【2018年反省会(18)】「多様性社会」とは「総差別社会」である(2)

【2018年反省会(18)】「多様性社会」とは「総差別社会」である(2)

【2018年反省会】記事一覧(全26回)

その1からの続き)

差別を完全になくすことは難しい。だが、言葉の爆発が差別を生んでいるならば、言葉を減らすことが差別の緩和につながるに違いない。対立している複数の言葉を包摂する新たな言葉を生み出すこと、包摂される言葉間の対立をなかったものとする行為である。これは弁証法とは異なる。弁証法においては、正と反という同一基準上の対立を乗り越えて合を生成する。私の提案は、対立している複数の言葉を、同じ価値基準による比較に載せずにあるがままに描写し、さらにその上位概念を創造しようとするものである。加えて、正と反という2つの言葉ではなく、複数の対立を一気に解消する。これは複数の言葉の共通点を探すことでもない。共通点とは、複数の言葉を比較して最大公約数を取り出すことだからだ。

私は本ブログでよく、西欧人は利己から入って利他に移り、日本人は利他から入って利己に移ると書いてきた。だが、時にこれは反対なのではないかと思うことがある。前回の記事で、言葉は多様化⇒標準化⇒多様化・・・、拡散⇒収束⇒拡散・・・を繰り返すと述べた。西欧の場合は、実態としての出発点は多様化・拡散であるものの、近代の啓蒙主義を通じて、「平等」という普遍概念を出発点とすることに決めた。平等が本当に実現されるかはともかく、平等を前提としてその後に自由が発達した。自由が行きすぎると、「愛」という普遍的言葉で人間関係の全てを語り、「存在」という普遍的言葉であらゆる事象を肯定的に受け止めようとする。

標準化・収束から出発するのは、西欧社会が一神教であることと無縁ではないだろう。神の下の平等が、近代に入って生まれながらの平等に変化したと解釈することができる。近代化は神を否定したように見えても、実際に起きたのは人知を超えたあちら側のメシアニズムがこちら側、つまり人間側に移行したということである。西欧人は平等という絶対的価値を死守する。平等を守ることが社会全体を守ることに他ならない。この点で、西欧人は利他的である。その後に自由を追求するという点で、西欧人は利己的である。アメリカやフランスにおける暴力的な移民排斥は、平等という価値が脅かされることに対する彼らの利他的な反応である。

一方、日本社会は多神教である。よって出発点が多様化・発散である。日本人の価値観が単一であるというのは空想である。西洋人はまず「他人と同じでありたい」と思うのに対して、日本人は「他人とは違う存在でありたい」と思う。この点で、日本人は利己的である。よって、我々は西欧人よりも、総当たり的な差別をしやすい素地を持っている。しかも、多様化・発散の後の標準化・収束が苦手である。西欧社会、特にアメリカにおいては、新しい産業が生まれると、最初に新興プレイヤーが集まって業界標準を作る。そして、業界標準に則って競争することが合意される。ところが、日本ではまず様々なプレイヤーが独自の規格で参入する。市場が広がった頃に業界団体が結成されて標準化に乗り出すものの、めいめいが利害を主張して譲らない。弱い標準化のままさらに多様化・拡散が進むと、いよいよ収拾がつかなくなる。

植草学園大学名誉教授の野口芳宏氏は、現在の教育現場に跋扈する子ども中心主義を批判する。本当は右も左も解っていないのに、子どもの個性は既に完成していると見て、その個性を尊重し多様性を追求すれば、教育現場は崩壊すると警鐘を鳴らしている。教育の役割は、子どもが右と左を適切に認識できるように共通基盤を植えつけることである。言い換えれば、子どもの段階で強い標準化を経験させることである。元々弱い標準化しかできない日本社会に、戦後になって自由主義が中途半端に持ち込まれたことが、利己的な人間を量産し、陰湿な差別を蔓延させたと言ってよい。逆説的だが、幼い頃に強い標準化という儀式を通過することで、将来的な差別を軽減できる。我々はもっと日本語教育を重視しなければならない。

日本人の陰湿な差別を助長している原因の1つとして匿名主義がある。2000年代中盤にブログが日本で広まり始めた頃、海外のブロガーは実名で記事を書いているのに、日本のブログには匿名のものが多いという分析結果があった。現在でも、Facebookがいまいち日本で広がらないのは、Facebookがポリシーとする実名主義が障害になっている。公に向かって何かを発現する以上、たとえそれが表現の自由に根差すものであっても責任が伴う。そして、責任ある言葉しか我々は信頼することができない。我々は文章を書く際に他者の文献を参照する。文献という言葉には、文章そのものに加えて、誰がその文章を書いたのかという情報が含まれると山本七平は指摘した。実際、書き手が明らかでない文章は引用に耐えられない。

Web通販では顧客の口コミ情報が購買を左右する。しかし、口コミのほとんどは匿名で書かれている。匿名で書かれている以上、それが不適切だったり誤ったりしていても、責任を追及することができない(IPアドレスから特定しようと思えばできるのだが)。口コミ情報を事前に自分で色々と調べてから購買を行う消費者は賢いとされるが、無責任な情報に基づいて購買する行為はやはり無責任であり、およそ賢いとは言えない。

Amazonや楽天などが商品の検索結果を順番に表示するアルゴリズムには、口コミの内容が影響している。だが、いくら「Amazonのおすすめ」と書かれても、Amazonの誰かが主体的に推奨しているのではなく、アルゴリズムが勝手に判断しているにすぎない。仮説による経営を重視するセブン・イレブンジャパンの鈴木敏文氏は、「仮説とは売り手による意思表示である」と述べた。セブン・イレブンの店舗に特定の商品がいつもより多く置いてあれば、その店舗の店長やアルバイトに何らかの考えがあってそうしているのだろうと解る。Amazonの場合は、その考えが外部からは見えない。理屈は何だかよく解らないけれども、よく知らない誰かが勧めているから買ってみようというのは、いかにも不安定な行為である。

匿名とは責任から逃げることであり、絶対に利他的にはなれない。冒頭の私の提案は全く煮詰まっていないのだが、本気でその提案を実行し、利他的に責任ある強い標準化・収束を行うためには、まずは自らの名を表す必要がある。とはいえ、私の提案にはいくつもの危険が伴っていることを認めざるを得ない。どうしても差別を撲滅することはできない。

複数の対立する言葉を包摂するということは、「愛」や「存在」のように凝縮された言葉を生み出すことである。これは、「平易な言葉」を使うこととイコールではない。平易な言葉で人々を導くことは、ポピュリズムにつながりやすい。外国人を受け入れる際には「平易な言葉」、日常生活が問題なく送れるような言葉を共有することが大切であると言われる。だが、平易な言葉にとどまる限り、外国人差別からは抜け出せない。我々は身体が弱った高齢者に対して、子どもに接する時と同じようにゆっくりと解りやすく話すことがある。高齢者を思いやっているつもりでも、心の底ではその高齢者の能力が劣っていると見下している。これを「慈悲的エイジズム」と呼ぶ。同じことが外国人相手にも起こる。「慈悲的レイシズム」と呼べるだろう。

多様性を活用しながら物事を前に進める方法として、ユルゲン・ハーバーマスは法に基づいた「協議デモクラシー」を提唱した。これに対して、協議デモクラシーという穏健な方法では生ぬるいと批判し、「討議デモクラシー」を主張したのがジョン・ドライゼクである。討議デモクラシーは「闘技デモクラシー」でもあり、ほとんど血みどろの争いを想定している。そのくらい身体的な直接行為がなければ、包摂は実現不可能なのだろう。私も旧ブログで「「対話」という言葉が持つソフトなイメージへのアンチテーゼ」という記事を書いたことがある。

事実、差別を克服する方法として研究者がよく提案するのは、「お互いに対等な立場に立って、相手と直接交流する」というものである。目の前にいる人がカテゴリーのステレオタイプに必ずしも当てはまらないと認識し、その特有性から元々のステレオタイプを修正していく。しかし、この方法には2つの問題があると考える。まず、完全な平等があり得ないのと同様に、完全に対等な関係というのはあり得ない。頭の中では完全に真っすぐな線を描くことができても、現実世界には完全なる直線は存在しない。それに、対等な立場に立つということは、両者を同じ土俵に乗せることであり、そもそも比較をしようとしない私の提案とは相容れない。

もう1つの問題は、差別を乗り越えるためにいちいち相手と向き合っているだけの時間はないという制約である。以前の記事「【2018年反省会(19)】障害者は自らの「トリセツ」を訴求した方がよい」の中で、私が日常生活の中で不快に感じることを列挙した。だが、それらの行為は私が勝手に深いと思っているだけで、相手には相手なりの事情があるかもしれない。にもかかわらず、私は逐一彼らに対して「なぜそのようなことをしているのか?」と尋ねる暇はない。だから、直接的な交流だけでは、差別をなくすのには不十分である。

遠いカテゴリーを理解するには、やはり言葉の力に頼るしかない。そのカテゴリーについて発せられた言葉、あるいはそのカテゴリーに属する人が発した言葉を多角的に読み込む。我々もまた、自らが属するカテゴリーに関する言葉を発信し続ける。相手に歩み寄る自分を相手に信頼してもらうためには、実名でなければならない。匿名で近づけば、相手に必ず警戒される。しかしここで、我々は言葉の持つ暴力性にも気をつけなければならない。言葉遣いを誤ると、相手をひどく傷つける。「ペンは剣よりも強し」という格言を思い出す必要がある。確かにペンは剣よりも強いけれども、マイナスの方向に強いこともある。ネット上のいじめは言葉のマイナス作用である。私などは、時に相手を殴った方が相互理解が早く進んで親切だと思う時があるのだが、それを野蛮だと非難するのであれば、知性ある言葉遣いを学習する責務がある。

言葉による強い標準化・収束は、神経症(ノイローゼ)を引き起こすかもしれない。以前の記事「【2018年反省会(15)】うつ病・双極性障害・統合失調症の違いはグレー(1)(2)」でも書いたように、標準を常に下回る評価しか受けなかった人も、標準よりもはるか上に非現実的な目標を設定してしまう人も、同じように神経症(やその他の精神疾患)に陥ることがある。それを回避するためには普遍的な価値基準に幅を持たせることが重要であると指摘した。だが実際には、標準化・収束⇒多様化・拡散⇒標準化・収束・・・というサイクルを速く回して、あたかも標準が揺れ動いているかのような現実を作り出す方が効果的であろう。

言葉に依拠すると、反面では包摂的な新語を創造する力を持たない人、あるいは創造する努力をしない人、さらにもっと手前の段階で、言葉の暴力性を理解しない人が現れる。端的に言えば、「言葉の運用能力がない人」である。すると、この世界は「能力がある人」と「能力がない人」に二分される。両者は能力という同一基準によって分類されるから、双方の間で差別が生じる。フランスの博愛主義は、フランスの普遍的価値観である平等や自由を「フランス語で」理解する人をフランス国民とする。よって、フランス語を理解しない、つまりフランスの文化に統合されない移民を排撃するという、およそ博愛主義とは程遠い事件が起きる。前回の記事でも書いたように、言葉がなければ相手を理解できないが、言葉があるがゆえに差別が生じる。この事態を回避する手段を、無力な私にはどうやっても想像することができない。

仮に我々が皆言葉の運用能力を身につけたとしても、まだ心配は尽きない。人種、国籍、民族、性別、年齢、特定の障害などについては、外見で違いが解ってしまう。「私とは違う」という認識は「私」との比較によって生じる。ただでさえ日本人には、曖昧な状況を細かく仕切って多様性を設定し、陰湿な差別をする下地がある。見て解る多様性には、もっと敏感に反応するかもしれない。天皇陛下が退位前の最後の記者会見で、近年日本で増加している外国人労働者に触れて、「各国から我が国に来て仕事をする人々を、社会の一員として私ども皆が温かく迎えることができるよう願っています」と述べられたのは、本当に切なる願いである。

私は、差別を完全になくす一つの手がかりを「絶対無」に求めようとしたことがある。この世界に限界があって、何らかの枠で囲われている限り、「A」という概念を発した時点で、集合論的に「Aでない」という概念が想起される。それを防ぐには、世界に限界があるという前提を覆せばよい。つまり、絶対無である。以前の記事「和辻哲郎『日本倫理思想史(1)』(再読)―全体主義と古代日本の人倫思想の違い」で、日本の階層社会の頂点に位置する(かのように見える)天皇は、国民から祀られる存在であるとともに、さらに上位の神を祀る存在であるという和辻の見解を紹介した。上位の神もまた、より上位の神を祀っており、これを繰り返していくと最終的には「不定の無」に行き着く。天皇は「不定の無」が現実世界に現れた象徴である。

以前の記事「鈴木大拙『禅』―禅と全体主義―アメリカがU理論・マインドフルネスで禅に惹かれる理由が何となく解った」で、私は無邪気にも、日本の禅と西欧の啓蒙主義はどちらも「絶対有」を志向している点で同じだと解釈してしまった。しかし後に、臨済宗円覚寺派管長の横田南嶺氏が「禅は無を目指すものだ」と述べているのを読んで、私が重大な勘違いをしていたと自覚した。横田氏は「無は多様性を包み込む」とも述べており、最初はよく解らなかったのだが、今回の記事を書く中で、少しだけその意味が咀嚼できた気がする。とはいえ、天皇が「絶対無」の象徴であるとした場合、階層社会の「上に載っている」(=物理的に場所を占めている)絶対無とは、どういう点で絶対的であり無なのかが説明できない。それに、絶対無が日本だけにとどまる理由も説明がつかない。私の考えはここで行き詰まってしまった。

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