ジョセフ・ナイ3部作『ソフト・パワー』、『リーダー・パワー』、『スマート・パワー』を読んで 

ジョセフ・ナイ3部作『ソフト・パワー』、『リーダー・パワー』、『スマート・パワー』を読んで 
 
ソフト・パワー 21世紀国際政治を制する見えざる力
ジョセフ・S・ナイ
日本経済新聞出版
2004-09-14

リーダー・パワー
ジョセフ S ナイ
日本経済新聞出版
2008-12-17

スマート・パワー―21世紀を支配する新しい力
ジョセフ・S・ナイ
日本経済新聞出版
2011-07-21

ジョセフ・ナイはアメリカの政治学者で、民主党政権でしばしば政府高官を務め、ジャパン・ハンドラーとしても知られる人物である。ナイの3部作『ソフト・パワー』、『リーダー・パワー』、『スマート・パワー』を約10年ぶりに読み直してみたのだが、本によって少しずつ主張している内容が変化しており、ナイの考え方をトレースするのに苦労した。今回の記事は、私なりにナイの議論の問題点を列挙するものである。

国際政治とは、主体のパワーがぶつかり合う舞台である。『ソフト・パワー』の中では、パワーとは「自分が望む結果になるように他人の行動を変える能力」と定義されている。国際政治の舞台において、国家が発揮する典型的なパワーと言えば、軍事力と経済力である。ただし、軍事力と経済力だけで、相手国の行動を望ましい方向に変えることができるとは限らない。ナイは外交政策や価値観、文化といった資源の有効性に注目し、これらの資源に基づくパワーを「ソフト・パワー」と呼んで、従来の軍事力や経済力を「ハード・パワー」とカテゴライズした。

ハード・パワーは「誘導と脅し」つまり「飴と笞」の両方に基づいている。これに対して、ソフト・パワーは「人びとの好みを形作る能力」に基づく。ハード・パワーがプッシュ型の支配力であるとすれば、ソフト・パワーはプル型の吸引力である。とはいえ、実際のところ、ハード・パワーとソフト・パワーは連続しており、支配力が弱まり吸引力が強まるにつれて、強制⇒誘導⇒課題設定⇒魅力という形でパワーの行使形態は変化していく(『ソフト・パワー』)。

一般的に、ナイの学問的業績と言えば、このソフト・パワーという概念の発見を指す。しかしながら、国際政治において文化などが影響力を持つことを指摘したのは、ナイが初めてではない。E・H・カーは早くも1930年代に、政治における権力を軍事力、政治力、宣伝力という3つに分類した。H・モーゲンソーは第2次世界大戦直後に、現状の変更を実現する政策(モーゲンソーの言葉では帝国主義)には軍事帝国主義、経済帝国主義、文化帝国主義の3種類があると整理した。ナイの発想は、彼らの延長線上にあるものと言ってよいだろう。

ナイは、「力を生み出す資源」と「力」そのものを混同しないようにと繰り返し警告している。トランプゲームを引き合いに出して、ポーカーなら勝てる高位札を持っていても、その時のゲームがブリッジなら役に立たないというわけである。力を生み出す資源として我々がすぐに思いつくものには、人口、領土、天然資源、軍隊の強さ、経済規模などがある。資源は客観的に測定することが容易であるがゆえ、パワーの大きさを推定しやすい。ところが、その資源を適切にパワーに転換する「能力」がなければ、せっかくの資源も宝の持ち腐れとなってしまう。

第1作目の『ソフト・パワー』では、この「能力」の中身が必ずしも明確ではなかった。能力に関する具体的な議論は、第2作の『リーダー・パワー』で展開される。ナイは、ハード・パワーに転換する能力として①組織能力、②マキャヴェリズム的スキルを、ソフト・パワーに転換する能力として①EQ(心の知能指数)、②コミュニケーション、③ビジョンを挙げた。

「資源が能力によってパワーに転換される」という構図は、第3作目の『スマート・パワー』になるとよりはっきりする。もっと言えば、それまでは軍事力や経済力を端的にハード・パワーと位置づけていたナイの見方に大きな変化が現れる。つまり、軍事力や経済力であってもソフト・パワー的な側面を有することがある点を認めているのである。

人員、武器、戦略、外交、組織、予算などの軍事資源は、ハード・パワーに転換する能力(ナイはこの能力に特別の名称を与えていないが、上図では解りやすくするために「ハード・スキル」と名づけた)によって、戦闘、破壊、威嚇外交といったハード・パワーの行使に至る。一方で、同じ軍事資源を用いても、ソフト・パワーに転換する能力(同じく、上図では「ソフト・スキル」とした)をもってすれば、同盟、平和維持、援助、訓練といったソフト・パワーの行使に至る。

経済力に関しても同様である。GDPの規模と質、技術、天然/人的資源、市場に関する政治/法律制度などの経済資源は、ハード・スキルによって制裁、報奨といったハード・パワーの行使に至る。一方で、同じ経済資源を用いても、ソフト・スキルをもってすれば、経済援助といったソフト・パワーの行使に至る。

ナイの議論をめぐる1つ目の問題は、前述のように「力を生み出す資源」と「力」そのものを区別しなければならないというナイ自身の忠告にもかかわらず、ナイは国家のパワーを資源によって評価する傾向が強いということである。『スマート・パワー』では、アメリカとヨーロッパ、日本、ブラジル、ロシア、インド、中国のパワーを比較評価し、アメリカが覇権を譲る日が来るのか否かを予測している。しかし、判定の根拠となっているのは、主に軍事・経済資源の大きさである。

アメリカが過去にロシアの軍事資源のみ、日本の経済資源のみに着目してしまった(そして、両国のパワーを過大評価してしまった)という反省は活かされているものの、資源と能力を区別するという根本的な原則は遵守されていない。

確かに、『リーダー・パワー』で抽出したハード・スキルやソフト・スキルそのものを評価することが困難である点はナイも理解している。そのため、ヨーロッパのパワーを評価するにあたっては、「ヨーロッパの統合度」という新しい尺度を持ち出している。ヨーロッパの各種資源がハード/ソフト両面のスキルによって転換された結果の1つがヨーロッパの統合度合いに現れるという発想に立っているのだが、それにしてもあやふやな指標である。

では、どうすれば能力の大きさを測定することができるだろうか?我々は、ある国のパワー行使が功を奏すれば、その国の能力をつい高く評価してしまいがちである。これは企業においても同じであって、ある社員の成果が大きければ、その社員の能力を高く見積もる傾向が強い。だから、1990年代から日本企業に急速に広まった成果主義に対して、日本企業の伝統である能力主義をやはり貫かなければならないと批判を向ける人が、結局は成果主義的な評価を行ってしまうというジレンマにしばしば陥る。

国家の能力を正しく評価するためには、その国家が取った具体的な政治的行動を丁寧に拾い上げるしか方法はないと考える。ハード・スキルを評価するには、組織能力が発揮された行動、マキャヴェリズム的スキルに該当する行動を1つずつ描写する。ソフト・スキルを評価するには、EQが発揮された行動の他、その国の具体的なコミュニケーションやビジョンを1つずつ検証する。

ポイントは、国家のパワーが成功を収めた場合だけでなく、失敗に終わった場合においても、同じように行動を評価することである。成功する時は必要な行動を取ることができるのに、失敗する時はからっきし行動が取れなくなるという国家は、能力が高いとは言えないだろう。企業でも同様であり、例えば営業スキルと言えばヒアリング力、情報収集力、仮説立案力、人脈形成力、提案力、価格交渉力、クレーム対応力、製品知識などが挙げられる。受注できる時はあらゆる能力がいかんなく発揮されるのに、失注する時は必要な行動を取っていない営業担当者は、能力面においてまだまだ課題があると言わざるを得ない。

営業は能力が全て結果に結びつく世界ではなく、例えば顧客の気まぐれ、さらには景気動向といった、営業担当者本人にはどうしようもない外的要因によって失注することも多い。それでも、真に優秀な営業担当者とは、全ての営業スキルとまでは言わないにせよ、ある程度の能力を発揮して最善を尽くしているものである。だから、人は失敗しなければ、本当に能力があるかどうか判断できないと私は考える。

一営業担当者の業績ですら、本人の能力以外の外的要因によって左右される。まして、多様な国家の利害が複雑に絡み合う国際政治においては、国家の思い通りの結果にならないことが多々ある。ただ、逆に言えば、失敗の数だけ国家の能力を適切に評価する材料が豊富に存在することを意味する。アフガニスタン政策に失敗してアルカーイダを生み出し、大義名分に欠けるイラク戦争で中東を混乱に陥れ、シリア戦争でイスラム国を適切にコントロールできなかったアメリカは、国際的な評判を大きく傷つけたが、それでも依然として世界の覇権国としての地位を維持している。成功と失敗の両方を合わせて国家の能力を適切に評価する方法の開発は、幾多の成功と、それに勝るとも劣らない数の失敗を重ねているアメリカ自身が最も向いているはずである。

2つ目の問題は、民主主義社会においては、ソフト・パワーの方が道徳的になりやすいというナイの認識にある。この認識にはさらにいくつかの細かい問題が内在している。まず、『リーダー・パワー』によると、ナイの学問的関心はあらゆる時代のリーダーを検証し、長年の研究の蓄積があるにもかかわらず玉石混淆状態となっているリーダーシップ理論に1つの道筋を見出すことであった。ところが、最終的にこの試みは成功しておらず、現代の民主主義社会にフォーカスを絞る形で課題が極小化されている。

次に、民主主義は必ずしもソフト・パワーの有効性を決定づける要因ではない。民主主義には柔らかいイメージが、その対極にある専制主義には硬いイメージが何となくつきまとうため、民主主義社会においてはソフト・パワーが、専制主義社会においてはハード・パワーが効果的であるかのような錯覚を抱きやすい。しかし、これだと民主主義が優勢となっている現代において、当の民主主義国家が依然として戦争というハード・パワーに訴えることがある点を説明できない。逆に、専制主義社会においても、ソフト・パワーが上手に活用される例があることが見過ごされている。

中国儒教の重要な経典である四書五経の中に、『書経』という書物がある。これは、堯・舜・といった古代の聖帝から始まり、夏・殷・周各王朝の皇帝の政治を記録したものである。中国に限らず、古代の王朝は家産国家、つまり国王の私物であり、ここに儒教社会の特徴であるタテ社会という要素が加われば、自ずと専制主義になびきやすい。ところが、『書経』の中では、民衆に対して刑罰というハード・パワーの行使を控え、反対にひたすら中庸の道に従って徳を推し広めるソフト・パワーに訴えた皇帝こそが称賛されている。

同時に忘れてならないのは、儒家は決してソフト・パワー一辺倒の皇帝を理想化したわけではないということである。例えば、殷末期の暴君である紂王を討とうと発起した武王は、臣下に向かって易姓革命による正統性を訴求すると同時に、自らの命令に反する者は徹底的に処罰すると厳しく宣言している。ハードとソフトを織り交ぜて臣下を鼓舞するというやり方は、周の成王が反乱軍を征伐する決意を表明した文章にも表れている。

要するに、政治形態がパワーの有効性を規定するのではなく、ありていに言えば“時と場合による”。この点はナイも最終的に容認せざるを得なかったようで、「現代の民主主義社会においても、ハード・パワーは有能なリーダーには必要不可欠な道具だ」という記述も見られる(『リーダー・パワー』)。いやむしろ、状況に応じてハード・パワーとソフト・パワーを使い分けることこそが有能なリーダーの条件であるという結論に転換している(この結論については、後述の第3の問題でさらに掘り下げる)。

ナイはソフト・パワーの方が道徳的になりやすいと言うが、“道徳的”というのも抽象的な表現である。『リーダー・パワー』の後半はリーダーの道徳性や倫理性に関する議論に費やされているものの、私自身が倫理学に疎いこともあってか、非常に理解が難しかった。

端的に言えば、道徳的であるとは他者を尊重することであり、別の表現を使うと他者に選択肢を与えることである。ハード・パワーは「これをせよ」あるいは「あれをするな」と言う形で相手の選択肢を限定するのに対し(だから支配力とも言う)、ソフト・パワーはこちらから選択肢を与え、相手に考えさせて、相手が納得した選択肢を取らせる(だから吸引力とも言う)。よって、ソフト・パワーの方が道徳的であるとナイは言いたいのだろう。

外交政策、価値観、文化という、ナイが挙げる3つの資源に基づくソフト・パワーをアメリカがもっと存分に発揮すれば、世界中に自由、平等、民主主義を広めるという使命が道徳的に達成されるに違いないというナイの期待が込められているようにも思える。

ここで、この記事の最初に掲載した図が内包する重要な欠点を1つ指摘しておかなければならない。ナイは軍事力や経済力がハード・パワーであるという単純な図式を見直し、軍事資源や経済資源がハード・スキルによってハード・パワーに転換されることもあれば、ソフト・スキルによってソフト・パワーに転換されることもあるという見解に変化した。ところが、ソフト・パワーの3つの資源に関しては、ストレートにソフト・パワーに転換されるという構造が修正されていない。

理論的な一貫性を追求するならば、ソフト・パワーの3資源(ナイはこれに特別な名称を与えていないが、敢えて名づけるならば、社会関係資源とでもなるだろうか?)がハード・スキルによってハード・パワーに転換される可能性も想定されなければならない。そして、実際にそのようなケースは存在するのである。例えば、カルト集団が教祖の強烈な価値観によって成員の行動を強く制約する場合、つまり洗脳などが挙げられる。

個人的には、ナイはソフト・パワーのことをややナイーブに扱いすぎていると感じる。ナイは、冷戦時代にアメリカがソフト・パワーを通じてヨーロッパ諸国と連携を強めると同時に、ソ連陣営の東欧諸国にも働きかけて冷戦後の体制転換に貢献したとする。

東欧諸国の指導者層に対しては、アメリカの指導者層が高級文化を輸出し、東欧諸国の民衆に対しては、アメリカの一般市民が大衆文化を輸出した。アメリカの高級文化は、東欧諸国の指導者層の中に、自由、平等、民主主義といった価値観を受け入れる土壌を用意した。そして、アメリカの自由主義的な文化に憧れる東欧諸国の民衆が、自国の権威主義に反発しこれを打倒したというわけである。確かに、アメリカの大衆文化は、その映画や音楽からうかがい知れるように、元来的に反権力的、反体制的である。では、その反骨精神にあふれるアメリカの文化が、なぜアメリカ自身の政治体制を壊すことがないのかという疑問がここで湧いてくる。

アメリカはヨーロッパ諸国に対しても同様に、高級文化と大衆文化の両方を輸出した。その結果、ヨーロッパ諸国の指導者層は概ねアメリカの指導者層に共感的であり、ヨーロッパ諸国の一般市民も概ねアメリカの一般市民に対して共感的となっている。ところが、各種世論調査によると、どうやらヨーロッパ諸国の一般市民は、アメリカの指導者層に対してあまり信頼を寄せていないことをナイも明らかにしている(『ソフト・パワー』)。こうした不思議なねじれ現象がどうして生じるのかも、ソフト・パワーだけでは説明がつかない。

だからこそ、ハード・パワーという変数を忘れてはならないとナイは主張するに違いない。状況に応じてハード・パワーとソフト・パワーを組み合わせるという考え方はナイに特有のものではなく、リーダーシップ研究においてはコンティンジェンシー理論としてよく知られたものである。しかし、ナイは『リーダー・パワー』の中で、「(コンティンジェンシー理論は)人間関係志向型リーダーと、任務志向型リーダーを区別し、リーダーのパフォーマンスと状況コントロールの程度を関連づけようとするものだったが、やはり、測定の問題や矛盾する結果という点に悩まされることになった」と述べて、その科学的研究の限界に言及している。

だからと言って、リーダーシップは考察に値しないし、まして我々が身につける必要のない特性だとナイは諦めてはいない。前述のように、『リーダー・パワー』ではハード・スキルとソフト・スキルを明確にした上で、両スキルを使い分ける能力として「状況を把握するIQ(広義での政治スキル)」という新たな能力を設定している。そして、状況を判断するには、具体的に①文化の状況、②力の資源の分散、③フォロワーのニーズと要求、④危機と時間の切迫性、⑤情報の流れという5つの要因を観察するのが望ましいとしている。

ただ、この5つの要素もそれなりに複雑であり、結局のところ、状況に応じてハード・パワーとソフト・パワーを使い分けるには、状況をよく判断するしかない、というトートロジーを抜け出せていないように見える。私としては、もう少し簡便に状況を把握する仕組みがないものかと、こんなツールを考案してみた。

まず、前提として、ハード・パワーとソフト・パワーの効用について整理しておきたい。ハード・パワーには“頭で解らせる”効果がある。今は体罰に対して社会的に相当厳しい目が向けられるようになってしまったが、子どもが何か悪いことをして親や教師から叩かれると、子どもは自分の悪い行為によって得られた便益は、叩かれた痛みによって全て失われてしまい、割に合わないものだと頭で理解するようになる。と同時に、心の中では親や教師に対して反発が生まれる。よって、ハード・パワーには“心が離反する”というリスクが伴う。

ソフト・パワーの場合はこれとは逆である。ソフト・パワーは相手の心を心酔させる。つまり、“心で解らせる”効果がある。とはいえ、あまりに柔和なアプローチで迫られ続けると、相手には何か裏があるのでないかという勘が働く。したがって、“頭が離反する”というリスクを伴う。

冒頭で述べたことの繰り返しになるが、パワーとは「自分が望む結果になるように他人の行動を変える能力」である。ここで、相手とは、国家であれ企業のような組織であれ、複数の人間から構成される集団であるという点を看過してはならない。集団の中には、自分に完全に賛成してくれる味方もいれば、完全に反対している敵もあり、さらにその中間層も存在する。味方とは、頭と心の両面で賛成してくれる人で、敵とはその逆である。中間層には、頭では賛成しているが心では反対している人と、心では賛成しているが頭では反対している人の2種類がある。

敵・味方・中間層が混在する組織に対して、リーダーがハード・パワーを発揮したとしよう。ハード・パワーには頭で理解させる効果があるので、敵(頭=×、心=×)を中間層(頭=○、心=×)に、中間層(頭=×、心=○)を味方(頭=○、心=○)に変えることが期待できる。一方で、心を離反させるリスクもあるため、中間層(頭=×、心=○)を敵(頭=×、心=×)に、味方(頭=○、心=○)を中間層(頭=○、心=×)に転じてしまう恐れもある。

今度は、リーダーがソフト・パワーを発揮したとする。ソフト・パワーには心で理解させる効果があるので、敵(頭=×、心=×)を中間層(頭=×、心=○)に、中間層(頭=○、心=×)を味方(頭=○、心=○)に変えることが期待できる。一方で、頭を離反させるリスクもあるため、中間層(頭=○、心=×)を敵(頭=×、心=×)に、味方(頭=○、心=○)を中間層(頭=×、心=○)に転じてしまう恐れもある。

リーダーが組織を動かす場合、必ずしもメンバーが皆賛成していなくてもよい。むしろ、全員が賛成していると、ハード・パワーであれソフト・パワーであれ、その副作用によって全員が一気に中間層に転落するリスクがあり、事態が行き詰まることも想定しうる。リーダーとしては、まずは組織を動かすのにちょうどよい敵・味方・中間層の割合を見極める。そして、ハード・パワーにしろソフト・パワーにしろ、パワーを行使するたびにその割合がどのように揺れ動くのかを注視し、ほどよい割合に落ち着くように次の一手を打つことが重要となる。

国際政治の舞台においては、パワー行使の影響をもう少し細かく追跡する。国家は、領土・軍事、経済、歴史認識、人権、環境など複数の課題と対峙しており、さらにそれぞれの課題について複数のステークホルダーを抱えている。相手国のそれぞれのステークホルダーが、それぞれの課題に対してどのような態度(賛成、反対、中間)を取っているのかを可視化することが状況把握の第一歩となる。こうして作成される下図のような表を「態度のマトリクス」と命名しよう。

ここで、ある国が、領土・軍事問題をめぐり、相手国内で反対(頭=×、心=×)の立場を取る集団Aに対してハード・パワーを行使したとする。集団Aは、領土・軍事問題に関しては中間(頭=○、心=×)の立場に軟化するかもしれない。一方で、環境問題に対してはせっかくこちらの国に同情的(頭=○、心=○)だったのに、領土・軍事問題をめぐる強硬な姿勢に嫌気が差して、中間(頭=○、心=×)へと転じてしまうかもしれない。これがタテ方向の影響である。

ヨコ方向の影響としては、例えば集団Aと同様に領土・軍事問題に関して反対の立場を取っている集団Dが、集団Aに対するこちら側の強硬姿勢を見て、自らの態度を改め、中間に変化することが考えられる。

そしてもう1つ、ナナメ方向の影響も存在する。領土・軍事問題をめぐる集団Aに対するこちら側のハード・パワーは、集団Bの人権をめぐる中間的な態度を変容させるかもしれない。集団Bが「頭=×、心=○」という中間的態度であれば、「頭=○、心=○」という賛成に変わることが期待できる一方、集団Bが「頭=○、心=×」という中間的態度であれば、変化は起きない。

国家のリーダーは、パワーを行使するたびに、態度のマトリクスがどのように変化するのか注意を払い、次の一手を模索する。これが、私の考える「状況に応じたリーダーシップ」である。

もちろん、

・頭で理解することと心で理解することをきれいに峻別することができるのか?

・相手国の各ステークホルダーの態度を正確に把握することは可能なのか?こちらが誤認する恐れがあるのではないか?

・ナイも示唆しているように、ハード・パワーとソフト・パワーの違いは時に相対的であり、こちらがハード・パワーだと思って行使した力が相手にはソフト・パワーに映る(あるいはその逆)こともあり、その場合は影響の見極めが困難になるのではないか?

といった問題があると私も認識している。だが、ナイが曖昧なまま残した状況把握の方法という課題について、議論の取っかかりとなる程度のツールにはなっているのではないかと考える。