日本からイノベーションが生まれない根源的理由
- 2020.09.23
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イノベーションは既存の考え方を破壊し、新しい原理原則を打ち立てることによって生み出される。既成概念を打破するための思考法として、しばしばヘーゲルの弁証法が用いられる。全ての命題(テーゼ=正)は己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立する反対命題(アンチテーゼ=反)が生み出される。生み出したものと生み出されたものは互いに対立し合うが、同時にまさにその対立によって互いに結びつく。最後には2つがアウフヘーベン(止揚)され、本質的に統合した命題(ジンテーゼ=合)へと至る。
ただし、現実は例えばPとQのみが完全に対立する二律背反の世界になっているわけではない。対立構造はもっと複雑で、PとQ、QとR、RとP・・・が対立している。ここで弁証法を用いる人は、1つ1つの対立に対して生真面目に弁証法を適用する。P⇔QからはP’を、Q⇔RからはQ’を、R⇔PからはR’を導く。しかし、この方法では対立構造が変質するだけであり、多少物事が前進することはあっても、対立構造そのものがなくなり統合された世界が出現するわけではない。
イノベーションを得意とするアメリカ人などは、これとは全く異なるアプローチを取る。P⇔Q、Q⇔R、R⇔Pという3種類の対立を一気に解決できないかと考える。そのために彼らが用いるのは、P、Q、Rとは無関係に見える概念、すなわちA、I(=ローマ数字の1)、甲である。これらを組み合わせて、彼らが信奉する唯一神のように普遍性が極めて高い標準を確立する。新しい標準の下では、P⇔Q、Q⇔R、R⇔Pという個々の対立は全て回収され、無効化される。
ダイバーシティ(多様性)はイノベーションの源泉であるとアメリカ企業が言う時、ダイバーシティによって生まれる各種の意見や価値観の対立の“中から”新しい概念が導かれるとは考えていない。対立はあくまでも契機に過ぎない。様々な対立を“なかったことにする”くらい大きな普遍を確立することこそがイノベーションの神髄である。なかったことにされる対立が広範囲で多岐にわたっているほど、そのイノベーションは強力に世界を包み込む。
ただし、アメリカ人とて万能ではなく、新しい標準の確立にいつも成功するとは限らない。個別の対立とは無関係な概念を材料とするのが効果的だと解っていても、用いる材料の組み合わせには無限の可能性がある。だから、イノベーションは試行錯誤の連続である。そして、大部分は失敗に終わる。その失敗を許容することが、イノベーションを生み出す上では必要不可欠である。
日本企業は最近になってようやくイノベーションに注力し始め、高い技術や専門知識を有する若者を即戦力として積極活用するようになった。だが、即戦力人材に対してすぐに成果を出すことを求めるならば、残念ながら人事部や現場の期待は泡と消えるに違いない。イノベーションの成果はそんなにすぐには出ない。10年ぐらい我慢しなければならないこともあるだろう。
日本企業の中には、次世代リーダー育成プログラムと称して、若手の優秀な社員を抜擢し、特別なトレーニングを実施している企業もある。日本企業の教育訓練の特徴は事前学習である。すなわち、課題を解決し成果を上げるために必要な知識やノウハウを、課題に取り組む前に頭脳に注入する。これは、成功事例が多数積み上がっている分野では極めて有効である。しかし、イノベーションとは、過去の事例を超越することに意味がある。そして、乗り越え方は誰にも解っていないのである。したがって、イノベーションに貢献する学習とは、事後学習に他ならない。多数の失敗を経験し、なぜその組み合わせや発想法、アプローチが失敗したのかを徹底的に振り返る学習である。次世代リーダープログラムでは、現場の課題に取り組む“前”に何か月も演習を行う場合が多いが、課題に取り組んだ“後”に何か月もかけてその活動を分析することは少ない。
即戦力採用や次世代プログラムの実施に魅力を感じ、その企業に入社すれば刺激的なキャリアを歩むことができると勘違いしてしまう若者側にも問題がある。確かに、イノベーションは創造的である。アイデアを考える段階は楽しいし、アイデアが徐々に形になっていく様子を目の当たりにするのはもっと面白い。ところが、イノベーションを事業化する段階では、退屈な作業が延々と待ち受けていることは意外と見落とされている。
仕様書や設計書を整理し、製造ラインや品質管理体制を確立し、製品テストを何千回、何万回と繰り返し、取扱説明書の内容を一言一句チェックし、あらゆる情報源に当たって潜在顧客のリストを作成し、プロモーションツールのデザインや文章に逐一目を通し、テストマーケティングの結果を集計し、プロジェクトで発生するコストをもれなく記録し、取引先と契約条件を細かく詰め、その他諸々の調整を関係者との間で積み重ねなければならない。こうした現実を理解しないまま入社してしまった若手社員は、リアリティショックに直面して挫折する恐れがある。
ここまで述べてきた日本企業の問題に対しては、ある程度改善策を施すことが可能である。すなわち、失敗を許容する組織風土の醸成や人事制度の構築に努めること、事後学習型の社内教育の仕組みを導入すること、仕事の現実を十分に伝えた上で若手社員を採用すること、である。とはいえ、これらの策を講じたとしても、日本企業がイノベーションを生み出すことができない根源的な理由が存在しているような気がしてならない。
P⇔QからP’を、Q⇔RからQ’を、R⇔PからR’を導くのはコンフリクト・マネジメントである。コンフリクト・マネジメントにおいては、対立する2人の潜在的なニーズを掘り下げ、両者のニーズをともに充足する方法を模索する。お互いのニーズを満たすという点で、マーケティング的、利他的な発想に依拠している。これに対して、イノベーションとはP⇔Q、Q⇔R、R⇔Pという個別の対立を、唯一神的・普遍的な標準によって無効化する営みである。やや乱暴な言い方をすれば、P、Q、Rの個々のニーズは無視され、イノベーターが描く理想世界の実現に3人を付き従わせるリーダーシップを必要とする。
リーダーシップとは力である。アメリカの国際政治学者ジョセフ・ナイは、力とは「自分が望む結果になるように他人の行動を変える能力」(『ソフト・パワー』)であり、リーダーシップとは「ある目的に向かって人々を動員すること」(『リーダー・パワー』)であると述べている。つまり、イノベーションは極めて利己的な活動なのである。
もちろん、アメリカ人は自分たちのリーダーシップやイノベーションが利己的だとは絶対に認めない。『ビジョナリー・カンパニー』シリーズの著者であるアメリカの経営学者ジェームズ・C・コリンズは、多数の偉大な企業を分析した上で、イノベーティブな企業は利他主義を貫いていると指摘する。そして、ビジョナリー・カンパニーの原型をアメリカ建国以来の政治に見出す。しかし、アメリカの政治は、自国の建国理念をなし、自国の根源的価値観となっている自由、平等、民主主義を全世界に広めることを大義としている。アメリカはそれが世界のためと言うものの、他国から見ればアメリカ化を意味する利己的な国際戦略に映る。
アメリカの場合、人間の出発点が利己にある。新型コロナウイルス感染症が広まり、ソーシャルディスタンスの徹底やマスクの着用が呼びかけられても、黒人に対する人種差別には断固として抗議し、抗議活動が抑圧されれば今度は民主主義の危機だと声を上げる。街中でのデモ活動が感染を広め、医療体制に負荷をかける結果になったとしても、アメリカ人は自分たちが心の底から信じる普遍的価値観を優先させる。
利己から出発したアメリカ人は、イノベーションやリーダーシップに長けている。ただ、キャリアを重ねるうちに、利己から利他に転ずる人も多い。利己的なイノベーションによって新たな市場を創造した後、利他的なマーケティングに移行する。イノベーションの当初は無視した個別ニーズに寄り添うことで、市場の持続的な成長を目指す。さらに、個別ニーズへの対応を徹底させると、いわゆるOne-to-Oneマーケティングになる。One-to-Oneマーケティングによりニーズが細分化され、ニーズの対立が激しくなれば、今度は利己的な若いリーダーが新たなイノベーションによって市場を再構築する。
アメリカでは根底に「利己⇒利他」という人間的変化があり、それによって「イノベーション⇒マーケティング⇒One-to-Oneマーケティング⇒イノベーション・・・」という市場サイクルを論理的にイメージすることが可能である。これは、隣人愛を説く宗教が、完膚なき個人主義を導いた啓蒙思想によって乗り越えられた経験を有し、それでもなお宗教が未だ社会の隅々で強い影響力を持つ国に特徴的なのかもしれない。
一方、日本は利他の国である。国民にマスクの着用を呼びかける際、「自分が感染しないようにするために」着用するだけでなく、「周りの人に感染させないようにするために」着用することを強調したのは日本ぐらいだろう。日本がイノベーションに強くなるには、利他から利己への移行を促す必要があるのだが、これが最大の問題となる。というのも、利己から利他に移行した人は人間的な厚みが増すのに対し、利他から利己へ移行した人は評判を落とすケースが多いからだ。
若い時はやんちゃをしていたのに歳を取ってから丸くなった人は、若い時からずっと利他で生きてきた人よりも、時に周りから高い信頼を獲得するものである。これに対して、若い時に真面目に他人のために生きてきた人が歳を取ってから自分のために生きるようになると、なまじ権力と知恵があるだけに、暴力や不正に走ることがある。自分よりも弱い立場にある人々を抑圧し、組織の腐敗や犯罪に手を貸してしまう。
例えば小売店で店員に向かって暴言を吐き、会社のお金を着服する。もちろん、アメリカにも深刻な暴力や不正は存在する。だが、日本の中高年の場合は、せっかく今まで築き上げてきた評判をその程度の悪事によって失墜させるのかと思わせるほどつまらない悪事に溺れることがあまりにも多い。こうした「利他⇒利己」の移行に見られる心理的な欠陥のために、日本人にはどうしてもイノベーションを期待しにくい。
ただ、これではあまりにも希望がない話であるから、少しだけフォローしてみよう。日本人の利他と利己は、本当の意味での利他と利己ではないという可能性である。見せかけの「利他⇒利己」への移行であるから、障害が生じるのだと言えなくもない。日本人にとって、利他とは滅私、利己とはわがままを意味しているかもしれない。
イノベーションを実現する利己とは、「私が創造する世界は、あなた方にとっても住みよい世界であるはずだ」と自信を持って言い切ることである。世界を自分中心に見ていると同時に、周囲の人々のことも気にかけている。他方、わがままとは「自分さえよければよい」という刹那的な考えであり、そこに周囲の他者は存在しない。また、マーケティングにおける利他とは、あらゆる他者のニーズに対して無条件に応じる滅私ではなく、確固たる自分の軸を持ちながら、自分ができる範囲で他者に貢献することである。ピーター・ドラッカーがよく述べていたように、何でもできるというのは無責任なのである。
日本において利他が滅私を、利己がわがままを表してしまうのは、宗教的体験が貧弱であり、人権をめぐる議論が深化されなかったことと無縁ではないだろう。
本来、宗教とは利他的なものである。神道とは、社会の様々な役割を分担する神々のネットワークにアクセスして、困っている他者と自分との縁を取り持ってくれるよう祈る宗教である。日本で最も信者が多い仏教宗派である浄土真宗の教えは絶対他力である。これは、念仏さえ唱えていれば誰でも浄土に行けるという甘い話ではなく、念仏を唱えることを通じて、阿弥陀如来という他者が語りかける人間の本来性を聞き悟ることなくしては、絶対に浄土へ行くことができないという厳しい教えである。ところが、多くの日本人にとっては、神道も仏教も、自分の願い事を聞いてくれる現世利益の宗教と化しているのが現状である。
人権に関しても、その基底にある自由とは自分勝手に振舞ってもよいことだと解釈されている。そのため、普段は政府という権力からの介入を嫌う。ところが、自分が苦境に陥った時は政府による強力な支援を要求する。そのくせ、他人が苦境に陥った時は自己責任論を持ち出して、政府による支援を批判する。日本の人権論は、他者や権力との距離感があやふやで、社会における私とは何者なのかという問いに正面から答えることができていない。
日本人が「滅私⇒わがまま」から「利他⇒利己」へと転換するには、宗教と人権をめぐる議論を十分に消化し、その上でさらに宗教が人権を乗り越えるという、アメリカとは逆の経験を踏むしかない。そうすれば、日本人がイノベーションに強くなれるチャンスがわずかながら存在する。ただし、その道のりは果てしなく遠い。だから、私などは現実的な路線として、アメリカその他利己を徹底できる国から生まれるイノベーションが成熟してマーケティングのフェーズに移行したものを輸入し、日本人の利他(滅私?)の精神によって維持するという道にすがりたくなる。
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