【家族論】生涯で最も長く時間をともにするのは血のつながっていない配偶者

【家族論】生涯で最も長く時間をともにするのは血のつながっていない配偶者

平成25年度版『障害者白書』では、精神障害者は320.1万人と報告されていた。それから5年後の平成30年度版『障害者白書』によると、精神障害者は392.4万人と、約23%増加している。精神障害の治療には家族の協力が欠かせないと言われる。精神科医は患者本人の受診だけではなく、家族を含めた受診を推奨しており、家族ぐるみで治療にあたる体制を整えている医療機関もあるそうだ。血のつながりがあり、患者に接する時間が長く、患者のことを最もよく理解している家族に治療効果を期待しているのだろう。

だが、以前の記事でも書いたように、患者と家族の距離が近いことが裏目に出ることも少なくない。精神障害者は自己肯定感が低いのが特徴である。幼少期に両親から受けた過度に厳しい教育・しつけのせいで、あるがままの自分を受け入れることが難しくなっていることが要因の1つだとされる。「もっとこうしなさい」、「何でこんなことができないのだ?」という両親の怒鳴り声が、大人になってからも患者の心を支配する。これを「インナーペアレント=内なる親」の声と呼ぶ専門家もいる。さらに、精神疾患の中には、遺伝との関係が疑われるものがある。精神疾患の原因が両親にあると言われたら、両親がいい顔をしないのは間違いない。

そういうことも影響してか、精神科医の期待とは裏腹に、患者とその家族の関係は崩壊していることが多いと思う。私もそういうケースをたくさん見てきた。人は、血縁関係にある者を、血がつながっているからという理由で大切に扱うとは限らないのである。統合失調症の患者とその家族に着目したイギリスの研究によると、家族の中には患者を強く非難する、否定する、無視するといった行動を取る人たちもおり、当然のことながら、そのような「EE(Expressed Emotion:感情表出)家族」の下では、患者の予後が芳しくないことが報告されている。だから私は、上記の記事の中で、精神障害者は家族以外の支援者を見つけることが重要であると結論づけた。

私は普段から映画を全く観ないので映画のことはよく解らないのだが、2018年に公開された『万引き家族』では、全員が血縁関係のない疑似家族という柴田家が、まるで本物の家族であるかのように深い絆を通わせる姿が描写されていたという。

万引き家族
リリー・フランキー

齋藤孝教授の『大人の道徳』(扶桑社、2018年)には、 インドネシアのスンバ島の家族を研究している社会人類学者の小池誠教授への言及があった。

大人の道徳 (扶桑社新書)
齋藤 孝
扶桑社
2018-09-02

スンバ社会の家族形態には柔軟性があり、親子関係に基づく家族構成員に加えて、未成年の親族が同居しているケースが多い。また、夫婦が孫を一時的に育てたり、さらには身寄りがなくなり1人では生活できなくなった高齢者を誰かが引き取って一緒に暮らしたりするという、非常に拡張性の高い支え合いの慣行もある。

一方、今の日本の家族形態については、「夫婦と子どもから構成される『核家族』(近代家族)を聖域化して、その外部に対して閉鎖性を示す傾向が顕著になっている。都市部ではたとえ実の親であれ、老親を引き取って自宅で面倒を見ることは重大な覚悟を伴う決断となっている」と指摘している。さらに、「もともと日本では慣行として養子・里子が盛んであったが、今日ではその実数が激減している。たとえ一時的であれ、『家族』以外の人間と1つの住居で暮らすのに抵抗感を示す人が多くなっている。一昔前は地方出身者がよく親族の家に住み込んで大学に通っていたが、近年は珍しくなっている」とも言う(国立民族学博物館『民博通信』No.135)。

小池教授が述べるように、かつての日本では養子も一般的であった。跡継ぎに恵まれなかった家に、自分の家から子どもを1人あげよう、といったことが普通に行われていた。だから、実の兄弟でも養子に行ったので苗字が違うという人たちがたくさんいた。家族の考え方が今とは違っていて、子どもは一族皆で育てればよいという感覚であった。

齋藤教授の実家でも、小さい頃は職人さんが大勢出入りしていたという。それに父親の兄弟もたくさんいたため、いつも20人前後が出入りするごった煮のような家で、母親は一日中家事に追われていたそうだ。まだ昭和30年代ぐらいまでは、斎藤教授の家ばかりではなく、こういう大人数の家族というものが残っていた。血のつながりが薄くとも、あるいは血のつながりが全くなくとも、家族を形成することが可能であると示唆されている。少なくとも、そういう家族が普通に存在した時期も日本にはあったわけだ。

沖縄では、今でも「ゆいまーる」という習慣が残っている。 「ゆい」は「結」(共同、協働)であり、「まーる」は「回る」の訛りで順番を表す。結とは、 労働力を対等に交換しあって田植え、稲刈りなど農の営みや住居など生活の営みを維持していくために共同作業を行う相互扶助のことを言う。よって、ゆいまーるとは相互扶助を順番にかつ平等に行っていくことを意味する。例えば、 ウージ(サトウキビ)畑の収穫の際、5人でゆいまーるが組織されたとする。この5人は、一致団結して1軒ずつ順番に全てのサトウキビ刈りを行う。子育てもゆいまーるによって行われており、血縁関係にない近隣の人が子どもの面倒を見ることが日常的な光景となっている。

個人的には、人がある人を大切にするかどうかには、血縁は関係ないと思う。考えてみると、家族の中で最も長い時間を共有しているのは、血がつながっていない夫婦だ。生まれてから血のつながった両親の下で育てられた人も、20代になって社会人になれば両親から独立する。その後、30代になって血のつながっていない人と結婚する。2人の間に血のつながった子どもを設けても、その子どもが20代になれば、また親元を離れていく。残った夫婦は、手を取り合いながら老後を過ごしていく。夫婦が時間をともにする期間は半世紀にも及ぶであろう。

人がある人を大切にするかどうかは、結局のところ「大切にする」という意思に依拠する。その意思を不断に行為へと表出させるところに関係は成立する。愛はそこに「ある」という名詞ではなく、能動的に「する」という動詞に他ならない。文化人類学においては、既に家族を定義することが放棄されているという。また、日本家族社会学初代会長である森岡清美氏は、「家族とは、夫婦・親子・きょうだいなど少数の近親者を主要な成員とし、成員相互の深い感情的関わりで結ばれた、幸福(well-being)追求の集団である」と定義している(太字は筆者)。

「愛『する』」という動詞が機能する限り、従来的な意味での家族という枠組みを拡張してもよいのではないかと考える。端的に言えば、狭義の家族の中に血のつながっていない他人を入れてもよい。共同体は家族の営みによって支えられている。共同体の最低限の機能とは、①人を産む、②人を養う、③人を育てる、という3つである。この3機能のいずれかを満たす集団を家族と呼ぶ。家族の境界線は非常に緩やかなものになり、ある人が複数の家族に所属することもある。子どもが複数の家族に育てられることも、高齢者が複数の家族に養われることもある。精神障害者が複数の家族に見守られながら心の傷を癒し、再び自立への道を歩むことがあってもよい。

『論語』にこんな文章がある。

司馬牛憂へて曰わく、人皆な兄弟あり、我れ独り亡し。子夏が曰わく、商これを聞く、死生 命あり、富貴 天に在り。君子は敬にして失なく、人と恭しくして礼あらば、四海の内は皆な兄弟たり。君子何ぞ兄弟なきを患えんや。(顔淵第十二5)


司馬牛とは孔子の門人で宋の人間である。その兄の桓魋が無法者で今にも身を滅ぼしそうであったため、嘆いてこう言った。「人々には皆兄弟があるのに、自分だけにはない」。同じく孔子の弟子である子夏はこう諭した。「商(子夏のこと)はこういう風に聞いている。『死ぬも生きるも定めあり、富も貴きも天にある(ままならない)』。つまり、あなたの兄さんのことも仕方がない。君子は慎んで落ち度なく、人と交わるのに丁寧にして礼を尽くせば、世界中の人は皆兄弟になる。君子はどうして血のつながった兄弟がいないことを嘆くだろうか?」子夏は、敬と礼の心があれば、どんな人とでも実の兄弟と同じような関係を結ぶことができると言っている。

家族関係が崩壊して、共同体の機能が公的機関に転嫁されるようになったと言われて久しい。だが、共同体の機能が実際にどのような形となって現れるかはケースバイケースであり、非常に複雑である。これまた以前の記事で書いたように、行政が福祉の分野で個別対応をするのには困難を伴う。行政機関においては支出に裏づけが必要であり、きめ細かいサービスの1つ1つに根拠を持たせるにはあまりにも時間がかかりすぎる。行政にできるのは、先の3機能を発揮する家族が増えるように、穏当なインセンティブを用意することにとどまる。

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LGBTにも婚姻を認めるべきだという主張に対しては、私は個人的に反対している。というのも、婚姻とは子を産みうる関係を指すものだと考えるからだ。異性同士の婚姻に法的な保護が用意されているのは、国家が子を産むという共同体の機能を促進するインセンティブを与えていることを意味する。他方で、LGBTがお互いを支え合う、養い合うという関係であれば家族と呼んでも構わないし、婚姻関係とは別のインセンティブを検討するべき時期にあると思う。