病気の構造を理解する~認知行動療法・対人関係療法を下地に

病気の構造を理解する~認知行動療法・対人関係療法を下地に

精神疾患の治療方法の柱は「薬物療法」である。うつ病の場合は抗うつ薬、双極性障害の場合は気分安定薬、統合失調症の場合は抗精神病薬を服用する。また、精神障害に広く共通して見られる不安、不眠に対しては抗不安薬や睡眠導入剤が使われる。ただ、(私も含めてそうだが、)病歴が長くなると薬物療法だけでは症状が好転しにくくなる。薬物療法以外の治療方法としては、「認知行動療法(CBT:Cognitive behavioral therapy)」、「対人関係療法(IPT:Interpersonal psychotherapy)」があり、これらの治療を検討する必要が生じる(残念ながら、日本では認知行動療法、対人関係療法ともに、実施している医療機関が少ない上に保険適用外であり、手軽に利用することができない点が課題である)。

認知行動療法における「認知」とは、ものの受け取り方や考え方という意味である。人はストレスを感じると考え方が悲観的な方向に歪み、問題を適切に解決できなくなる。思考の癖を把握し、自分の認知パターンを整えていくことで、生活や仕事上のストレスを減らしていくことが治療の目的である。思考だけでなく、行動の傾向を治療のターゲットとすることもある。

認知行動療法の世界では、ものの考え方のことを「スキーマ」と呼ぶ。我々が普段の生活の中で自分のスキーマを意識することは非常に難しく、意思決定や価値判断、感情形成に対して無意識のうちに影響を与える。スキーマはとりわけ幼少期の体験によって生成されることが多く、その後の様々な経験を通じて維持・強化されていく。

例えば、両親から非常に厳しく育てられ、承認欲求を満たされる経験が少なかった人は、「私は誰にも受け入れてもらえないダメな人間だ」というスキーマを持つかもしれない。このスキーマは、その後の人生を隅々まで支配する。ある時、勤務先で上司のお弁当を買いに行ったが、上司が代金を支払い忘れたとしよう。「私はダメな人間だ」と思い込んでいると、上司に何を言っても無駄だと自動的に考えるようになる。「上司に代金のことを言ったら、上司は『ミスを指摘された』と激高するだろう」などと、誤った考え方に支配される。すると、「お弁当代ぐらいは自分が我慢すればよい」と不適切な対応策を取ってしまう。その不適切な対応に嫌気が差して、抑うつ状態に陥る(うつ病の人は往々にして、健康の人が「何でそんな些細なことで気分が落ち込むのか?」といぶかしがるような小さな出来事で気分をくじかれるものである)。

認知行動療法では、スキーマが作動して誤った考え方が導かれる前に、別の考え方ができないかどうかを工夫する。先ほどの例で言えば、上司は自分の同僚に対して仕事のミスを謝っていたことがあるという、別の客観的な事実に注目する。よって、弁当代の払い忘れを指摘しても詫びてくれるかもしれないと期待できる。その後は、誤った対応策に代わる実験を試みる。実験と言っても大それたものではなく、この場合は上司に対して「お弁当の代金をお願いします」と単刀直入に言ってみることが実験にあたる。その実験が成功すれば、「私の主張は上司に受け入れられた」と思うようになるだろう。こうした成功例を積み重ねていくうちに、「私は周りの人に受け入れられている」という新たなスキーマが生成され、それによって古いスキーマを書き換えられる。

(※)認知行動療法、対人関係療法については、以下の文献を参考にした。

自信をもてないあなたへ―自分でできる認知行動療法
メラニー フェネル
CCCメディアハウス
2004-06-26


対人関係療法は、より人間関係に注目した治療法である。精神疾患の発症や経過の様子は、その時に進行中の身近な人間関係から大きな影響を受ける。同時に、疾病そのものも身近な人間関係に大きな影響を与える。したがって、人間関係を改善すれば、疾病も改善する。認知行動療法は我々の潜在的・抽象的なスキーマに働きかけるのに対し、対人関係療法では病気を抱えている人が今まさに直面している具体的な人間関係に焦点を当てるという違いがある。

対人関係療法は、治療のターゲットとなる人間関係を4つ想定している。1つ目は「悲哀」である。配偶者、恋人、親、親友など、頼りになる大切な人が死ぬ場合を指す。この時、「喪」を適切に通過しないと、精神疾患にかかるリスクが高まる。最も大切なことは、悲しみのピークを経験することである。精神疾患に陥る人は往々にして感情表現が上手ではなく、気分が落ち込んで泣くことはあっても、「何となく悲しい」という曖昧なものにとどまり、悲しみの対象を具体的に昇華することができない。そこで、まずは思い切り泣くことが効果的な治療となる。その上で、辛さを誰かと共有する。さらに言えば、悲しみ以外の感情、例えば「あの人にもっとこんなことをしてあげればよかった」という後悔や、「なぜ自分を置いて先に死んでしまったのか」という怒りなどが湧き上がってくるのを素直に認めることも喪の儀式となる。

2つ目は「対人関係上の役割をめぐる不和」である。自分の考えや希望を相手に否定される、自分のやりたいことと相手の期待がずれるケースを指し、価値観の異なる夫婦や親子などの間で発生することが多い。対人関係療法では、双方の期待値の調整を目指す。すなわち、こちらが相手に期待していることは本当に適切な内容なのかを検証すると同時に、相手が実際のところこちらに期待していることは何なのかも明らかにする。精神疾患に陥る人は往々にして、勝手な思い込みとコミュニケーション不足により、自分のことを棚に上げる反面、相手の能力や立場、環境を十分に考慮せずに勝手に期待値を釣り上げてしまう。相手とのコミュニケーションをスクリプトに書き起こしてやり取りを1つずつ点検しながら、悪い癖を改善していく。

3つ目は「役割の変化」である。昇進、異動、転職、リストラ、引っ越し、離婚など、それまでの安定していた役割に代わって新しい役割を与えられたり選んだりする時、人は大きなストレスを感じる。ストレスから逃れるために、「昔はよかった」などと感傷的になることもある。そこで、対人関係療法においては、過去の役割はなくなったのだと正直に認めるところからスタートする。過去の役割のよかった点ではなく、敢えてマイナス面に注目する。逆に、新しい役割に関しては、不安な点ばかりに注目するのではなく、役割を充実させるためにできそうなアクションを些細なものでもよいから起こしていくようにする。

4つ目は「対人関係の欠如」である。対人関係療法は、人が直面している人間関係上の問題にフォーカスを当てるが、フォーカスを当てるべき人間関係がそもそもないことも重要な問題として扱う。大勢の同僚と働いていても、または大勢の友達がいても、本心を解ってくれる人がいなければ孤立と同じである。ただ、孤立していると言っても、生まれてこのかたずっと孤独だった人はまずおらず、人生のある時点において多少は人間関係を構築することができていたはずである。よって、まずはその時の記憶を呼び起こし、関係構築のカギを模索する。一方で、人間関係を損ねた経験も反省して、特にコミュニケーションに問題がなかったかどうかを振り返る。これらの洞察結果を踏まえた上で、ライトな人間関係を築くことからの再スタートを目指す。

実は、私は昨年末から今年の頭にかけて1か月ほど精神科に入院していた。時間がたっぷりあったので、病棟に置いてあった認知行動療法や対人関係療法の書籍を色々と読みながら、自分の病気の構造を整理してみた。自分の病気に対する理解が深まったことで、気分が落ち込んだ時の対応策を自分で講じやすくなったと感じる。私が精神障害の治療を始めてから約12年、もっと早くこういう作業をしておけばよかったと後悔しているところである。

私の認知・行動のベースにあるスキーマは、完璧主義と理想主義である。スキーマを形成した要因の1つとしては、子どもの頃に勉強を頑張りすぎたことが挙げられる。とりわけ高校時代は、10ほどあったどの科目でも100点満点に近い点数を取らないと気が済まないほどであった。もう1つは親の影響であろう。私には幼少期の家庭での思い出などほとんどないのだが、両親からは「常識で考えよ」、「他人に迷惑をかけるな」と頻繁に叱責されたことだけはよく覚えている(その両親に常識が欠けていたことは小さい時から薄々気づいていたし、【2018年反省会】シリーズで書いたように〔※当該記事は非公開〕、私が大人になってから彼らの非常識ぶりを決定的に確信したものの、根底のスキーマだけは消し去ることができないどころか、むしろ私を支配している。これほどまでに、スキーマの作用は強力である)。

2018年反省会(全26回)~37歳での思考の1つの到達点にして1つの限界

双極性障害Ⅱ型と診断されている(診断名が確定していない理由は【第15回】を参照)私が、どういうわけか慌てまくって人生で一番苦しんだ1年を振り返ろうというシリーズ。このシリーズを読んだ人は皆切ない気分になるらしい。どうかそんなことを言わずに読んでください。ただし、全体で約24万字と、ハードカバーの書籍1冊分ぐらいのボリュームがあります。なお、5本ほどあまりに中身がなくて非公開にしている点はご容…

この2つの要因が絡み合うと、自分に対しても他人に対しても、「他人に迷惑をかけないよう、行動の前によく考えるべきだ」といった具合に、過度に高い要求をするようになる。他人に対して高いハードルを課す心理的傾向は、私が以前に書いたシリーズもの「ベンチャー失敗の教訓」によく表れている。記事の中には、「社長は○○すべきだ」、「マネジャーは○○しなければならない」という記述が頻繁に登場する。これらの期待は私が前職の企業に在籍していた時から抱いていたものであり、社長やマネジャーたる者、社員や顧客、取引先に迷惑をかけてはならないという私の強い思いから発せられている。しかし、私の要求水準が高すぎるゆえに、私の期待の大部分は充足されずに終わる。すると、期待を裏切られたと他責的になる。その攻撃的すぎる心理がかえって自分の精神を傷つけ、抑うつ状態に陥ってしまう。

【ベンチャー失敗の教訓(全50回)】記事一覧 : free to write WHATEVER I like

【第0回】はじめに 【第1回】経営ビジョンのない思い入れなき経営 【第2回】営業活動をしない社長 【第3回】製品開発・生産をしない社長 【第4回】何にでも手を出して、結局何もモノにできない社長 【第5回】とにかく形から入ろうとする社長 【第6回】リスク

私が過剰な要求をする相手は、私が仕事上で付き合いのある人たちばかりでなく、日常生活の中で出会う見ず知らずの人にまで拡張される。以前の記事「【2018年反省会(15)】うつ病・双極性障害・統合失調症の違いはグレー(1)」でも書いたように、私は電車に乗っていても、カフェや飲食店にいても、道を歩いていても、些細なことに対して過度に反応し、血圧が上がり、強いイライラを感じる。私は彼らに対して、「常識に沿ってこういうふうに行動すべきだ」と心の中で訴えかけている。それなのに、彼らの行動を是正するために、その要求をいちいち本当に口に出すことはない。要求の理由が完全無欠でないうちは私の完璧主義が許さず、口に出すことができないのである(なぜ、電車の中で会話をすることは許されるのに、携帯電話で話をすることはダメなのか?どちらも人間が声を発しているという点では同じではないか?)。結局私が我慢するしかなく、私の願いがかなえられなかったとひどく落胆する。

【2018年反省会(15)】うつ病・双極性障害・統合失調症の違いはグレー(1)

《今回の記事の執筆にあたり参考にした書籍》 影山任佐『図解雑学 心の病と精神医学』の「統合失調症」のページに記載されている「支離滅裂な思考・発言」という吹き出しつきイラストをパロディー化 し、セリフ部分を改変するというネット上の遊びに対して、出版社であるナツメ社が注意喚起を行った …

私が他人に対して要求するのと同じ程度に、自分自身に対して高い要求をすることもある。私は一時期、日頃の仕事とは別に、年間に200冊本を読み、ブログを50万字分執筆しようとしていたことがある。加えて、何を思ったのか歴史と数学を極めたいと思い立ち、まずは高校の数学、日本史、世界史を勉強し直すところから始めようと、受験生顔負けの勉強計画を立てたこともある。当然のことながら、これらの取り組みはあまりにも無茶であるから、計画は達成できない。計画未達を許すことができない私は、他人を罰するのと同様に自分を厳しく罰してしまう。

私の病気が厄介なのは、この3パターンで抑うつ状態に陥るだけでなく、3パターンにさらに続きがあることである。他人に過度な要求をしてそれが満たされず、抑うつ状態になった場合には、私を抑うつ状態に追いやった相手に対して補償を求めるようになる。以前の記事「『致知』2018年4月号『本気 本腰 本物』―「悪い顧客につかまって900万円の損失を出した」ことを「赦す」という話」で書いたように、私はオンライン資格講座のベンチャー企業に対して損失補填を求めたことがある。精神疾患の大本の原因となった前職の企業に向かって、心の中でずっと損害賠償請求をしていたこともある。しかし、補償を求めるということ自体が相手に対する過度な要求である。補償が得られなかった私は大きく落ち込み、再び抑うつ状態に追い込まれる。

『致知』2018年4月号『本気 本腰 本物』―「悪い顧客につかまって900万円の損失を出した」ことを「赦す」という話 : free to write WHATEVER I like

その4つとは「一に勤行(ごんぎょう)、二に掃除、三に追従(ついちょう)、四に阿呆」です。(中略)最後の阿呆が難しい。お師匠さんも「人間は相手から嫌なことを言われるかもしれない。嫌な仕事を与えられるかもしれない。けれども、すべてのことに捉われてはいけない。すべて忘れ切り、捨て切り、許し切り、阿呆になり切る。これがなかなかなれんのや」と言われました。 (塩沼亮潤「人生生涯、一行者の心で生きる」)

自分に過度な要求をしてそれが満たされず、抑うつ状態になった場合には、遅れを取り戻そうと無理をするきらいがある。昨年末に入院したのはこれが原因であった。2017年に1回、2018年に2回入院をした私は、もう無理がきかない身体なのだと悟った反面、仕事やキャリアの面で同年代の人たちに後れを取ったことに対する引け目を拭い切れずにいた。2019年の前半は分をわきまえて自分のペースで仕事をしていたものの、思いのほか身体が動くと解ると、知らず知らずのうちに仕事量を増やし、同時に生活の面でもリハビリのペースを上げてしまった。ある時にキャパシティを超えてしまったのか、これ以上仕事をするのは難しく、普通に生活するだけでも苦しいと感じるようになった。私は、またしても思い通りにいかなかったという絶望感にさいなまれた。

私の病気の構造を整理した上で、もうこれ以上精神疾患を悪化させないために講じた方がよい対策を考えてみた。まず、相手に対して過度の要求を突きつけてしまうケースについては、対人関係療法が参考になる。すなわち、私と相手の期待値を調整するということである。「べき論」にとらわれずに、相手の能力や相手が置かれている事情に配慮し、相手に何をしてもらうことが現実的なのかをコミュニケーションを通じて擦り合わせる。同時に、相手が私に何をしてほしいのか、何をしてほしくないのか、相手の気持ちに寄り添う。

それでも私の期待が100%満たされることはないだろう。その場合は、私の主張を押し通そうと無理強いするのではなく、「相手を見守る」という戦術に転換する。実は、見守り戦術が功を奏した経験を私は持っている。以前の記事「【2018年反省会(24)】「最後までやり切ってしまう」きっかけを作った大学生時代の塾講師の仕事」で書いたように、私は学生時代に塾講師をしていた。どういうわけか私が担当する生徒は偏差値が30台、40台の受験生ばかりで、あれを勉強せよ、これを勉強せよ、はたまた勉強以前の話として、授業開始時間までには塾に来いと言ってもなかなか聞かない生徒ばかりであった。

【2018年反省会(24)】「最後までやり切ってしまう」きっかけを作った大学生時代の塾講師の仕事

WAIS-Ⅲのテストが終わった後、臨床心理士から感想を求められた。WAIS-Ⅲが単なる知能テストではなく、脳の傾向や考え方の癖を測定する検査であり、後から詳細なフィードバックを受けられることを主治医から聞いていた私は、「もしかしたら『リスク回避能力が低い』という結果が出るかもしれない」と自分の推量を伝えた。 …

私は、一部の生徒に対してはやんやと注文することを止め、教えることも最低限にして、ただひたすら見守ることにした。偏差値60台の大学に大逆転で合格したという華々しいエピソードはないのだが、「この子は大学に受からないだろう」と周囲から言われていた生徒が何人か合格した。この体験から学べることは、「こちらが口酸っぱく要求しなくても、相手が自分なりに頑張って結果を出せるような環境をこちら側が作り出すことは可能だ」ということである。私はこの貴重な教訓を折に触れて思い出すことにしたい。

相手に対して何らかの要求をしたいのに、その根拠を説明できずに我慢してしまうというケースでは、多少理由が不透明であってもまずは口に出してみることが大切だろう。だが、前述のように、このケースにおける相手とは、見ず知らずの第三者であることが多い。口に出すことが難しく、我慢することも避けた方がよいとなると、全く別の角度からの対策が必要になる。ヒントになったのは、今回の入院中に病室で読んだ相川圭子『怒りのエネルギーを幸せに変える―ヒマラヤ大聖者が明かす秘密の教え』(宝島社、2014年)という本であった。


著者によると、怒りとは我々の中に存在するエゴが自分の価値を傷つけられまいと防衛する反応のことである。つまり、怒りは正義のためではなく、利己心の表れである。怒りにおぼれる人はエゴにおぼれる。その反面、怒りをコントロールできる人というのは、怒りを起点として内面のエゴに気づき、利他的で協調的な人間関係を目指すように自己転換することができる。この点で、怒りとは成長の機会を与えてくれるものであると言ってよい。よって、その機会を与えてくれた相手に「感謝」しなさいと著者はアドバイスする。

「あなたがいることで、私の嫌な気分を知ることができました。自分はまだ成長していかなければなりません。ありがとうございます。そのことに気づかせてくれたあなたに感謝します。人ばかり責めていた私に気づかせてくれたことに感謝します」

さらに著者は、「相手に対して愛をもってエネルギーを与える」ことを勧める。私なりにこれを端的に解釈するならば、相手のために「祈る」ことが大切だということであろう。自分に怒りの感情を生ぜしめた相手のために祈ることには心理的抵抗もあるのだが、私は次のことを試してみることにした。怒りのエネルギーをつかさどっているのはお腹である。そこで、誰かに怒りを感じた時には、下腹部に手を当ててゆっくりとなでる。そして、「あの人に幸せがありますように」と心の中で唱える。例えば電車に乗っている時に携帯電話で通話をしている人がいたら、これを実践する。「あの人をどうやって注意すればよいか?」と逡巡して無駄に骨折ることなく、祈りというただ一点にエネルギーを集中させることができる。

自分に対して過度の要求をして、目標が達成できずに抑うつ状態になるケースに関しては、できなかったことではなく、少しでもできたことに目を向け、自分を承認するようにしたい。ただし、自分のことは肯定的に承認するのに、他者に対しては厳しく当たるというのではあまりにもアンバランスである。他者も承認できる心の余裕を持ちたいところである。

これに関連して、私は最近、ずっとやっていた中小企業向け補助金の書面審査員を辞めることにした。補助金の書面審査では、行政機関によって決められた評価基準に従い、制限された字数の範囲内で採点の根拠を論理的に記述することが求められる。採点が5段階評価だとすると、例えば4をつけた場合に、なぜ5ではなく4なのかを明らかにしなければならない。つまり、「5には足らない何か」を説明する必要があり、採点はいきおい減点主義的になる。採点を厳密にしようとすればするほど、審査はだんだんと事業計画の粗探しのようになっていく。この流儀が私のすさんだ精神に寄与しているのではないかと感じ、思い切って仕事を中止した。

以上の対応策によって、私のスキーマを少しずつ修正していくことが当面の目標である。前述のように、もっと早くこの整理をしておけばよかったと反省している。とはいえ、治療の遅れを取り戻そうと無理をしてしまうと、これもまた前述のように再び抑うつ状態を招来しかねないので、自分のペースを守って治療を続けたい。