谷喬夫『現代ドイツの政治思想―ナチズムの影』―博愛・自由・平等のトリレンマという仮説

谷喬夫『現代ドイツの政治思想―ナチズムの影』―博愛・自由・平等のトリレンマという仮説
 


第二次世界大戦を引き起こし、ホロコーストで世界を戦慄に陥れた「ナチズム」はなぜドイツで生じたのか?という問題を取り上げた1冊である。

伝統的な分析では、ナチズムは「政治内現象」であるとされる。近代ヨーロッパで支配的となっていた自由主義は、財産と教養ある階級、すなわちブルジョワジーの思想である。その思想は、国家をできるだけミニマムに制限し、経済に対する国家の関与と介入を可能な限り排除して、社会とそこでの利害対立に対してできる限り国家を中立化させることを志向する。

自由主義とは、自由市場の自由な売買、競争の原理を政治の舞台に導入した政治理念である。商品が市場における自由競争で売買されるように、政治的意見や政策も自由な市場(議会)での自由な競争(議会討論)によって、アダム・スミスの言葉を借りれば予定調和的に決定される。自由主義の政治形式は議会制である。議員は全国民の理性的な代表として、自由な討論によって政策を決定する。議員を選出する選挙も、選挙権を持つ少数の比較的同質な上層階級の間でのみ行われる。19世紀中期までのイギリスに代表されるように、議会は名士たちの議会であり、総体として、自由主義―議会制は名望家支配の体制であった。

ところが、19世紀における資本主義とテクノロジーの発達は、膨大なプロレタリアート大衆を生んだ。大衆は自由主義的代表を擬制であると否定し、自己権力化した。社会は極めて多元的な諸集団の出現により、いわゆる大衆社会の様相を見せ始め、選挙権の拡大とともに、大量の大衆が政治の舞台に躍り出た。現代民主制の構造転換の中軸をなすのは、大衆を結集させる堅固な組織政党の確立という事実である。

特定利益集団を代表する諸政党が自由主義の議会制に取り込まれると、社会は多元的に自己主張を開始し、国家権力を己の手中に収めようと政争が繰り広げられる。こうした社会は総動員体制の社会、すなわち「全体国家」と呼ばれる。政党はその構成員を文字通り総動員し、国家の政策決定権を握るために、宣伝、扇動、行進、集会によって大衆を動員する。こうなると、議会はもはや討論による理性的な国民統合の機関ではなくなる。

大衆は、ぐずぐずと討論を続ける自由主義的議会制に代わって、強力な権力を持った指導者と党を待望する。権力と力への渇望が渦巻き始めるにしたがって、大衆の非合理で原始的、感覚的な行動が沸き返る。生の礼拝、判断力の全般的衰弱、倫理の衰退といった現象が見られるようになる。全体主義は、大衆の原始本能が解放されたことによって登場したものである。

こうした説明は一見説得力を持つように映る。だが、同じ議会制という装置を舞台にしながら、ブルジョワジーの自由主義であれば予定調和的に最適解へと到達できるのに対し、大衆の民主主義ではなぜそれぞれの政党が自らの利益こそ社会の全てだと言い張り、他の政党に対して非合理的な手段で排他的に振舞うのかが不明である。名士には教養と財産があるが、大衆にはそれらがないからというのは理由にならない。自由競争のフィールドは、原則として誰に対しても開かれており、どんな者が参加したとしても、たとえ愚か者が含まれていたとしても秩序が保たれるというのが理論的な建前だからである。

自由主義―議会制の危機を説き、上記のように全体国家へと至るシナリオを先読みしたのはカール・シュミットというドイツの政治学者である。しかし、シュミットはそもそも、自由主義自体に対して否定的であった。カトリック反革命哲学の影響を受けたシュミットの信念とは、敵と味方の識別に基づく戦闘の世界を、人間という名に値する真剣な世界として歓迎することであった。神学の世界では、異端説が危険な死を意味したように、何が正しいかという問いを突き詰めるならば、そこには自由競争的な商談や取引では終わらないような、生死を賭けた対立が不可避となる。

逆に言うと、何が正しいかと問うことを断念し、絶対的な正しさを世界から駆逐し、対立に対して中立的な、したがって非政治的な領域(一言で言えば快適さ)を求めるのが自由主義のモチーフである。自由主義が世界を支配すれば、そこには人間の名に値しない、全てが許されるものの何事もなしえない娯楽の世界が現れるしかない。

シュミットは、カトリック教会が何が正統で何が異端かを厳格に線引きする絶対的な権力を有していたことをモデルに、国家は正しい判断により敵と味方を決定するべきだとした。ヴァイマール共和国の議会政治が正常に機能しなくなり、ブリューニングの大統領内閣が苦闘していた1931年、シュミットは『憲法の番人』を上梓した。同書の中でシュミットは、今日のドイツ政治が大衆民主主義に起因する全体国家に陥っていることを解明し、こうした危機に対して共和国憲法の番人となり、唯一の支柱となりうるのは制度上大統領しかいないと結論づけた。大統領に対しては、利害や諸党派の対立から国家の統一性を守る、中立かつ仲裁的な独立機関としての役割を期待した。

シュミットは、自由主義―議会制が大衆民主主義、そして全体国家へと至る道筋を見抜き、その鎖を遮断するため、根幹にある自由主義を痛烈に批判した。しかし、大統領が対立を超越して全ての正しさを絶対的に決定することと、特定の政党が他の政党を排除して自らの利害を社会全体に敷衍させることとの間にどのような違いがあるのか、私にはよく解らない。外見だけを見れば、ナチズムもシュミットの説く大統領制も、強烈な権威主義により異端を死に追いやる政治である。シュミットは、全体国家の出現を予防すべく自由主義を敵視したのに、結局のところ全体主義がドイツ社会に浸透する土壌を用意してしまったのではないかと言えなくもない。

本書におけるナチズムの分析はもう一歩踏み込んでいて、ナチズムを「政治外―文化現象」とする立場を支持している。20世紀初頭を特徴づける精神史的出来事として挙げられるのが、ジークムント・フロイトの思想である。

フロイトは、人間の心の世界が自立性を持ち、自覚された意識的部分の表層の下に、抑圧され隠蔽された無意識の大海が揺れ動いていることを初めて体系的に述べた人物である。フロイトは、最も根源的で無意識の本能的欲動に、生の本能(エロス)と死の本能(タナトス)を設定する。

こうした本能的欲動が無制限に放置されていては社会など存立しえず、人間も存在しない。人間や社会が存立するには、本能的欲動は自我によって抑制され、現実の必要原則に屈服させられなければならない。だがそうなると、本能的欲動は個人の内部に逆流し、それに対抗して自我の内部に超自我が結晶化される。人は超自我、すなわち良心を持つことによって初めて人間となる。文化の発達が人々の共同を必要とする限り、人々は衝動を断念し、超自我によって自我を威嚇する以外に、社会を成立させる方法はない。したがって、衝動と超自我の攻撃に脅かされる自我にとって、文化は常に一種の不快さをはらんでいる。

本書が考察の中心に据えているマックス・ホルクハイマーとテオドール・アドルノの共著『啓蒙の弁証法』は、フロイトの心理学に接近している。2人は近代文明の権力支配構造を明らかにした。まずもって、近代文明とは自然の支配を伴うものである。ここで言う自然とは、1つには人間が道具を介して関わり合う環境世界、すなわち外的自然のことである。もう1つは人間の内的自然のことであり、内的自然が支配されるというのは、まさしくフロイトが述べた、超自我による自我への攻撃を指す。そして、自然支配は、個人の内部の超自我=良心を媒介に、社会支配、つまり人間に対する人間の支配を行うようにもなる。要するに、対自然、対内面、対社会の三次元にわたって支配が貫徹されることが、ヨーロッパ近代文明の宿命である。

近代文明は理性を啓蒙し、世界の全てを数量化し、意味を解体し、あらゆるものを支配と操作のために画一化、同一化する。同一性の強制は認識の世界から始まり、社会の労働形態、政治制度、教育文化など、人間界の全てに及ぶ。だがここで、文明が合理的に進化すればするほど、新しい野蛮の種が生育される。フロイトの言う本能的欲動の断念によって、抑圧された内的自然の病的で突発的な叛乱が生じる。それは、個人の犯罪や精神錯乱、社会的狂気、暴動といった形で表出する。近代文明は常に合理的な社会体系でそれらを処理してきた。ところが、自然の叛乱がどうしようもなく大きくなった結果、ナチズムの人種殺戮と狂気が生まれたのである。

自然の叛乱論は、個人レベルの無意識に着目するものであるが、本書では集合的無意識を研究したカール・グスタフ・ユングの思想も取り上げられている。ユングは個人的無意識と集合的無意識を区別し、後者により深い意義を認めた。集合的無意識とは個別的ではなく普遍的である。個人的な心とは対立する諸々の内容や行動様式を持ち、正しく考察すればいたるところで、また全ての個人の中で同一であるとユングは説明する。無意識に接近するにあたり、フロイトが夢を分析対象としたのに対し、ユングは夢に加えて、宗教、神話、芸術、哲学など幅広く題材を求めた。

ユングによれば、集合的無意識は個人の母胎として普遍的に存在するが、近代社会においては通常隠されており、顕現する時は神話類型として現れる。近代文明が個人的無意識の世界に属する本能的欲動を断念させると、反動として内的自然の叛乱が起きるというのがフロイトの見立てであった。これと同じような図式で、ユングは、近代文明が個人主義を推し進めれば、反動として集合的無意識が自己回復運動を開始し、神話類型が表出すると分析した。

人間の数が増え群衆が形成されると、個人が大衆の粒子になるまでの間、全ての個々人の中に眠っていた諸々の獣性や悪霊、すなわち集合的人間の諸動因が解き放たれ、原始人が日蝕に際して反応したようなパニック、集団的狂躁、集団的流行病が政治運動の形となって出現する。ナチズム的世界を生成させた集合的無意識の原型である神話類型とは、ユングに言わせると、ヴォータンという古代ゲルマンの神である。それは嵐と狂騒の神であり、諸々の情熱と闘争心を解き放つ者であり、さらに強力な魔術師、幻術師でもあって、全ての神秘的なものの秘密の中にかかわりを持つ者である。ナチズムの凶暴性は、ヴォータンの神性に由来している。

ナチズムはユダヤ人をスケープゴートとした。ユダヤ人は流通、金融分野に進出して、額に汗して働かずにあくどい取引で金儲けをしたからというだけの理由で嫌われたわけではない。裕福なユダヤ人は諸侯や宮廷に資金を提供して彼らの不安定な立場を守ろうとしたからというだけの理由で反感を買ったのでもない。

彼らは伝統的な遊牧民であり、境界を持たない人々であり、ゲットーで“土と獣”に近い生活を送っていた。つまり、近代文明が否定し抑圧した自然を最も自然な形で残しているのがユダヤ人であった。ユダヤ人を目にすると、近代文明人の心底に流れる自然ヘの憧れが呼び戻される。しかし、文明を保護するためには憧れを金輪際捨てなければならない。よって、ユダヤ人は殺戮されたのである。これは、病的ミメーシス(模倣)と呼ぶことができる。

アドルノは、ナチズムを再び発生させないための処方箋を書いている。それは病的ミメーシスから真のミメーシスを目指すものであり、端的に言えば、原初状態へと戻ること、自然を取り戻すことを提案している。リビドーから解放され、盲目的な肉体的快楽を求めることさえ容認する。そして、近代文明が推し進める画一化からはこぼれ落ちてしまったような、個別的断片や経験を丹念に拾い上げることを推奨する。

ただ私としては、原初状態へ戻るという後退的な解決策は、あまり魅力的だと思えない。また、全体主義とは個別性を洗いざらい否定する政治的傾向であり、個別的断片を1つずつ可視化すればするほど、それらを焼き払おうとする全体主義の政治的圧力をかえって助長するとも感じる。

哲学者のフリードリヒ・ニーチェは、近代の啓蒙主義によって、絶対的な真理は人間世界のこちら側ではなく、神的世界のあちら側にあるという従来のキリスト教的世界観が破壊され、ニヒリズムが生じたと嘆いた。しかし、だからと言ってニーチェはキリスト教的世界を奪還しようとは提案しなかった。キリスト教とは、現実の生の世界で虐げられた民衆が、ルサンチマン(怨恨)によって生の向こう側に精神や霊魂といった背面世界を捏造し、観念の世界において復讐を企てたものであるとの考えがニーチェにはあった。だから、キリスト教に回帰することなど論外であった。

生の世界をキリスト教が否定し、啓蒙主義がキリスト教を否定してニヒリズムに至った時、それを打開するために、ニーチェは敢えて否定の精神を貫徹することを選んだ。徹底的に無を追求する。無はどこにも向かわずに永遠に回帰する。しかし、それこそが真の意味での生きる力であり、力への意志を持つ人間を、ニーチェは敬意をこめて超人と名づけた。ニーチェの処方箋はかなり乱暴だとは思うものの、前向きさという点では惹きつけられるところがある。

話を少し戻すと、ユングが集合的無意識の視点から全体主義を論じているのが個人的には興味深かった。というのも、近年、経営学のイノベーションの分野では、集合的無意識に注目する理論があるからである。代表的なものが、C・オットー・シャーマーの「U理論」であり、その理論的な系譜は、物理学者デイビッド・ボームの「内蔵秩序」論から始まる。

我々が日常的に目にしている世界は「顕前秩序」と呼ばれる世界である。顕前秩序は言葉によって把握されるが、顕前秩序の全てを一度に表現できる言葉は存在しない。また、ジグソーパズルのように、整然と世界を秩序づける言葉の群も存在しない。言葉が顕前秩序の一部を切り取って表現するその方法はいたって恣意的であり、意味の重なりや空白の発生を避けることができない。それゆえに、人間同士のコミュニケーションでは、対立や無理解が生じる。

一方、「内蔵秩序」とは顕前秩序の背後にある無意識の世界である。そこには、あらゆる対立や矛盾を包摂する統一的な意識の流れが存在する。人間が歴史の中で積み重ねてきた、あるいはこれから積み重ねるであろう記憶の総体と言ってもよい。普段は意識することができないこの内蔵秩序も、人間集団が工夫された手段で意識を集中させることにより、アクセスが可能となる。すると、これまでの葛藤は一気に解消され、普遍的な解としてのイノベーションがもたらされる。

顕前秩序が合理的世界であるとすれば、内蔵秩序は情理的世界であり、内蔵秩序を源泉とするイノベーションを論理的に把握することは非常に難しい。だから、工夫された手段とは一体何なのか?集団の意識を集中させるとはどういう状態なのか?そもそも、なぜ集合的無意識には普遍性があり、イノベーションを生む力があるのか?など、疑問は尽きない。

ただ、近代的な合理主義、個人主義が抑圧的になると集合的無意識の負の側面が現れて全体主義に至るのに対し、合理主義、個人主義を意識的に解き放つと集合的無意識の正の側面が現れてイノベーションが得られるという二面性は、なかなか面白いものがある。全体主義とイノベーションには、奇妙な近接性がある。見方を変えると、だからこそイノベーションは全体主義に転じるリスクがあるとも言える。そういえば、前ブログでは、アメリカのイノベーションが中国的な全体主義と手を結ぶ可能性について言及したことがある。

しかし、前ブログの記事の論理展開は非常に曖昧であった。全体主義とイノベーションの関係については、もう少し別の方法で整理を試みた方がよさそうである。とはいうものの、これから述べる私的整理も、まだまだ未熟である点はご容赦いただきたい。

近代とは、キリスト教を啓蒙主義によって乗り越えた時代であった。キリスト教のエッセンスは、対人関係においては「博愛(利他、他者>自己)」であり、真理に関しては「絶対的な真理は1つ」という形で要約することが可能である。一方、啓蒙主義は自由と平等を普遍的な概念として定着させた。だが、自由と平等は相対立する概念である。

まず、真理に関しては、「真理は多様である」とする自由主義に対し、平等主義は「絶対的な真理は存在しない」とする。「絶対的な真理は存在しない」という結論を導いたのは、古代ギリシア哲学からの伝統を引く懐疑論ではないかと私は考える。この点については、以前の記事「納富信留『プラトン(哲学のエッセンス)』―否定=支配を伴わない新しいUnlearnの形を模索したい」を参照していただきたい。

近代において懐疑論を完成させたのは哲学者ルネ・デカルトである。有名な「われ思う、ゆえにわれあり」という言葉は、私という個別の存在を他者から切り離して絶対視しているのではなく、“思う“という行為そのものの抽象性に焦点を当てている。つまり、私と他者に区別はない。私と他者が等しく、絶対的な真理が存在しないからこそ、完全な平等が達成される。

これに対して、自由主義の「真理は多様である」という結論も、何らかの哲学的系譜を持っているはずなのだが、私の不勉強ゆえにまだそれを射止めることができていない。対人関係については、博愛主義とは反対に、自己を他者より優先させるのが自由主義の特徴である。

<前近代>
 「博愛」:他者>自己、絶対的な真理は1つ ←キリスト教の影響
 <近代>
 「自由」:自己>他者、真理は多様である ←?
 「平等」:自己=他者、絶対的な真理は存在しない ←懐疑論の影響

博愛、自由、平等の関係を簡単にまとめると上記のようになる。これらはトリレンマの関係にある。つまり、3つ同時に成り立たせることは原則として不可能である。ただし、2つなら同時に成り立つ(どの2つも形式的には矛盾するのに、どういう理屈で実際には両立するのかというのは重要な論点である)。先ほど、啓蒙主義はキリスト教を乗り越えたと書いたが、現実世界を観察すると、キリスト教は完全には否定されていないことが解る。政教分離を建前としながらも、アメリカやドイツのように政治と宗教が切っても切り離せない関係になっている国は意外と多い。

「博愛」と「自由」が手を結べば、政治的には民主主義、経済的には資本主義となる。キリスト教のプロテスタンティズムが資本主義の発達をもたらしたと説いたのは、マックス・ウェーバーであった。「博愛」と「平等」が手を結べば、政治的には社会主義、経済的には共産主義となる。論理的には、「自由」と「平等」が手を結んだ場合の政治・経済形態も存在するはずだが、先ほど述べたように、キリスト教から完全に独立し世俗化された国が稀であることから、私は特定のイデオロギーを発見することができていない。

上記の簡単な図式からも解るように、3つの概念はお互いに矛盾するので、2つだけを同時に成り立たせるのも至難の業である。だから、1つの概念のみを追求したくなる。しかし、歴史的に見れば、1つの概念に特化した国家は崩壊の憂き目に遭っていると思われる。自由のみを突き詰めると、利己的な資本主義が膨れ上がり、領土拡張的な帝国主義に陥る。平等のみを突き詰めると、世界全体に完全な平等を実現しようとして破壊的な全体主義に陥る。博愛のみを突き詰めた場合の悲劇というのもおそらくあるのだろうが、私が中世の歴史に詳しくないため、これといった例を挙げることができないのが残念である。

実は、博愛、自由、平等のトリレンマを克服することができれば、イノベーションが創造されるのではないかという仮説を私は立てている。対人関係においては、キリスト教の利他主義と啓蒙主義の利己主義が融合し、利他的利己心へと昇華される。「私が望むことはあなた方の望むことでもある」と強く言い切れる心理がイノベーションの源泉となる。

また、イノベーションは多様化、複雑化して社会的エントロピーが高まった状態をいったんリセットして、新たな普遍や標準を自由に構想し、一度有効と認められた普遍を社会全体に行き渡らせて、名実ともに普遍とする活動である。つまり、「絶対的な真理は存在しない」⇒「真理は多様である」⇒「絶対的な真理は1つ」という順番で3つの概念が融合する。利他的利己心の作用とイノベーションのプロセスについては、以前の記事「日本からイノベーションが生まれない根源的理由」で素描してみた。

このように整理することで、全体主義とイノベーションの近接性という、非常に危うい状態を脱することができた。そして、今のところトリレンマの克服に成功したのは、アメリカだけであると私は見ている。2つの概念を両立させるだけでも大変なのに、なぜアメリカは3つの概念を同時に成り立たせることができたのか、そのメカニズムを解明することが私のテーマとなっている。合わせて、共産主義に資本主義を接木して経済成長を続ける中国が果たして真のイノベーション国家になりうるのかを予測することも私の課題である。