【2018年反省会(16)】精神科医とのつき合い方を学ぼう、自分に合った支援者を見つけよう

【2018年反省会(16)】精神科医とのつき合い方を学ぼう、自分に合った支援者を見つけよう
 

【2018年反省会】記事一覧(全26回)

私は医学に関してはど素人なのだが、病気の治療方法には大きく分けて3つあると思う。1つ目は、病気の原因はさておき、表面的な症状を取り除くというものである。風邪やインフルエンザの時には、病原菌やインフルエンザウイルスを退治するのではなく、喉の炎症を抑える薬や解熱剤を投与する。喉が炎症を起こしたり発熱したりするのは、身体が細菌やウイルスを殺そうとする正常な作用であるのに、それを差し置いて患者を苦しめている症状の方に対処する。風邪やインフルエンザぐらいであれば、たいていは身体の免疫作用によって時間とともに軽快するから、このような治療方法でも問題ないのだろう。

2つ目は、病気の表面的な症状を切り口として原因を追求し、その原因に働きかけるものである。例えば、眩暈や立ちくらみといった症状を訴える患者の血液を検査したところ、貧血、つまり赤血球やヘモグロビンの量が減少していることが判明したとしよう。この場合、ヘモグロビンの生成を促進する鉄剤を投与するのが一般的である。また、下半身にしびれや麻痺があるという患者を精密検査した結果、椎間板ヘルニアが見つかったとする。ヘルニアの肥大化が著しければ、外科手術によってヘルニアを除去するのも1つの選択肢となる。

3つ目は、病気の原因追求だけでなく、病気の原因を生み出した患者の環境的要因を改善するというものである。生活習慣病の治療や、最近増加している禁煙外来において、患者の従来の生活スタイルを見直すというケースが最もイメージしやすい。もちろん、2つ目の治療でも、病気の背景にある患者の個人的事情に踏み込むことは可能である。貧血であれば患者の無理なダイエットが影響しているかもしれないし、椎間板ヘルニアであれば腰に過度の負担がかかる仕事が影響しているかもしれない。腕のよい医師は非薬物的な助言もしてくれる。

うつ病、双極性障害、統合失調症などの精神疾患の治療は3つ目の方法で行われる。精神疾患の場合は、不安、抑うつ、倦怠感、イライラ、高揚感、焦燥感などの気分的な問題と、頭痛、腰痛、吐き気、胃もたれ、手足のしびれまたは震え、幻聴、幻覚、不眠または過眠の身体的な問題が生じる。身体的な問題については、内科などで検査を受けても異常が見られず、原因が解らないことが多い。気分的な問題に関してはもっと原因が解らない。

患者が訴える気分的な問題と身体的な問題を総合して、精神科医は精神疾患の診断を下す。とはいえ、前回の記事「【2018年反省会(15)】うつ病・双極性障害・統合失調症の違いはグレー」でも書いたように、精神疾患の生理的な原因は未だに不明である。ただし、往々にして患者の職場や家族における人間関係が強く作用していることははっきりとしてる。いや、人間関係がほぼ全てだと言っても過言ではない。

したがって、人間関係を改善するか(患者側が他者とのかかわり方を改善する場合と、患者と関係のある人々が患者とのかかわり方を改善する場合とがある)、どうしようもなく改善できない人間関係を無視できるほどに環境を変えることが、患者にとって根本的な治療になる。患者は精神科医に対して、自分が抱えている人間関係の問題をじっくり聞いてもらったり、他者と上手にかかわるためのアドバイスをもらったりできないかと期待するものである(私もそうであった)。だが、残念ながら、精神科医はあくまでも医師であり、専門は薬物療法である。

秋山剛『「はたらく」を支える!職場×双極性障害』では、精神科医のうち、精神疾患で休職しているビジネスパーソンが復職してよいかどうかを判断するのは難しいと考えている人が約半数いるというアンケート結果が掲載されている。厚生労働省も、医師が就労可能という診断を下す場合、それは仕事ができる程度に回復しているにすぎず、元通りの業務遂行能力が戻ったことを意味するわけではないという見解を示しているらしい。

多くの医師は企業などで働いた経験がないため、患者がどんな仕事をしているのか十分に把握していない。職場にいる産業医も、労働者数50人以上3,000人以下の事業場で1名、労働者数3,001人以上の事業場で2名選任すれば法的には十分である。事業場内の精神障害者の数は少なくても、限られた産業医で事業場の仕事を幅広く理解し、休職者をどの職場に配属しどのように職場復帰するのが適切なのかを判断するのは極めて困難であろう。



もちろん、『統合失調症は回復します』の著者である乾達氏のように、内科医でありながら数十年にわたり統合失調症をはじめとする精神障害の患者と接した経験から、薬物治療中心の医療に強く警告を鳴らし、精神科医は患者に長期間じっくりと寄り添ってその声に耳を傾け、患者が抱えている根本的な不安を緩和し、再び社会で活躍できる場を見つけられるように全人格的な支援をするべきだと主張する方もいる。しかし、理想論としては十分に納得できても、現実問題としてそのような精神科医にめぐり合う確率は残念ながら極めて低い。

統合失調症は回復します
乾 達
白澤社
2018-06-06



薬物療法に関しては、薬の過剰投与が問題となっている。似たような効果のある薬を複数組み合わせて、効果が強く出ることを期待している場合と、不安に対してはAという薬、幻聴に対してはBという薬、不眠に対してはCという薬というように、1つの症状に対して1つの薬を処方した結果、過剰投与になる場合がある。最近は複数の症状に効く薬を1種類ないし2種類程度処方する傾向に変わりつつあるというが、私が知る限り、薬の過剰投与は未だに多い。精神疾患は原因が解らず、精神科医でも確信を持って診断名を下すのが難しいので、とりあえずたくさん薬を処方すればどれか効くだろうと考える医師がいても不思議ではない。

薬物療法ですらこんな具合であるから、人間関係を含めたトータルの治療となると、乾氏のように医師が患者の問題を全て丸抱えすることはほぼ不可能である。よって、精神障害の治療は細分化されることを患者側も理解する必要がある。

私が2012年夏に最初に入院した病院(この時は精神科ではなく心療内科)の主治医は、毎日朝と夕方に回診に来て、さらに1回30分の面談を週に2回行ってくれた。毎回の回診の時間自体は短かったものの、薬の効き具合や身体の調子を頻繁に確認していた。面談では発症の経緯や仕事内容について話した。主治医はそこまで私の仕事を理解している様子ではなかった(医師でなくても、経営コンサルティングという仕事を理解できる人は少ない)。とはいえ、よくメモを取る先生だった。「ある時ふっとよくなるから焦らなくていい」、「別に人間不信でも構わないのではないか」など、ひょうひょうと脱力感のある言葉を発する方だったのを覚えている。

2017年の夏に2回目の入院をした時は、1回目と同じ病院であった。前回の主治医は別の病院に移っており、別の主治医が担当になった。新しい主治医との面談で私の電子カルテが開かれた時、かつて面談で話したことがびっしりとシステムに登録されていた。1回目の主治医は外来も担当しており、私以外の入院患者も多数抱えていたし、それぞれの入院患者に回診と面談を行って相当忙しかったはずである。一体いつこんな情報量をパソコンに入力したのかと驚いた。若干ぼーっとした先生だと思っていたのに、実はとても仕事ができる先生だった。それに比べると、新しい主治医は以前の記事「双極性障害で入院したところ40日の予定が1週間で退院してしまった事の顛末」で書いたような人だったので、失望感が大きかった。

なお、1回目の主治医は現在、高度なメンタルヘルスケアを行うことで有名な病院に勤めていらっしゃる。あれだけ仕事ができれば当然のことだろうと思う。他方、2回目の主治医は、私が入院した当時は心療内科の責任者であったのに、退院後しばらくしてから責任者から降ろされたようで、別の医師が責任者に就いていた。

私は10年ほどの間に、覚えているだけで10人以上の医師に会っている。最初に入院した時の主治医のレベルが高すぎたので、その先生とまともに比較すると、他の医師は皆落第になってしまう。高望みしなければ、この先生は割とよかったと思う方を3人挙げることができる。その3人に共通することは、①薬の作用と副作用について説明してくれる、②先生が本当に理解しているかどうかはともかく、こちらが話をすれば一応は聞いてくれる、③前回こちらが話したことを覚えている、④時々、「しばらく休憩しましょう」、「朝陽を浴びましょう」、「少し散歩しましょう」などと、生活上の注意点を1つ2つ指摘してくれる、の4つである。

②については、患者側の工夫が少々必要である。とりわけ外来の診察は、よく「3分治療」と批判される。私の経験則で言うと、3分も診てもらえれば長い方である。だから、診察時に医師に伝えたいことを前もって整理しておくことをお勧めする。精神疾患の患者には内向的で繊細な人が多く、自分が伝えたいことを相手になかなか上手く伝えられないと言われる。私は、今日は長く話を聞いてもらいたいと思った時には、伝えたいことを書きなぐったメモ帳を持参した。そのメモ帳を出すところを見ても話を聞いてくれない医師であったら、転院すればよい。

医師以外にも活用できる社会資源はたくさんある。施設入所、ショートステイ、ホームヘルプなどの介護系、自立訓練、就労移行支援、就労継続支援(A型・B型)などの訓練系(以前の記事「【2018年反省会(5)】なぜか「就労移行支援事業所」でアルバイトをしようと思っていた」、「【2018年反省会(6)】就労継続支援A型・B型とは?障害者手帳とは?」を参照)、行政の地域生活支援事業や地域生活支援センターなどがある。精神障害者をトータルでサポートする精神保健福祉士もいる。ただし、精神科医に専門性があるように、それぞれの社会資源にもできることとできないことがある。精神保健福祉士にしても、人によって得意不得意がある。よって、自分が必要としている支援は何かをはっきりさせた上で、これらの社会資源にアクセスしなければならない。社会資源だから何でもしてくれるだろうと思うと、後でがっかりする。

精神疾患は人間関係に根本的な原因があると述べたが、人間関係の悩みを癒してくれるのは、結局のところ人間である。本ブログで頻繁に登場するマトリクス的な発想に立つと、患者を取り巻く人間関係は「相手が家族―家族以外」、「相手が精神障害者―精神障害者でない」という2軸で4パターンに分けられると考える。精神科医が重視するのは、「相手が家族―相手が精神障害者でない」というパターンである。精神障害者の子どもを精神障害者でない親が支援するのが典型例だ。「相手が家族―相手が精神障害者」というパターンも稀に見られる。私も、2人で暮らしている姉妹で、2人とも別々の精神疾患を抱えているという例を知っている。

「相手が家族以外―相手が精神障害者」というパターンに該当するのは、患者の会である。似たような精神疾患を抱える人たちが集まり、お互いの病状や悩みを共有することで、ともに病気と闘う同志を得たような安心感が生まれる。こうした関係も、多くの医師が重視している。「相手が家族以外―相手が精神障害者でない」というのは、精神障害者ではない友人や同僚などとの関係を指す。どの関係を最も心地よいと感じるかは、精神障害者によって異なる。だから、精神障害者は自分にとって最も心地よい関係を模索することが大切である。

人間関係においては、精神障害者側にも、精神障害者と接する側にも注意点がある。まず、精神障害者は、相手が自分の話を一から十まで聞いてくれると期待してはならない。確かに、精神障害者の悩みは深い。この世の中に誰か1人でも自分のことを本当に理解してくれる人はいないものかと思うことがある。しかし、相手も人間であるから、精神障害者の深刻な悩みをいちいち真面目に全て受け止めていては卒倒する。相手も何かしらの悩みを抱えているかもしれない。それは精神障害者の悩みより大きい可能性もある。相手の悩みを差し置いて、精神障害者だけが一方的に悩みを聞いてもらおうとするのは虫がよすぎるだろう。もし、相手が貴重な時間を割いて自分の悩みを少しでも聞いてくれたら、相手に素直に感謝するのが筋である。

精神障害者と接する側は、精神障害者の話を否定したり、こうするべきだなどと命令したりしてはいけない。逆に、精神障害者の話を全て吞み込もうと肩に力を入れる必要もない。精神障害者の話の中には、すぐには理解できない内容もある。そういう場合は、「私は体験したことがないので解らないが、そういうこともあるんだね」と返せばよい。自分が理解できるか否かすら即座に判断がつかない時には、次の3つの言葉だけを使い分ければよいと思う。「ああ、そう」、「困ったね、大変だったね」、「よかったね」。臨済宗円覚寺派管長である横田南嶺氏が、人生の様々な悩みを抱えて寺を訪れる人たちと対話する際に使っている言葉だという。

医師にも他の社会資源にも家族以外の人間にもできなくて、家族だけが実施できる接し方が1つある。それは、相手を抱きしめることである。とはいえ、大方の精神科医の勧めとは裏腹に、家族との関係が役立つケースはあまりないような気がする。私が見る限りでは、精神障害者の家族関係はぶっ壊れていることが多い(私もそうである)。入院中、私がデイルームで休憩している時に、見舞いに来た家族とその患者との会話を失礼ながら傍で聞いていたことがあった。ある家族は、「この病院は負債が4億8千万円あるから、あなたのような患者を長く入院させるわけにはいかない」と言っていた。患者にとっては、病院の負債のことなどどうでもよい。

別の家族は患者に対して、「朝は○○時までに起きて、起きたら○○をし、昼前には○○をして、一緒に昼ご飯を食べた後午後は○○をし、夕方は○○をしてから夕ご飯を一緒に食べ、夜は○○をして○○時に寝ること」と1日のスケジュールを事細かく約束しようとしていた。精神科に入院していた患者が、退院直後にいきなりこんなにたくさんのことをできるはずがない。この家族の変形パターンで、摂食障害と思われる娘の母親が頻繁に見舞いに来ては、「私は○○するから、あなたは○○するのよ。私はあなたのことを思って言っているのよ」と繰り返していた。娘は、自分が母親との取引の対象、母親を満足させるための道具になっていると感じたに違いない。結局彼女は、退院の日も母親に泣かされたまま病院を後にした。おそらく、こうした家族の下で暮らす患者は、しばらくしたら病院に舞い戻ってくるのではないかと、私は勝手に心配していた。

一般論として、患者の家族にとって大事なのは、患者にあまり干渉しないことである。基本的に好きなようにさせておけばよい。そして、患者の方から「こうしたい」と言い出すのを待つ。私が先ほど触れた、姉妹が2人とも精神障害を持っているというケースでは、お互いに障害が原因で日常生活上できないことが多いと解っているから、相手に文句をつけることはほとんどないという。家事も、できる方ができる時にできることをする。ただ1つ、一方がかかりつけのクリニックに行く時は、必ずもう一方が付き添うという約束をしていると聞いた。

とはいえ、私が知っている例はかなりのレアケースである。あまり干渉するなと言われても、患者が家にいる時間が長ければ、家族は干渉したくなる。干渉したい気持ちを押さえればストレスになるし、干渉すれば反発されてやはりストレスになる。人間はそんなに簡単に変われるものではない。家族の病気をきっかけに、他の家族がいきなり適度な放置主義に転換するのは難しい。まして、患者が「こうしたい」という希望を表明するのを気長に待ち、さらに精神障害者の家族向けの書籍によく書かれているように、患者が「こうしたい」と言ったことを実際に実行した際には無条件で褒めてあげるなどというのは、ほとんど無理ではないかとさえ思う。

減点主義で部下を怒ることしか知らなかった上司が、いきなり部下を褒めるようになるのは非常にハードルが高い。基本的にビジネス上の関係しかない上司と部下においても困難なのに、幼少期を通じて密な時間を過ごし、よくも悪くも心理的紐帯で結ばれた家族が、今さら接し方を180度変えよと言われても、土台無理な注文にしか聞こえないだろう。

こうして患者との接し方に困惑し、疲れ果てた家族に向けては、家族の会というのが存在する。だが、家族の会の運営は、これまた難儀を極めるらしい。前掲の秋山剛『「はたらく」を支える!職場×双極性障害』では、著者の苦労話が紹介されている。著者は当初、双極性障害者を持つ家族と発達障害者を持つ家族を一緒にして家族の会を実施していた。ところが、発達障害者を持つ家族は一方的に自分の苦労話をまくしたてる傾向が強く、双極性障害者を持つ家族が参加の意義を見失ってしまったため、両者を分けるようにした。

しかし、今度は双極性障害者を持つ家族のうち、子どもが障害者である家族と、配偶者が障害者である家族とが衝突するようになった。子どもが障害者である場合、親にも類似の言動が見られることがあり、親は子どもの障害に対して一定の理解を示す。一方、赤の他人である配偶者は、患者に対して相当のストレスが蓄積している。そこで、この両者も分けることにしたという。患者のストレスが家族に飛び火し、家族のストレスが他の家族に飛び火するようでは、どこで負の連鎖を断ち切ればよいのか、私には見当がつかない。

家族にはそこまで精神障害の知識はない。むしろ、ほとんど知らないと言ってよい。だから、誤解が誤解を生んで問題が大きくなるのだろう。その点、患者の会の参加者は、少なくとも皆同じ精神障害者という土俵に立っているから、話は早い。とはいえ、患者の会はお互いの共感を生む一方で、共倒れするリスクもある。精神障害者は心が敏感であるから(だから心にストレスが溜まりやすい)、他の患者の悩みに悪い意味で感化されることがある。

私が昨年の3月に入院していた病院でも、不定期に患者の会があったのだが、翌日には体調を崩す人が少なからずいた。私も、正直に言って、他の患者の話を聞くのにはそれほど前向きではない。入院中の普段の生活でも、他の患者と積極的に交流を図る人がいる反面、私は話しかけられない限り会話をしようとしなかった。そんな私が、退院後に就労移行支援事業所でアルバイトをしようと思い立ったのは、今振り返ると血迷っていたとしか思えない。

個人的には、「相手が家族以外―相手が精神障害者でない」というパターンが、最もプラスの可能性を秘めていると考える。単純に言うと、前述した4パターンのうち、このパターンに該当する人数が最も多い。何か困った時に、気軽にちょっと話ができる友人を何人か持つことは極めて重要である。もちろん、リスクもある。AさんとBさんという2人の友人がいて、Aさんは自分の障害に対して理解を示してくれるのに、Bさんはあまり理解を示さないと、患者とBさんの関係が悪化し、さらにAさんとBさんの関係も悪化する恐れがある。貴重な友人が疎遠になるのは辛い。しかし、「人間を変えるのは難しいが、人間を代えるのはやろうと思えばできる」。

同じ精神障害者の中で代わりを見つけるには、障害者の数が少ない。まして、家族の中で代わりを見つけるには、数が限られすぎている。家族以外の非精神障害者は、世の中にあまた存在する。精神障害者は、最初は誰を頼りにしてもよいけれども、最終的には家族以外の非精神障害者がいる世界へと踏み込む勇気を持たなければならないと感じる。

人間関係で失敗してもよい。人間関係でつまづいて精神疾患を発症したのに、また人間関係で転ぶのかと嫌気が差すこともある。しかし、既に去っていった相手をいつまでも追いかけなくてもよい。家族や同じ精神障害者のグループに比べれば、代わりはいくらでもいる。何度でもやり直しながら、この人こそと思える人を見つけ、自分の居場所を確保する。精神障害者も、これだけはちょっとずつでよいから努力するのが望ましいというのが私見である。

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