組みの中では、働く意欲が減退しても仕方がないかもしれない。
同書では、学習院大学・鈴木亘教授による生活保護制度の改革案が解説されており、その1つに「凍結預金口座」がある。被保護者が仕事によって得た収入は凍結預金口座に入れる。口座の金額は、受給中は引き出すことができない。しかし、保護が廃止されると凍結が解除され、口座の金額を自由に使うことができる。こういう仕組みがあると、保護廃止後の生活不安が軽減され、就労意欲が高まるかもしれない。一方で、フルタイムで働いていながら最低賃金しか得られず、貯蓄などとてもできそうにないほどにギリギリの生活を送っている人にとっては、被保護者が優遇されていると映る恐れがあるのではないかと感じた。
『生活保護―知られざる恐怖の現場』は、福祉事務所やCWの”横暴”についての1冊である。被保護者が執拗に就職活動を行うように指導された例、懸命に就職活動をしないのであれば生活保護を辞退せよと迫られた例など、著者が運営するNPO法人に寄せられた多数の相談事例が掲載されている。「家庭訪問に来た時、机を拳で叩きながら、『働かん者は死んだらいいんだ』と怒鳴られた」、「CWが読み上げる通り『仕事を見つけるので生活保護を辞退します』と書いたら『辞退届』とされて保護を打ち切られた」など枚挙にいとまがない。
高血圧の被保護者に対して、「血管が切れて倒れて、障害が残ったら楽になれるよ」と言ったCWもいるらしい。障害者は就労支援の対象から外れるためである。他方で、アルコール依存症で精神科へ長期入院した経験のある被保護者に、福祉事務所の職員が事あるごとに就職活動を強要したケースも報告されており、障害者への応対に一貫性がないことをうかがわせる。万が一私がCWなどからこんなことを言われたら、本当に死にたくなるかもしれない。自殺をほのめかした被保護者に追い打ちをかけるように、「そんなら、裏の公園に行けばいい木があるよ。ヒモなら貸してやるぞ」と言った福祉事務所もあるそうだ。
福祉事務所やCWが、被保護者を保護の停廃止に追い込むことで生活保護費を削減しようとするのに加え、初めから生活保護を申請させないという「水際作戦」の事例も多数存在する。窓口に来た申請者に向かって、「帰ってください」、「業務の邪魔になる」などと大声で言い、その後は申請者の申し出を頑なに無視し続け、窓口業務の終了時間が来ると、職員が「忘れ物ですよ」と申請書を指差す事態が連日続いた例などが挙げられている。
前述の通り、2015年4月からは生活困窮者自立支援制度が始まった。同書の著者は「住居確保給付金」に関しては一定の評価をしている。というのも、今までは住居がなければ生活保護すら受給できず、自立どころの話ではなかったからだ。一方、「自立相談支援事業」については、著者は水際作戦を助長するだけだと警告している。もしも自立相談支援事業で作成された自立プラン通りに本人が活動していなければ、福祉事務所はそれを理由にいくらでも生活保護の申請を拒否することができるためである。
もっとも、2冊とも「その他の世帯」のごく一部に注目しているにすぎない。『NHKスペシャル 生活保護3兆円の衝撃』では大阪市の施策が取り上げられていたが、大阪市の生活保護受給世帯数を見る限り、4事業が「その他の世帯」全てをカバーしたとは考えにくい。
『生活保護―知られざる恐怖の現場』で引用されている厚生労働省「生活保護制度の現状等について」(第1回生活保護制度に関する国と地方の協議〔2011年5月30日〕)を読むと、2009年度の「その他の世帯」の廃止数は2,568世帯であり(p9)、同年度の被保護世帯のうち「その他の世帯」にカウントされる171,978世帯に対する割合はわずか1.5%にしかならない。廃止理由の32.8%が「働きによる収入の増加」であることから、171,978世帯に対する割合は約0.5%となる。CWらによって廃止に追い込まれた人の割合はさらに下がるだろう。廃止に追い込まれようとしている人がどの程度いるのかは不明である。安直にハインリッヒの法則を援用して廃止数の数百倍いるとしても、全体から見れば微々たる割合に違いない。
実は、CWという国家資格は存在せず、社会福祉に携わる人を総称してCWと呼ぶ。地方自治体の職員でCWになる人も、専門的な訓練を受けてはいない。しかも、公務員は3年程度で他部署に異動するのが慣例である。そういう環境下にあって、CWの仕事を20年続けたという柴田純一氏の『[増補版]プロケースワーカー100の心得―福祉事務所・生活保護担当員の現場でしたたかに生き抜く法』は、長年の現場経験のエッセンスが詰まった貴重な1冊かもしれない。ただし、同書を読んだ印象を一言で言うならば、「融通無碍」に尽きる。
生活保護法という制度の枠内で仕事をすればよいと言う一方で、厚生労働省が出している要領に書かれていないことは何でもやってよいと言う。CWは関係各所の仕事を何でもかんでも代行する必要はないと言う一方で、関係各所が面倒くさがる仕事を引き受けて人間関係を強化しなければならないと言う。被保護者のニーズを個別化する必要があると言う一方で、時には一般化して被保護者への対応にあたらなければならないと言う。
例えば、DVから必死に逃れてきた女性を保護センターへ移送するのもCWの仕事である。そんな仕事をせよとは要領のどこにも記載がない。著者によれば、CWの仕事には、申請者が生活保護の受給要件に合致するかを判断する「決定行為」と、被保護者が自立した生活を送れるように支援する「事実行為」の2種類がある。決定行為に関しては細かい基準があるのに対し、事実行為は厚生労働省が類型化できず、要領に落とし込まれていない。とはいえ、前述した生活保護法の2つの目的に照らし合わせれば、CWには事実行為も不可欠であり、要領に定めがなければCWの裁量で実施すべきというのが著者の考え方である。
社会福祉は様々な社会資源を組み合わせることで実現する。よって、CWが自分の裁量で仕事を広げていくと、自ずと複数組織との協業が必要となる。著者はどうやら、役所の他部署の仕事を代行する必要はなく、逆に不動産屋や病院などの仕事は手伝った方がよいと主張したいようである。例えば、被保護者が亡くなった時に、年金課から必要書類を揃えてくれと言われることがあるらしいが、それは年金課の仕事だときっぱり断る。一方、不動産屋は住所不定の人に住居を提供してくれ、病院は急病の被保護者を受け入れてくれる可能性がある。彼らに恩を売っておくと、後々仕事がやりやすくなるということなのだろう。
以前の記事「【2018年反省会(5)】なぜか「就労移行支援事業所」でアルバイトをしようと思っていた」で書いたように、マイノリティこそ多様である。だから、被保護者の置かれている環境も多様であるし、生活に対するニーズも多様である。そういう多様性を1つずつ丁寧に拾い上げていくこと、すなわち個別化することがCWに求められる重要な能力だと言う。
ただし、ここで注意点が2つある。1つ目は、ニーズを拾うと言っても、ニーズを先読みする必要はないということである。被保護者が「これをやりたい」と望むことに応えるのが重要であって、本人が望んでもいないのに例えば障害年金の申請をCWがやってしまうのは行き過ぎだと指摘する。もう1つ、本人が「これはやりたくない」と言い続ける場合には、それをやらない結果どういう状態になるかを総論的に説明しなければならない。これを一般化と呼ぶ。とはいえ、個人的には、この個別化と一般化の区別は、相当程度著者本人の勘所に依存すると感じた。「これはやりたくない」というニーズは、別の言い方をすれば「『これはやりたくない』ということをやりたい」というニーズであり、個別化と一般化の境界が消滅するからである。
驚くべきことに、著者は同書の始めの方で、「ケースワーカーとは、できないことをやらされる人のこと」、「困った事態の責任が自分にあると思うと、到底この仕事を続けることができなくなる。自分を責めることは何もない」と述べている。CW1人で80世帯を担当し(法的には80世帯となっているが、実際にはCWの人手不足で100世帯以上を担当するCWが多い)、それぞれのニーズを個別化し、社会保障制度に精通し、利用できる資源をフル活用しようとすると、とてつもない仕事量になる。その責任を重く感じることはないと後輩のCWにエールを送っているものと私は解釈した。一方で、CWの仕事は一歩間違えれば相手の死に関わるとも断言しており、CWの責任のとらえ方は著者の中でも揺らぎがあるようだった。
『生活保護―知られざる恐怖の現場』には、社会福祉学者・岡村重夫の言葉を借りて、ソーシャルワーカーは自立のための制度を超えた支援を行うべきだとあった。柴田純一氏はまさにそのような支援を実践してきたと言えるだろう。行政は面倒くさいことをするのが仕事というスタンスには一理ある。この点で、明石市長の泉房穂氏の暴言は、内容をよく読めば十分に理解できる。だが、行政がそこまでするべきなのかという思いも私の中には存在する。
生活保護制度は生存権に由来していることは周知の通りである。ただし、この生存権というのは不思議な権利である。というのも、以前の記事「【2018年反省会(3)】(負け犬の遠吠え)資格学校の講師を専業とする人は何が楽しいのかと思う」で書いたように、立憲主義における憲法とは、自然権を有する個人が自由を守るために政府を形成し、政府が個人の自由を侵害しないように政府の権力を縛るものである。リベラルは左に寄れば寄るほど政府の権力を縮小しようとする傾向があり、極左ともなれば政府自体の廃止を志向する。
ところが、生存権とは、市民が権力を制限している政府に対して、何が何でも自らを生かせと要求するものである。つまり、政府の権力を期待していることになる。リベラルのこの倒錯した主張を、私は思うように咀嚼することができていない。政府が市民を生かすからには、政府にとって何かしらのメリットが必要である。デメリットがある権力など誰も発揮したがらない。この点をリベラルがどのように認識しているのかも、勉強不足の私にはよく解らない。
生存権の保護には個別化が必要とされるが、生存権を守るべき対象者が多くなればなるほど政府に期待される権力は大きくなり、ミクロの支援ができるのかという疑問も生じる。政府は市民の税金によって運営されているので、政府は税金の使途について市民に説明する義務がある。仮に政府が被保護者の個別ニーズに応えるために個別の支援を行った場合、その支援にどのくらいの費用を要したのかを事細かに記録しなければならない。柴田純一氏は、CW1人あたりの予算は1億円であったと述べている。松下幸之助の言葉を借りて、CWは1人の個人事業主として経営をしなければならないとも述べている。にもかかわらず、CWや福祉事務所は経費の使い方に無頓着であるという、結構ショッキングな告白も含まれている。
柴田氏が現役のCWであった頃は、まだ大らかな運用が許されたのかもしれない。だが、河本準一の母親による生活保護”不正受給”事件(※)があってから、生活保護に対する世間の目がかなり厳しくなった。もし本気でCWが被保護者のニーズに個別対応をしたら、行政の肥大化を招き、ただでさえパンクしそうなCWはバーンアウトするに違いない。そして悲しいことに、彼らが燃え尽きても、世間はほとんど何の評価も与えない。個別化は理想論としては理解できるものの、行政組織の性質を踏まえると現実的ではないように思える。
(※)ちなみに、この事件は「不正受給」ではない。生活保護を申請すると、福祉事務所から扶養義務者に対して、申請者を金銭的に支援する意思があるかどうか確認の連絡が入る。扶養義務者が支援の意思がないと回答すれば、福祉事務所はそれ以上支援を要請することはできない。生活保護法4条2項では、民法の扶養は生活保護法による「保護に優先して行われるものとする」と定められている。これは、旧生活保護法が親族の扶養を受けられることを生活保護受給の欠格事由としていた点を改正したものである。
よって、親族の扶養が受けられる場合には生活保護を受給できない(=欠格事由がある)と明示したわけではなく、親族の扶養が行われた場合には生活保護の必要性がなくなると消極的に解釈されている。逆に言うと、親族の扶養がなければ生活保護の受給は可能である。ただし、2013年に成立した改正生活保護法では、親族の扶養義務が強化され、福祉事務所は扶養義務者に対し資産や収入の状況を報告させることができるようになった。
個別化が難しいとなると、一律で社会福祉を実行するしかない。『生活保護―知られざる恐怖の現場』の著者は、所得が一定水準を下回る場合には医療や教育を無料にするなど無差別的な福祉を提供すべきだと主張する。これを社会福祉論では「普遍主義」と呼ぶそうだ。著者は、最低賃金を1,000円に引き上げた上で、年収が300~400万円の世帯には、普遍主義を適用して生活水準を底上げすることを提唱している。
ただし、時給1,000円でフルタイムで働いた場合の年収は200万円弱であり、金額に矛盾がある。また、日本の世帯所得の中央値は427万円であるから、年収が300~400万円の世帯を福祉の対象にすると、相当割合の世帯が含まれる。著者は「ナショナルミニマム」を実現すべきと述べており、日本の半数近くの世帯を中央値付近まで引き上げるという意味では、確かに”ナショナル”ミニマムかもしれない。しかし、ある所得水準で線引きをすると、境界付近では福祉を受けた人の実質所得が福祉を受けられない人の所得を上回る現象が起こり、亀裂が生じる。悲しいことに、行政には個別対応も公平性の担保も期待することができない。
マーケティングに注力する企業ならば個別化が実現できるかというと、これも怪しい。かつてC・K・プラハラードは、低所得層や貧困層(Bottom of Pyramid)を対象としたビジネスの可能性を指摘した。そして、グローバル企業が新興国の現地企業や非営利組織と連携し、こぞってBOP市場に参入した。しかし、大手企業でもBOPビジネスに成功しているところは非常に少ない。BOPは所得が限られているため、ビジネスをスケールアウトさせるには、BOPから薄く広くお金を頂戴するビジネスモデルが必要となる。「薄く広く」という時点で、高コストになる個別化は敬遠される。まして、日本の場合は、所得階層別の世帯数を上から並べた時にピラミッド型にならない。貧困率が高いと言っても、企業が事業化するには貧困層の数が少ない。
私自身は、福祉に「お金」が絡むとどうしても問題が発生してしまうと思う。企業は収益性(=売上÷費用)を追求する。そこで、いっそのこと売上をゼロにしてしまえば問題を回避できるのではないかと考える。売上がある限りは収益性を考慮せざるを得ず、どうすれば収益率が上がるかで頭を悩ませる。しかし、売上がゼロであれば収益率は常にゼロであり、改善のしようがない。私の感覚で言うと、単価が低い仕事と1円にもならない仕事が目の前にあったら、後者を選ぶ。前者は割に合うか否かをずっと考えることになり、ストレスがかかるためだ。ボランティア活動に精を出す人は、こうした感覚を私よりもはるかに強く抱いているように感じる。
無償で、しかも個別ニーズに対応した福祉を実現できる残りの候補は、コミュニティしかない。自民党は公助から自助へという流れを作り、左派はこれを批判する。だが、どちらも「共助」という視点が抜けている。一般に、コミュニティは人間関係が密であり、個々の成員のニーズがよく把握されている。助ける側は助けられる側からお金を取らないので、責任を感じる必要性もない。しかし、ただでさえコミュニティは弱体化しているのに、プライバシー保護の観点と、生活保護受給者その他のマイノリティに対する浅識や偏見でさらに分断されたコミュニティを再凝縮させるにはどうすればよいか、私には妙案が全くない。また、年々生活の余裕を失い保身的になりつつある人々をいかに相互扶助に組み込んでいくかについても、論じる力がない。
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