リストラした後に新規投資をしなかったことの後悔

リストラした後に新規投資をしなかったことの後悔
 

上杉鷹山と言えば、米沢藩の財政を立て直した人物として有名である。鷹山は10歳の時に、秋月家から上杉家へ養子に来て、17歳で米沢藩主となった。当時の上杉家には借財が多く、その上領内には凶作が続いて、領民は非常に苦労していた。窮状を目の当たりにした鷹山は、まず倹約によって家を建て直し、領民の難儀を救おうと決心した。

鷹山は藩士を集めて倹約の重要性を訴えたものの、藩士の中には小藩に育った鷹山の出自を取り上げて、鷹山は米沢藩のような大藩のことを何も知らないと非難する者もあった。しかし、鷹山は師事していた細井平洲から、「勇なるかな勇なるかな、勇あらずして何をもって行わんや」と励まされて、倹約にいそしんだ。

領内に倹約令を出した鷹山は、自ら倹約を実践することが重要だと考え、大名でありながら食事は一汁一菜、着物は木綿物と決めた。さらに、上に木綿のものを着ていても、下に絹や紬を重ねていては本当の倹約にならないと言い、下着も木綿のものを用いた。鷹山がまさか下着までも木綿を使っているとは、側役の人たちの他には誰も信じなかった。

ある日、鷹山の側役の父が、田舎へ行って知人の家に泊まったことがあった。その人が風呂に入ろうとした時、粗末な木綿の襦袢を丁寧に屏風にかけておいたのを不思議に思った主人が理由を尋ねると、「この襦袢は殿様がお召しになっていたものをいただいたものですから」と返答が返ってきた。藩主の倹約ぶりに痛く感じ入った主人は、その襦袢を家内の人たちにも見せて倹約を勧めた。藩士はもちろん、領内の人もこの話を聞いて、鷹山の倹約ぶりが並大抵ではないことを知り、藩全体が倹約を守るようになった。そのおかげで上杉家も領内の人々も豊かになった。

重要なのは、鷹山は単に倹約を行った、つまりコスト削減を行っただけではないという点である。倹約と同時に、産業を興すための投資も行っている。まず、荒れ地を開いて農業を行おうとする者には、農具の費用や種籾を与えて、3年間の租税を免除した。また、村々に馬を飼わせたり、馬の市場を開かせたりして、農業を盛んにしようとした。

鷹山が特に力を入れようとしたのが養蚕である。とはいえ、藩には貸し与えるお金がない。そこで、鷹山は自分の衣食の費用の中から毎年50両を捻出することに決めた。毎年50両ずつであっても、10年、20年と続ければ、大きな成果が出るだろうと、非常に長期的な視点に立った決断であった。鷹山の決意を聞いた役人は養蚕役場を設けた上で、鷹山が節約した金で桑の苗木を買い上げて分け与え、または桑畑を開く費用として貸し付けて、養蚕業を発展させた。なお、鷹山は奥向きで蚕を飼わせ、その糸で絹や紬を織らせた。また、領内の女性に職を持たせるため、越後から機織りの名人を雇い入れて、その方法を教えさせた。これが米沢織の始まりである。

《参考》

修身の教科書
小池 松次
サンマーク出版
2005-08-03

企業でも、業績がピンチになると真っ先にコスト削減が行われる。場合によってはリストラが断行されることもある。しかし、単にコストを削減しただけだと、企業は縮小するだけになってしまう。残された社員のモチベーションも上がらないであろう。企業がコスト削減やリストラを行うのは、もう一度企業の業績を成長曲線に乗せるためである。成長には投資が欠かせない。だから、業績不振の企業は、短期的に収益率を改善させる目的でコスト削減やリストラを行う一方で、敢えてまた資金を投じて売上拡大の策を講じる勇気を持たなければならない。

マクドナルドやベネッセで社長を務めた原田泳幸氏は評価が分かれる経営者であるが、 原田氏がマクドナルド社長時代に「コスト削減案と同時に投資案を持ってこい」と社員に命じていたというエピソードは、個人的に非常に気に入っている。

当事務所のビジョンを紹介したページで、私の前職のベンチャー企業では3回のリストラを行ったと書いた。実は、そのうちの1回は、厚かましくも私が社長に話を持ちかけたものである。

シャイン経営研究所について

当事務所は「社員(”Shain”)が輝く(”Shine”)経営」の実現を支援します。より具体的には、社員が自社の経営をとしてとらえ、 一段高い視点 から仕事をするお手伝いをし、社員の人生にとってを持つようにいたします。 ①温故知新 先人の偉大な叡智の上に立っていることを自覚し、その叡智をさらに乗り越えていきます。 ②有言実行 …

教育研修サービス、組織・人事コンサルティングサービス、転職支援サービスという3つの事業がそれぞれ分社化された後、私は教育研修サービスの企業に所属することになった。分社化してから1年経っても、慢性的な赤字は改善されるどころか、むしろ大幅に悪化していた。 当時、社員は20人ほどだったが、売上高はわずかに約1.5億円しかなかった。社員1人あたりの売上高はたった700万円である。教育研修サービス事業はほとんどが固定費で構成されるビジネスであり、毎月2,000万円弱の固定費がかかっていたため、 営業赤字は何と約7,000万円に上っていた。

マーケティング業務を兼務していた私は、Salesforceのデータを見ながら、翌年度の売上見込みを計算してみた。リピート受注が確実に見込めるものから、その年限りで契約が切れるものまで1つ1つの案件を精査した(と言っても、売上高が1.5億円しかなったので、大した案件数ではなかった)。すると、その時点で予想される翌年度の売上高は8,000万円ほどしかなかった。損益分岐点との差分を全て新規受注で賄うのは不可能に思えた。

私は、慢性的な高コスト体質にメスを入れない限り、次年度で会社が潰れると感じた。前職の企業では、毎週金曜日の夜にマネジャー以上が参加する経営会議が開かれていた。この会議は18時から始まっていつも22時過ぎまで長々と行われていたのだが、一般社員であった私にとっては全くのブラックボックスであった。私はそのブラックボックスに乗り込んで、自分で作成したデータを見せながら、「もうリストラするしかない」と社長に迫った。今振り返ってみると、何とも乱暴なことをしたものである。私は未熟であった。

社長を含め経営会議のメンバーは、リストラもやむなしという雰囲気になった。社長は、社内にある3つのチーム、すなわち講師チーム、営業チーム、オペレーションチームそれぞれについて、誰をリストラすればよいか、次回の経営会議の場で名前を挙げるように参加者に促した。翌週の経営会議にも私は出席した。その場で、講師チームから1人、営業チームから2人、オペレーションチームから3人をリストラすることが決定された。社員の3割を削減する計算であった。

はっきり言って、社員を6人削減したところで、損益分岐点が大幅に下がるわけではなかった。というのも、高コスト体質の原因は人件費の高さだけではなかったからだ。コストを押し上げていた要因の1つは、オフィス賃料であった。当時のオフィスは港区の一等地にあったため、賃料が非常に高かった。一時期は、六本木ヒルズの最上階に入っているゴールドマン・サックス証券の坪単価よりも高いと言われていたくらいである。だが、オフィスには分社化した3社が一緒に入っており、私の所属する会社だけがすぐに単独で引っ越すことはできなかった(3社ともいよいよ赤字に耐えられなくなり、バラバラのオフィスに引っ越したのは、それから随分と先である)。

謎のコストも存在した。教育研修サービス事業のコスト構造は割と単純であるから、私は自分で毎月のコストの内訳を計算した。しかし、どう計算しても数字が合わない部分があった。その点について、仲良くしていた経理担当者に尋ねたところ、間接業務を分社後のコンサルティングサービス会社にアウトソーシングしており、その費用がかかっていると解った。その費用はかなり高額であった。だが、その分を考慮しても、まだ私の計算はつじつまが合わなかった。経理担当者にさらに突っ込んで聞いてみると、「色々なリース代とかがかかっている」と曖昧な回答が返ってきた。100万円単位でリースしているものなど、オフィスには見当たらなかった。この謎のコストに一切切り込むことができなかったのは、完全に私の力量不足である。

とはいえ、それ以上に後悔しているのは、リストラが単なるリストラで終わってしまい、その後の再建策を私が一切考えていなかったことである。 原田氏が言うように、コスト削減案と投資案を同時に持ち合わせていなかった。だから、リストラによって、会社は単にパワーダウンしただけであった。リストラを機に止めるべき活動は何か、会社としてどんな活動に集中するのか、その活動に集中するためにいくらの投資を行うのかといった計画を全く立案していなかった。もちろん、赤字額が巨額なだけに、リストラしたところで投資を捻出できる保証は限りなく低かっただろうが、投資のことを何も考えていなかったことは痛恨の極みである。

もう1つの後悔は、リストラした6人のうち、半分は若手社員であったことだ。本来であれば、年配の社員から順番に責任を取って辞めるべきだっただろう。経営会議に出ていたマネジャーたちは無傷であったのに、ブラックボックスの外に置かれていた若手社員を犠牲にしてしまったのは完全なる過ちであった。実は、社長がリストラすべき社員を指定するように命じた翌週の経営会議で、ある営業マネジャーは、彼よりも年上の営業マネジャーの名前を挙げていた。社長がその年上営業マネジャーのことをかばったため、その案は採用されなかったのだが、本当はこの案こそいの一番に採用すべきだったのかもしれない。

さらに言えば、本来は会議メンバーではない私が経営会議に乗り込み、私が蔑視していたブラックボックスの中で若手社員のリストラを勝手に決めたことにも、後ろめたさが残った。