【2018年反省会(15)】うつ病・双極性障害・統合失調症の違いはグレー(2)

【2018年反省会(15)】うつ病・双極性障害・統合失調症の違いはグレー(2)
 

【2018年反省会】記事一覧(全26回)

その1からの続き)

不安との関係で、神経症(ノイローゼ)にも触れておきたい。ドイツ語のNeuroseが語源であり、ギリシア語由来の「ノイロ=神経(Neur)」と「オーゼ=病的な状態(-ose)」をかけ合わせた造語である。神経症には大きく分けて、①不安神経症(パニック障害など)、②ヒステリー神経症(我々が普段使うヒステリーの意味とはやや異なり、転換ヒステリー〔現在は転換性障害と呼ぶ〕や解脱ヒステリー〔同、解脱性障害〕を指す)、③恐怖神経症(広場恐怖など)、④強迫神経症(手を洗っても洗っても気が済まないなど)、⑤抑うつ神経症、⑥神経衰弱、⑦離人神経症(自分が自分でなくなるような感覚に陥るもの)、⑧心気神経症(ささいな身体的兆候を異常だととらえて、自分は重大な病気ではないかと強い恐怖を示すもの)がある。

かつてはうつ病と神経症は区別されていた。うつ病は抑うつが強く、神経症は不安が強いという区分けがあった。また、うつ病は特定の状況を原因とするストレスが引き金となるのに対し、神経症は漠然とした不安によって引き起こされるという違いもある。さらに言えば、うつ病は前述の通り脳内の機能に何らかの問題があることがある程度判明している一方で、神経症はその名に反して神経に異常が見られず、病気として扱われなかった。代わりに、性格に原因があるとされ、完璧癖、形式主義、几帳面、過度の良心的態度、責任感、小心、情緒不安定、非柔軟性、未成熟、依存症、非協調性といった性格の人は神経症になりやすいと言われた。

とはいえ、私でも理解できるように、実際のところ抑うつと不安には大した差はない。抑うつ神経症とは抑うつ状態が見られる神経症のことだが、こうなると両者の境界性はいよいよ曖昧になる。うつ病になりやすい性格というのもあり、神経症になりやすい性格とかなりオーバーラップする。神経症だと思っていたらうつ病だった、あるいはうつ病だと思っていたら神経症だったというケースはよくある。そして、前者のケースの方が多いらしい。アメリカ精神医学会がまとめているDSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders:精神障害の診断と統計マニュアル)の第3版(1980年)では、神経症というカテゴリーが消えて、うつ病性障害、不安障害、身体表現性障害、解脱性障害に再編された。神経症という項目がない点は、最新版のDSM-5(2013年)でも同じである(ただし、障害の区分は変化している)。

神経症では脳の異常がないとされてきたが、最近は生物学的・遺伝的研究が発達している。その結果、不安障害の1つであるパニック障害には中脳の青斑核が、強迫神経症には大脳基底核にある線条体(被殻と尾状核)が関係していることが明らかになりつつある。これに伴って神経症にも薬物療法が適用されるようになった。パニック障害には抗うつ薬や抗不安薬が効き、強迫神経症には抗うつ薬の中でもSSRIが効く。一方、不安恐怖症に含まれる対人恐怖症、広場恐怖症、醜貌恐怖症(自分の容姿が醜いと思い込み、美容整形に何度も通うようなタイプ)、自己臭恐怖症(実際には何の臭いもしないのに、自分から異臭がすると思い込むタイプ)には薬が効かない。また、離人恐怖症にも効果的な薬がなく、非常に治りにくい。

うつ病や統合失調症などの気分障害、かつては神経症と呼ばれた精神疾患、さらには摂食障害などその他の障害でも、患者の根底には不安がある。その不安の原因を遡っていくと、幼少期に親から厳しく育てられたという経験に行き着くことが多いという。日常生活で親の絶対的な基準を適用され、その基準に満たない時には「なぜそれができないのか?」と問い詰められて育ったような子どもは、大人になってからも心の中に住まう親=インナーペアレントの声に悩まされる。その結果、周囲の目をいつも気にして自己評価が低くなり、何をやっても他人を満足させることができないと感じて、常に不安を抱えるようになる。

インナーペアレントに支配された人の中には、周囲の期待に応えている「望ましい自分」と、本当はそのように生きたいと願っている「ありのままの自分」が同居している。潜在的な二重人格とも言えよう。統合失調症における幻聴とは、望ましい自分が自分に命令する声が聞こえるものである。その命令が外界の出来事と結びつくと、例えば赤の他人が遠くで手を振っただけで「誰かが自分を射殺しようとしている」などといった妄想に転じる。望ましい自分が目標を達成できていないという不安が、外界の出来事を材料として自分を傷つる。

宿題ができない、学校に行けない、部屋を片づけられないといった「一日延ばし」の症状も同様である。彼らは決して怠けているわけではない。本当は宿題をしたい、学校に行きたい、部屋を片づけたいと真剣に考えている。だが、宿題をしても、学校に行っても、部屋を片づけても、「なぜもっと早く宿題ができないのか?」、「なぜもっと学校でよく勉強しないのか?」、「なぜもっと部屋を綺麗に片づけられないのか?」と周りから言われるのが怖くてできない。やるべきことを先延ばしにするたびに宿題はたまり、学校の勉強から遅れ、部屋は汚くなる。すると、一気に宿題をし、一気に補習を受け、一気に掃除をする必要が出てくる。目標と現実のギャップが大きくなる分だけ、目標が達成できなかった時に受けるであろう叱責も厳しくなると予想してしまう。その結果、余計に身体が反応しなくなってしまうというわけだ。

不安を和らげるためには、インナーペアレントの声を静めなければならない。他人が設定した厳格な基準に振り回されるのではなく、自分なりの人生の目標を持つこと、思考に抑圧され続けてきた感情を素直に言葉で表現すること、何か少しでも達成できたことがあれば、自分に対して「よくできた」、「よく頑張った」と言い聞かせることが大切である。

他方、神経症の患者は親から甘やかされすぎたと主張するのが、『嫌われる勇気』で知られるアドラーである。前述したように、元々神経症は脳の病気とは考えられていなかった。そのため、主たる治療方法は精神分析であった。精神分析の手法を確立したのはフロイトであり、幼少期に遡って無意識に切り込むというアプローチを取った。フロイトの弟子であったアドラーは、フロイトが無意識における性的な要素に原因を求めたことに異を唱え、フロイトとは袂を分かった。アドラーは代わりに、性的傾向のさらなる原因となっている生活様式に注目した。

甘やかされすぎた子どもは、あらゆることが自分の思い通りにいくと信じ、征服欲に駆られる。そういう子どもは、自分を甘やかしてくれた親がいなくなる、あるいは自分のように甘やかされなかった兄弟姉妹が自分よりも幸せになると、神経症への道を歩み始める。例えば、親に甘やかされた姉が、親にそれほど甘やかされなかった妹に結婚で先を越されたとする。妹自身の結婚はごく平凡なものであっても、姉にとっては自分ほど親に大事にされなかった妹の方が幸せになることが許せない。そこで姉は、妹よりもはるかに幸せな結婚をするという非建設的で行きすぎた目標を掲げる。妹を超えるために、姉は普通の男性との結婚では満足しない。自分よりずっと年上の男性と結婚したり、略奪愛に走ったりと、周りから見れば無謀な行為に出る。

そのような結婚生活は長続きしない。にもかかわらず姉は、自分が立てた目標を下ろさない。姉は「もっと魅力的な男性が現れれば自分は幸せになれるのに」と口癖のように言う。しかし、この言葉は、姉が自分の目標を本当は達成しようと思っていないことのサインである。というのも、仮に目標が達成されてしまえば、自分が生きる意味を失うからである。

アドラーは、性的倒錯も同じような理屈で説明する。母親に過度に甘やかされた男の子が、母親よりも相対的に弱い父親を打ち負かしながら成長すると、母親がいなくなった途端に父親への征服欲だけを増長させる。母親と適切な関係を構築できなかったことが裏目に出て、異性を大切にするという感情が育たず、父親への征服欲が同性の相手にも向けられる。その男の子は、女性を愛することの代わりに、男性を犯すという非建設的な目標を追いかけるようになる(ただし、性的倒錯に関するアドラーの見解には異論も多いに違いない)。

親に厳しく育てられたケースでも、甘やかされたケースでも、患者が持っている目標が高すぎることが問題である。前者では親が掲げた目標が、後者では患者本人が掲げた目標が高すぎる。かといって、その目標を下げることを治療の目標とするのは適切ではない。親に厳しく育てられた患者は他人のために生きているので、自分のために生きること学ぶ。逆に、親に甘やかされた患者は自分のために生きているので、他人のために生きることを学ぶ。

親に厳しく育てられた患者は自責的、親に甘やかされた患者は他責的であるとも言える。だが、時には前者の患者が他責的、後者の患者が自責的になることもある。あるがままの自分を抑制している前者の人は、あるがままの自分を表出させて周囲の人が掲げる基準を真っ向から批判すると、かえって疎まれることを恐れる。結果的に感情を二度抑圧することになり、それが周りへの怒りに転じる。「あいつらは何も解っていない」などと他責的になる。これに対して、後者の人は非建設的で絶対に達成できない(あるいは達成しようとしない)目標によって自己欺瞞を働いてきたのに、ある日突然、過去に犯した過ちを自責的に打ち明けることがある。嘘をついたことを正直に告白するのだから、周囲は素直な人だと感激する。ところが実は、患者は自分の嘘を利用して、周りの人の感情を思うがままに統制しようとしている。

そもそも人間は、自責的にもなるし他責的にもなるのが普通である。神経症の患者にも基本的にはその二面性が内在しているのだが、親との接し方によって自責性が強くなり、その反動で時に他責的になるか、反対に他責性が強くなり、その反動で時に自責的になる。治療のプロセスでは、こうした二面性の不均衡を修正していく。同様に、子どもと接する親も、褒めることもあれば叱ることもあるのが自然である。神経症の子どもを持つ親は、そのどちらか一方に極端に偏っているため、子どもの二面性を育むことができない。臨床の現場で重視される家族教育においては、まず親にこの点を認識してもらうところからスタートするのだろう。

自責的な患者にも他責的な患者にも完全に共通していると言えそうなのは、自分の感情を素直に表現することが苦手ということである。特に、悲しい時に悲しいと言えず、泣くことができない。他人が掲げたものであれ自分が掲げたものであれ、目標に届かず自分の気持ちが折れた時には、一般の人は悲しむものである。ところが、精神障害者にはそれが難しい。悲しみを抑制して平静を装うか、悲しみが不安、恐怖、怒りに変質してしまう。考えてみると、私も感情表現が苦手である。他の人なら悲しむような出来事が起きても、怒っているか笑っている(!)かのどちらかである気がする。泣くことはまずない。喜怒哀楽とはよくできた言葉で、人間の基本的な感情はこの4つである。精神障害者には喜と楽がなく、哀が表現できず、時に怒が突出している。喜怒哀楽の中には、不安や恐怖が入っていないという点は重要である。

私が入院している間、主治医との面談では私の失敗談を中心に話をした。主治医には、私が「何をやっても上手く行かない人」と映ったらしい(私が失敗話ばかりしているから当然なのだが)。前述のように、私が単なる双極性障害ではないのではないかと推察していた主治医は、発達障害の可能性があると指摘した。私のようにいつも失敗する人は、心理検査をしてみると発達障害が主たる病気であったと判明することがあるらしい。発達障害には、ASD(自閉スペクトラム症。従来は自閉症とアスペルガー症候群を区別していたが、今回の記事でたびたび登場しているスペクトラムの概念を用いて統合された)、ADHD(注意欠陥多動性障害)、LD(学習障害)、広範性発達障害、コミュニケーション障害などが含まれる。

発達障害となると、果たしてこれは本当に病気なのかと思えてくる。実際、発達障害は病気ではないと主張する医師もいる。近代の産業化以前の時代には、発達障害を持った人(当時は障害と認識されていなかっただろう)も社会の中に役割を得ていた。一方、産業構造の変化に伴ってコミュニケーション力、協調性、作業の正確さやスピードが要求されるようになると、それに適合できない人が出てくる。我々は彼らのことを発達障害と呼んでいる。いわば現代の社会的「事例(ケース)」であり、無理やり治療する必要はないという。

ASDの症状としては、コミュニケーションや対人関係の問題(会話が苦手。相手の言葉を額面通りに受け止めてしまい、言葉の裏にある意味や感情を読み取ることが苦手、など)、こだわりの問題(同じ言動をずっと繰り返す〔=同一性保持〕。変化に適応するのが難しい、など)がある。ADHDの症状としては、不注意(仕事などでケアレスミスをする。忘れもの、なくしものが多い。約束や期日を守れない。時間管理が苦手。仕事や作業を順序立てて行うことが苦手。片づけるのが苦手、など)、多動性(落ち着かない。貧乏ゆすりのような目的のない動きをする、など)、衝動性(思ったことをすぐに口にしてしまう。衝動買いをする、など)がある。

症状だけを見れば、病気というよりも特定の能力が十分でないと表現した方が適切であるように感じる。思い返してみれば、前職のベンチャー企業にも、コミュニケーションに難がある人、仕事の段取りが全く立てられない人、時間に物凄くルーズな人、相手の気持ちを考えずに思ったことをストレートに言ってしまう人は在籍していた。ただし、これらの症状が複合し、本人も周りの人も困るようになると発達障害という診断が下るのかもしれない。

発達障害を抱えている人は、特定の能力が十分でない代わりに、他の能力が非常に秀でていることが多い。ASDの人は専門性を深める能力に長けており、研究者やエンジニアに向いている。また、ADHDの人は創造力とバイタリティがあり、芸術の分野に強い。実は他の精神障害も、脳の一部に障害があることによって、能力に偏りが生じている人と説明することが可能である(私のことについては、後の記事「【2018年反省会(19)】障害者は自らの「トリセツ」を訴求した方がよい」で触れている)。うつ病、双極性障害、統合失調症を抱えながら歴史に残る偉業を成し遂げた人の名は、調べればたくさん出てくる。

精神障害では薬物療法が第一とされたが、それだけでは不十分であり、患者を社会に再統合するために対人スキルなどの訓練を追加するのが最近の流れである。一方、発達障害は積極的な治療をせずに自分の得意分野を見極めて社会に参画することが第一とされたが、それだけでは不十分であり、薬物療法が併用されるようになっている。

自閉スペクトラム症には、先ほども登場したエビリファイ(アリピプラゾール)が同一性保持に効くらしい。ADHDの子どものうち、60~70%には薬物療法が有効である。コンサータ(メチルフェニデート)はドーパミンの量を増やし、多動性や衝動性を抑える(ただし、快楽をもたらすドーパミンの量を減らすとなぜ多動性・衝動性が収まるのかは、私には謎である)。ノルアドレナリンを増やす効果がある薬にはストラテラ(アトモキセチン)インチュニブ(グアンファシン)がある。精神障害と発達障害ではアプローチの順番が逆になっているものの、結果的に行っている治療方法の中身は極めて似ており、最終的なゴールもほぼ同じである。

精神障害も発達障害も、脳の機能障害を原因とする能力の偏りであると書いた。前職のベンチャー企業にいた発達障害の一歩手前と思われる人も、能力が偏っていた。能力をつかさどるのが脳である以上、能力が偏っているということは脳の一部が縮小しているか、肥大しているか、あるいは効果的に機能していないかのいずれかである。単純な話をすれば、数字の処理が苦手な人は、普通の人に比べて左脳の働きが弱いだろう。このように考えると、精神障害者と発達障害者の境界だけでなく、障害者と健常者の境界も曖昧に見えてくる。

健常者の場合、特定の能力が劣っていると勉強が足りないなどと批判され、本人の努力不足に原因が帰着する。精神障害者や発達障害者の場合は往々にしてコミュニケーションに難があるのだが、対人関係でトラブルが生じた時には、「病気のせい」と言って逃げればよいとアドバイスされることがある。しかし、精神・発達障害者と健常者の境界線がグレーであるならば、前者が起こした問題の原因を病気という制御不能な要因に押しつけ、後者が起こした問題の原因は本人が引き受けなければならないというのは、ややアンフェアであるように思える。

トヨタでは、製造ラインで何か失敗が生じると、その原因(「なぜ×5回」によって到達する「真因」)を作業員に求めるのではなく、仕組みに求める文化が根づいている。もちろん、作業員の能力不足が咎められることもあるとはいえ、単純に追加の研修で本人を訓練しようという話にはならず、作業プロセスを支える仕組みの改善が優先される。

ある失敗の原因が100%外部要因のせい、あるいは100%内部要因のせいであることはまずない。通常は両方の要因が関係している。健常者が失敗の原因を内部要因だけでなく外部要因にも求めるのと同様の発想で、障害者は失敗の原因を外部要因だけで説明しようとせず、内部要因にも目を向ける必要があるだろう。そうでなければ、何のためにSST(Social Skill Traning:社会生活技能訓練)などで能力の改善を図っているのか解らなくなる。

精神障害は、完治はしなくても寛解(病気の症状が一時的あるいは継続的に軽減した状態。または見かけ上消滅した状態)する可能性がある。また、発達障害は脳の機能を完全に回復することは不可能でも、不得意な分野を回避し得意分野を活かしながら社会で活動していける可能性がある。この点で、社会活動が大きく制約されやすい身体・知的障害とはやや性質が異なるだろう。偶然かどうか解らないが、内閣府が公表している障害者数の統計を見ると、身体・知的障害者に関しては障害者手帳の保有者数をカウントしているのに対し、精神障害者については医療機関を利用した患者数をカウントしている。国も、精神障害者は他の障害者とは扱いを異にした方がよいと考えている1つの証左かもしれない。

日本の年金制度には、65歳未満の障害者が受給可能な「障害年金」というものがある。簡単に言うと、3級は「就労に著しい制約がかかるものの、日常生活には支障がない状態」、2級は「就労がほぼ不可能であり、日常生活も一部介助が必要な状態」、1級は「就労が不可能で、日常生活においても常時の介助を要する状態」である。身体障害については、この基本的な考え方をベースに、障害の部位ごとに細かい定義がなされている。

「1号」には目の障害のことが書かれている。3級は「両眼の視力が0.1以下に減じたもの」、2級は「両眼の視力の和が0.05以上0.08以下のもの」とある。これは裸眼の視力ではなく、矯正後の視力である。私は極度の近眼で、裸眼の視力はどちらも0.05前後である。これが矯正後の視力であれば、3級に該当する。0.05前後の視力ではどのように見えるかは、こちらのまとめサイトが参考になる。視力0.04の見え方が私の裸眼の世界に近い。目の前に誰かがいる、あるいは何かがあることしか解らない。夜になると、ぼんやりとした光しか認識できない。

この状態で仕事をしろと言われても、私にはどんな仕事をしてよいのかほとんど見当がつかない。物を扱う仕事はまず無理であるし、移動を伴う仕事も危険が大きい。パソコンの画面に顔を相当近づければかろうじて文字を認識できるので、1日中デスクに座ってプログラムや文章を書くことはできるかもしれない。後は、漫才や落語のような、喋りだけで仕事が成立するものぐらいしか思いつかない。それでも障害年金の定義上は、「就労に著しい制約がかかる」にすぎず、「就労がほぼ不可能」とはみなされないのである。

身体障害は回復の見込みがほぼない上に、障害年金の要件が細かくかつ厳しい。それに比べると、精神・発達障害は前述のように能力を鍛える、あるいは別の能力で補完することが可能であるのに障害年金の定義は抽象的で、運用次第ではいかようにも受給対象を広げられる恐れがある。今後、精神・発達障害者による障害年金の申請・給付が増加するにつれて、この辺りの制度的整合性が議論の俎上に載せられるかもしれない。

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