竹内均編『渋沢栄一「論語」の読み方』―明治豪傑の渋沢評

竹内均編『渋沢栄一「論語」の読み方』―明治豪傑の渋沢評
 

《参考文献》

渋沢栄一論語の読み方
渋沢 栄一
三笠書房
2019-07-09

論語 (1963年) (岩波文庫)
金谷 治
岩波書店
1963T


随分前に旧ブログで「論語が実学であることを身をもって証明した一冊-『渋沢栄一「論語」の読み方』」、「「個人的な怨讐」を超越した渋沢の精神力-『渋沢栄一「論語」の読み方』」という記事を書いたのだが、改めて竹内均編『渋沢栄一「論語」の読み方』(三笠書房、2004年)を読み返してみた。同書は、渋沢が記した『論語講義』という本のエッセンスを竹内均元東京大学名誉教授がまとめたものである。

孔子の言行録である『論語』を読むと、孔子は人間の行為に理想の順番があると考えていたことが解る。孔子が最高の徳として終生説き続けたのが「仁」である。その仁を獲得するには、何よりもまずはよく「学」ぶ必要がある。学問こそ仁の出発点である。

子の曰わく、由よ、女(なんじ)六言(りくげん)の六蔽(りくへい)を聞けるか。対(こた)えて曰わく、未(いま)だし。居れ、吾女に語(つ)げん。仁を好みて学を好まざれば、其の蔽や愚。知を好みて学を好まざれば、其の蔽や蕩(とう)。信を好みて学を好まざれば、其の蔽や賊(ぞく)。直を好みて学を好まざれば、其の蔽や絞(こう)。勇を好みて学を好まざれば、其の蔽や乱。剛を好みて学を好まざれば、其の蔽や狂。(陽貨第十七―八)

《現代語訳》
先生がいわれた、「由(子路)よ、お前は六つのことばについての六つの害を聞いたことがあるか。」お答えして「まだありません。」というと、「お坐り、わたしがお前に話してあげよう。仁を好んでも学問を好まないと、その害として〔情におぼれて〕愚かになる。智を好んでも学問を好まないと、その害として〔高遠に走って〕とりとめがなくなる。信を好んでも学問を好まないと、その害として〔盲目におちいって〕人をそこなうことになる。まっ直ぐなのを好んでも学問を好まないと、その害としてきゅうくつになる。勇を好んでも学問を好まないと、その害として乱暴になる。剛強を好んでも学問を好まないと、その害として気違いざたになる。〔仁智などの六徳はよいが、さらに学問で磨きをかけねばならない。〕」

もちろん、書物にふけるだけではダメであり、人の話を聞くことも重要である。外部から十分なインプットを得、自分の頭で考えて、これだと思う知に到達する。

子張、禄(ろく)を干(もと)めんことを学ぶ。子の曰わく、多く聞きて疑わしきを闕(か)き、慎しみて其の余りを言えば、則ち尤(とがめ)寡(すく)なし。多く見て殆(あや)うきを闕き、慎しみて其の余りを行なえば、則ち悔(くい)寡なし。言に尤寡なく行に悔寡なければ、禄は其の中に在り。(為政第二―十八)

《現代語訳》
子張が禄(俸給)を取るためのことを学ぼうとした。先生はいわれた、「たくさん聞いて疑わしいところはやめ、それ以外の〔自信の持てる〕ことを慎重に口にしていけば、あやまちは少なくなる。たくさん見てあやふやなところはやめ、それ以外の〔確実な〕ことを慎重に実行していけば、後悔は少なくなる。ことばにあやまちが少なく、行動に後悔が少なければ、禄はそこに自然に得られるものだ。〔禄を得るための特別な勉強などというものはない。〕」

ここで問題となるのは、「言」と「行」の順番である。上記の文章を読むと、「言⇒行」という、我々にとってごくごく自然な順番を孔子も理想としているように思える。ところが、『論語』には注目すべきいくつかの文章がある。

子貢、君子を問う。子曰く、先ずその言を行い、而して後にこれに従う。(為政第二―十三)

《現代語訳》
子貢が君子のことをおたずねした。先生はいわれた、「まずその言おうとすることを実行してから、あとでものをいうことだ。」

子の曰わく、古者(こしゃ)、言をこれ出ださざるは、躬(み)の逮(およ)ばざるを恥じてなり。(里仁第四―二十二)

《現代語訳》
先生がいわれた、「昔の人がことばを〔軽々しく〕口にしなかったのは、実践がそれに追いつけないことを恥じたからだ。」

子の曰わく、君子は言に訥(とつ)にして、行に敏(びん)ならんと欲す。(里仁第四―二十四)

《現代語訳》
先生がいわれた、「君子は、口を重くしていて実践には敏捷でありたいと、望む。」

孔子は、軽々しく言葉を口に出すことを戒めた。重要なのは実践であり、行動に移してからそのことを言うべきだと説いている。逆に、孔子は口達者な者をひどく嫌っていた。

子の曰わく、巧言(こうげん)令色(れいしょく)、鮮(すく)なし仁。

《現代語訳》
先生がいわれた、「ことば上手の顔よしでは、ほとんど無いものだよ、仁の徳は。」

という文章は、学而第一―三と陽貨第十七―十七の2か所に登場する。以上を総合すると、孔子が考える理想の行為の順番は、「学⇒聞⇒行⇒言」ということになりそうだ。

『渋沢栄一「論語」の読み方』には、渋沢が幕末から明治時代にかけて出会った様々な人物の評価が記されていて非常に興味深い。その評価内容を先ほどの4つの行為ごとに整理してみると、下表のようになる。渋沢はそれぞれの人物の4つの行為全てについて評価を書いているわけではないため、表が歯抜け状態になっている点はご容赦いただきたい。同書によれば、渋沢はどうやら木戸孝允と伊藤博文を高く評価していたようだ。2人の「学」については不明だが、2人とも周りの人の意見をよく聞き、言行一致のタイプであったという。

言行一致が行きすぎた人物として渋沢が名前を挙げているのが、江藤新平である。岩倉具視らが諸外国との不平等条約を改正するために洋行している間、江藤新平は西郷隆盛らとともに留守中の明治政府を預かった。肥前藩出身の江藤は、明治政府が長州派によって牛耳られていることが我慢ならなかった。そこで、長州派の腐敗をこれでもかと言わんばかりに糾弾した。実は、『渋沢栄一「論語」の読み方』には江藤新平の具体的なエピソードは登場しないのだが、渋沢が下した「残忍にすぎる」という評価は、この出来事を下地にしているのではないかと推測される。

ここからは、西郷隆盛、大隈重信、大久保利通、井上馨という4人について、渋沢による評価をもっと掘り下げて見てみたいと思う。

(1)西郷隆盛

西郷隆盛はしゃべりがあまり上手ではなかった。しかし、言ったことはほぼ間違いなく実行する気概を持っていた。渋沢は西郷のことを「器ならざる人」と表現している。これは、為政第二―十二の「子の曰わく、君子は器ならず。」という文章を意識したものである。器とは道具であり、用途が決まっている。そのような器とは異なり、君子の役割は無限定だという解釈をすることができる。また、「器の大きい人」という言い回しがあるように、器とは人間の包容力を表す。だが、器は有限物であるから、包容力にも限界がある。器でない君子の包容力はどこまでも広く、人々を果てしなく包み込むものである、という解釈もできる。

1872年、神田小川町の渋沢の自宅を突然西郷が訪ねたことがあった。当時の西郷は参議、渋沢は大蔵大丞である。参議がわざわざ大丞の方へ出向くというのは異例中の異例である。何事かと思えば、二宮尊徳が相馬藩に伝えた「興国安民法」という法律についてであった。前年の廃藩置県により同法に基づく制度は廃止されることになっていたのだが、相馬藩の者が法を残してほしいと西郷に頼み込んでいた。ところが、西郷はこの法律のことをよく知らない。そこで、渋沢なら知っているだろうと渋沢の元を訪れたのであった。

興国安民法は、相馬藩の過去180年の財政実績から一定の予算額を定めておき、歳入がその額を上回った年に限り殖産興業や土地の開拓を行うというものである。これにより、相馬藩の財政は安定した。渋沢は同法の優れた精神を西郷に説明すると、大蔵省の仕事で日頃から溜まっていた鬱憤まで西郷にぶつけ始めた。国家予算も興国安民法と同じ考えで編成しているというのに、太政官の評議では参議が各省の要求を呑んで過大な支出を押しつけてくる。これでは国家財政が危ない、と。西郷は渋沢の苦言にじっくりと耳を傾け、納得した様子で帰って行った。その後ろ姿に、渋沢は西郷のスケールの大きさを感じたという。

しかし、西郷は征韓論においては行動が伴っていなかったと渋沢は指摘する。非戦論者を相手に論戦たけなわとなった時、大隈重信から戦争の資金はどうするのかと尋ねられた西郷は、「自分は軍人であるから戦をすることしか考えていない。資金はあなた方で用意してほしい」と言い放った。廃藩置県を実行したばかりの政府には、戦争をするだけの資金などない。よりによって非戦論者の人間に向かって資金を作れと要求するのは、無責任との誹りを免れ得ない。

(2)大隈重信

渋沢の生涯は波乱万丈である。渋沢は、水戸学に影響された尾高惇忠から教えを受けていたこともあり、最初は攘夷派であった。そして、自らの思想を試すために、攘夷計画の実行に踏み切った。だが、計画は失敗に終わり幕府から目をつけられてしまう。そんな渋沢を救ったのが、一橋家の家臣・平岡円四郎であった。1864年、渋沢は平岡の取り計らいで、一橋慶喜(後の徳川慶喜)に仕官する。農家の出身である渋沢が武士に転身した瞬間であった。

攘夷派であった渋沢は、開国派である平岡や、募兵のために出向いた備中の地で知り合った阪谷朗廬と議論を重ねるうちに、開国派へと傾いていく。そして1866年、フランスのパリで開かれる万国博覧会に慶喜の弟・昭武が参加し、そのまま5年ほど海外留学することが決まると、幼い昭武に渋沢が付き添うことになった。もし、渋沢の考えが攘夷派のままであったら、渋沢は渡欧を断ったかもしれない。しかしながら、開国派に転じていた渋沢は、諸外国の実態を間近に見て、列強に肩を並べるヒントを得る絶好のチャンスだととらえた。

1867年、慶喜による大政奉還が行われた時、渋沢はヨーロッパにいた。明治政府から帰朝命令を受けた渋沢は、1868年11月に帰国する。渋沢は慶喜が隠居する静岡へと向かった。渋沢はそのまま静岡で慶喜に仕えながら過ごすつもりだったらしい。ところが、1869年11月、渋沢は民部省租税正(そぜいのかみ)という、現在の局長クラスにあたる思いもよらぬ辞令を受けた。自分は旧幕臣であり、主君である慶喜を朝敵へと貶めた薩長の人間などと一緒に仕事はできないと、渋沢は大蔵兼民部卿の大隈重信に断りを入れようとした。

大隈は、渋沢がヨーロッパで獲得した知見を高く買っていた。その上で、次のように述べて渋沢を説得した。「我が国では、昔から、何かあると八百万の神々が集まり協議すると言われている。今は、神々が高天原で、どのような日本を建設するかと知恵を出し、話し合っているところだ。君もその八百万の神の一柱となって、新しい日本の建設に一肌脱いでくれたまえ」。「八百万の神の一柱」と言われてしまっては、渋沢も断る理由がなくなってしまった。

とはいえ、大隈重信は自分が言ったことを必ずしも実行に移すとは限らない人間であったと渋沢は評している。一番渋沢が困ったのは、大隈がとにかく人の話を聞かないことであった。せっかく大隈に意見を持って訪問した人でも、言い出せないどころかかえって大隈の意見を拝聴して帰って来る人を渋沢はたくさん見てきた。そこで渋沢は、談話に入る前に、「今日はかくかくの用件で参上したのであるから、まずは私の話をお聴き取り願いたい。ご高見はその後からおうかがいします」と前もって約束するようにしていたそうだ。

(3)大久保利通

大久保利通に関しては、「学⇒聞⇒行⇒言」に関する渋沢のはっきりした評価を読み取ることができなかった。渋沢は大久保の性格を「仁半分、不仁半分」と表現している。征韓論に敗れた江藤新平をさらし首の刑に処したのはやりすぎであったと渋沢は振り返る。渋沢は大久保も「器ならざる人」だと言う。だが、西郷の「器ならざる人」とは全く性質が異なる。渋沢から見た大久保は、一体何を考えているのかが解らず、腹の底が全く見えない人物であった。西郷は「無限の温かさ」を持つのに対し、大久保は「不定の冷たさ」を持つと言い表すことができる。

前述のように、渋沢は元々慶喜に仕えた幕臣である。一方、大久保は薩摩藩のドンであり、幕臣のことが大嫌いであった。渋沢はそんな大久保を心底苦手としていた。

大隈の説得で民部省での仕事を始めた渋沢は、職務権限が広すぎかつ事務処理方針が不明で、役人が目先の業務に追われて右往左往している様子に驚いた。このままでは国の基盤作りが一向に進まないことを危惧した渋沢は、改正掛という新しい組織を作り、有能な役人を集めて、法律や制度の新設、政策の企画や提案、調査を行うことにした。この改正掛は、大隈が大蔵卿である間は機能したものの、1871年に大蔵卿が大久保に代わると廃止されてしまった。幕臣嫌いの大久保による策略であることは明らかであった。

大蔵卿に就任した大久保は、渋沢を呼び出して軍事費を増額したいと提案した。だが、興国安民法の精神を是とする渋沢の考えは、「出を制して、入るを図る」というものである。列強に肩を並べるために軍備増強が必要であることは解る。とはいえ、大久保の言う通りに軍事費を増やしたら、他の省も予算を増やしたいと言い出すに違いなく、財政基盤が危うくなる。渋沢がそのことを率直に申し上げると、大久保は激高した。この時、渋沢は官僚を辞める決意を固めた。

(4)井上馨

1871年、大久保が大蔵卿に就任すると同時に、大蔵大輔に井上馨が就任した。大蔵大丞となった渋沢から見て、井上は直属の上司となる。井上は抜群に頭脳明晰であった。ただ、唯一にして最大の難点は、怒りを移しやすいということであった。いつも部下を怒鳴り散らしていたことから、「雷オヤジ」というあだ名がついた。ところが、なぜか渋沢だけは井上の怒りをかわして話をすることができたので、渋沢は「避雷針」と呼ばれるようになった。

井上と渋沢は「出を制して、入るを図る」という方針を共有しており、関係は良好であった。反面、2人と他省との関係は常に緊張していた。1873年、最も財政事情を理解する大隈が大蔵省の予算増額拒否の具申書を突っぱねると、井上の堪忍袋の緒が切れた。井上は大蔵省の吏員を前にして辞職を切り出した。渋沢もそれに呼応して、大蔵省を去ることにした。

渋沢は井上との連名で「財政改革に関する奏議」を政府へと提出した。その全文が新聞や雑誌にも掲載され、大いに物議を醸した。歳入は4,000万円ほどしかないのに、歳出は5,000万円を超えており、1,000万円以上不足している。この不足分と官省旧藩の負債約1億2,000万円を合わせると、政府の負債は1億4,000万円にも上り、しかも償還の目途は立っていない。政府の厳しい懐事情が白日の下にさらされた。この一件があってから、国家予算は毎年公表されるようになった。

感情の起伏が激しい人は意思決定が曇りそうなものだが、こと人物鑑別に関しては、井上は冷静だったと渋沢は述懐する。『論語』には、人物観察について次のような文章がある。

子の曰わく、其の以(な)す所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察すれば、人焉んぞ廋(かく)さんや、人焉んぞ廋(かく)さんや。(為政第二―十)

《現代語訳》
先生がいわれた、「その人のふるまいを見、その人の経歴を観察し、その人の落ちつきどころを調べたなら、〔その人がらは、〕どんな人でも隠せない。どんな人でも隠せない」。

渋沢は生涯のうちに約500もの企業、約600もの社会事業の立ち上げに関与している。当然のことながら、渋沢が全ての経営を行うことなどできないから、誰かに任せなければならない。その誰かを選ぶ際に、渋沢は『論語』のこの文章をよくかみしめていたという。