【2018年反省会(21)】「それって必要ですか?」とすぐに聞く社会では教育も子育ても天皇制の維持も無理
- 2019.03.28
- 記事
【2018年反省会】記事一覧(全26回)
《今回の記事の執筆にあたり参考にした書籍》
入院生活が長くなってくると、看護師から「病院の中にいるだけでは退屈だろうから、たまには院外外出の許可を取ってリフレッシュしてはどうか?」としきりに勧められた。他の患者は家族と一緒に院外外出して、外食などをしていたらしい。病院食はカロリーが制限されている上に、高齢の患者に合わせて薄味になっていたため、患者は外で好きなものを食べることを楽しみにしていたようだ。だが、私は家族を事実上面会謝絶状態にしていたし、何よりも病院の周辺にはめぼしい飲食店がなかった。せめてカフェで気分転換したいと思っても、院内外出で最上階のレストランに行った場合には、病院のルールで1時間以内に病棟へ戻って来る必要があった。病院から一番近いカフェでも3kmほど離れていたから、外出する気にならなかった。
とはいえ、体調が戻ってくると、元来読書好きの私は本を読みたくなってきた。これもまた病院から3kmほど離れたところに、地元で一番大きな図書館があるのを知った。長い入院生活で身体が鈍っていた私は、運動がてら歩いて図書館に行き、本を借りて病院で読むことにした。1時間ほど歩いて図書館に行くと、非常に立派な図書館が建っていた。はっきり言って私の地元には大したスポットがないのだが、この図書館だけは他の地域の住民に自慢してもよいと思った(上から目線)。このような文化施設が充実していることは重要であろう。
ここで、文化とは何かを考えてみたい。ヨハン・ホイジンガは『ホモ・ルーデンス』という書籍の中で、「遊びは文化よりも古い。文化は遊びの中に、遊ばれるものとして生まれた」という有名な言葉を残した。そこで、まずは文化の隣接概念である遊びについて考察する。以前の記事「『恩を知り恩に報いる(『致知』2016年9月号)』―スマホゲームに熱中するのも学習塾に缶詰めになるのも一緒、他」で、遊びの条件として、①2人以上でする、②身体と道具を使う、③お金を使わない、④ルールを自分で決める、⑤喧嘩して仲直りする、という5つを挙げた。ただし、「③お金を使わない」だけは修正しておきたい。というのも、異常なほどにお金をかける遊びもあるからだ。お金を使わない遊びは、お金の代わりに異常なほどに時間をかける。お金にせよ時間にせよ、費用対効果を考えないのが遊びである。効果自体を目的とせずにプロセスを楽しむこと、ミハイ・チクセントミハイ の言う「フロー体験」を追求することが遊びとも言える。
遊びから「①2人以上でする」という要件が抜けると趣味になる。釣りは1人でもできるし、音楽鑑賞も1人でできる。映画や演劇を1人で見に行くこともできる。1人でする限りは、趣味の領域にとどまる。一方、遊びと呼べるのは、2人以上の活動の交錯がある場合である。釣り仲間が集まって釣った魚を共同で料理し、料理の腕前を競い合ったり、お互いの釣り道具を自慢し合ったりすると遊びになる。音楽の趣味が合う友人と一緒にコンサートに行ったり、バンド活動をしたりすると遊びになる。ある映画をめぐり、脚本の中身や俳優の演じ方、演出方法などについて、友人たちとまるで映画評論家のように議論を交わすのも遊びである。
「文化は遊びの中に生まれた」というホイジンガの言葉を踏まえれば、文化は遊びに何かが加わったものであるだろう。私は、遊びに「権力の性質」が加わったものが文化だと考える。文化には3つの種類がある。1つ目は、権力者自身が残す文化である。歴史を振り返ると、古代の文化として現代にまで伝承されているのは、権力者が収集した美術品や、権力者が被統治民に命じて作らせた建造物などである。こうした美術品や建造物は、時の権力者がどのような性格を持っており、いかなる政治を志向していたか、その権力の性質を表している。権力者は自らの文化を構築するために、莫大な資金ないしは時間を費やす。
2つ目は、権力者がパトロンとなった文化である。中世の音楽や美術品にはこのタイプが多い。文化の担い手は権力者から芸術家へと移行する。芸術家は権力者が提供する膨大な資金をバックに、自らの人生の全てをかけて作品を残す。それらの作品には、当然のことながら作者の価値観や思考(嗜好)が反映されているが、同時に背後にいる権力者の影響も強く及んでいる。芸術家が時に権力者に同調し、時に反発しながら創作した作品の背景を紐解いていくと、権力の性質が見えてくる。権力者自らが残した文化が平面的であるとすると、権力者がパトロンとなった文化は関係者が増える分だけ立体的になる。
3つ目は、権力と対峙する文化である。一部の専門的芸術家だけではなく、一般の市民も文化の生成に参加する。文化を権力との関係で語ることには違和感を覚えるかもしれない。だが、例えば香港文化はずっと語るのが難しいと言われてきた。香港に文化がないのは「香港意識」が浅いからだと分析され、「文化の政治的な消失」とも評された。確かに、香港はイギリスの植民地だった頃から本国の権力の影響をあまり受けず、戦後も本土から移ってきた大量の人々が刹那的に日々の生計を立てているにすぎなかった。香港で文化が意識され始めたのはようやく1970年代に入ってからであり、中国人と一線を画すことで香港人の自我が芽生えた。その自我が成熟するのは、本土返還後の中国権力との戦いを通じてであり、オキュパイ・セントラル運動や雨傘運動を通じて、香港住民は初めて市民的文化を獲得したとされる。
市民的文化が生まれるためには、言論の自由が不可欠である。市民は自らが対峙している権力の性質について自由に発言する。その発言内容は必ずしも論評という形ではなく、小説、音楽、映画、舞台、その他様々な様式となって現れる。普段我々が読んでいる小説などは、一見すると権力とは無関係である。しかし、我々はエーリッヒ・フロムが言うように「自由からの逃走」を見せることもある。自由とは権力が与えるものである。その自由から逃げるということは、権力から逃げることと等価である。権力から逃げるとは、権力をなかったものとして無意識の世界に忘却することではなく、依然として権力と(相当程度の)距離を保っていることを意味する。我々が遠ざけている権力の性質とはいかなるものなのか、なぜ我々は権力から遠ざかる必要があったのかという解釈・分析が成り立つ作品は、文化として後世に残る。
権力は我々の世界を成り立たせるために必要(必要悪)であるが、権力を解釈する文化は必ずしも必要なものではない。その意味で、私がしばしば使う「必要品である―必要品ではない」、「製品・サービスの欠陥が顧客の生命・顧客企業の事業に致命的なダメージを与える―致命的なダメージを与えない」という2軸からなるマトリクスで言うところの、「必需品ではない―致命的なダメージを与えない」という象限に相当する。
権力の性質を示す文化は、食文化や服飾文化などとは異なる。これらの文化は我々の必需品の傾向を表すものであり、風習や習慣と呼ぶのがふさわしい。衣食住の文化であっても権力との関係を解釈することは不可能ではない。しかし、一例として日本人が生魚を食べる理由を権力者との関係で紐解いても、あまり意味がないだろう。食文化や服飾文化は、前述したマトリクスのうち「必需品である―致命的なダメージを与えない」という象限に帰属するものである。もちろん、「必需品である―致命的なダメージを与える」という象限に該当する製品・サービスに関しても、例えば自動車文化や住文化といった文化は存在する。一方で、金融文化、製薬文化、エネルギー文化といったものは耳にしない。よって、風習・習慣である文化と親和性が高いのは、「必需品である―致命的なダメージを与えない」という象限だと言ってよい。
以前の記事「【第14回】(一部公開)」で触れた生存権は、憲法25条1項で規定されている(「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」)。私は憲法の専門家ではないので、条文中の「文化的」という言葉が意味するところを十分に把握していないが、国民のコンセンサスとして、風習や習慣である文化を指しているように思える。したがって、生活保護を受給するためには持ち家や自動車を処分しなければならない。また、担当の福祉事務所やケースワーカーによっては、スマホが取り上げられることもある。スマホの通信機能は、必需品である固定電話の代替物として許容されても、今やスマホのメイン機能であるゲーム機能は、「必需品ではない―致命的なダメージを与えない」という象限のサービスにあたるからだ。
権力との関係をめぐり解釈を要求する文化は、かなりの時間とコストも要求する。文化の原資は、この象限の製品・サービスから捻出されるであろう。論評、小説、音楽、映画、舞台などは、未だ文化とはなり得ない段階では、自由市場における競争にさらされる。パーツ同士の激しい正面衝突が展開される。前掲の記事で「必需品ではない―致命的なダメージを与えない」という象限はイノベーションの象限であるとも書いた。イノベーションである限り、最終的には勝ち負けがはっきりとする。そして、勝ったイノベーションも、市場の制覇という当初の目標を達成し大きな利益を得た後は、すぐさま市場から撤退する。残るのは大量の死体である。
しかし、文化は死屍累々の解釈からこそ生まれる。パーツを組み立てて文脈化することから生まれる。イノベーションと異なり、解釈にはゴールがない。解釈は時間の経過とともに揺れ動くのが常である。その原資となるのは、勝利したイノベーションが残した利益である。利益を追求する産業と、費用対効果を追求しない文化はベクトルが正反対であるが、確かに文化は産業を必要とする。ここで言う産業とは、いわゆる娯楽産業と呼ばれるものである。娯楽産業は文化と対比して低俗なものと位置づけられることが多いものの、文化と娯楽産業は車の両輪であり、表裏一体の関係にある。毎年のように有象無象の作品が生まれては消えてゆく書籍産業がなければ、そのアーカイブの上に成立する文化というものはおよそ想定しえない。
言論の自由の結晶である書籍は、頻繁に権力に立ち向かう。しかし、逆説的なことに、権力に立ち向かう書籍は、権力の中でしか保存されない。書籍をほぼ無限にアーカイブできるのは、税金を惜しみなく投入できる行政権による図書館しかない。もちろん、税金にも限りはあるものの、経済合理性で動く書店に比べれば自由度が高い。東京の地域雑誌『谷中・根津・千駄木』の元編集長は、行政が谷根千(谷中・根津・千駄木の総称)の歴史や地域の物語を何も保存していないことに強い憤りを感じ、行政という権力にかなり反発していたようだが、同雑誌が現在アーカイブされているのは国立国会図書館と都立図書館なのである。書籍は、権力の中にありながら、権力に立ち向かうという性質を持っている。時には、権力の中にいる図書館が、自らの立脚基盤である権力に立ち向かうこともある。かつて、『ちびくろさんぼ』が図書館から撤去された時には、図書館が行政に対して声を上げなければならないという意見もあった。
図書館が大量の書籍をアーカイブすれば文化が成立するわけではない。大量の書籍を集めるだけであれば、Amazonでもやっている。しかし、Amazonが文化であるとは誰も言わない。では、ユーザの嗜好や目的に応じて必要な書籍を勧めてくれる司書の機能に文化の源泉があるかと言うと、これもまたNoである。同じ機能ならAmazonも持っている。図書館にITが導入され始めた頃は、司書がきめ細かく書籍を探索する役割が依然として残ると言われていたようだ。しかし、毎年大量の書籍が図書館に運ばれてくれば、容易に司書の限界を超える。ユーザに最適な書籍を勧める役割は、今やAIの方が圧倒的に上手にこなしてくれる。
ここで、文化とは遊びの一種であることを思い返さなければならない。文化は複数人の身体的な交錯によって紡ぎ出されるものである。よって、図書館の中で1人1人の住民が黙って好きな書籍を読んでいるだけでは、実は文化ではない。複数人の身体的な交錯を通じて、権力の性質を明らかにすることが文化的な営みである。ロンドンでは市内で1万以上の市民講座が開かれており、参加者は各講座の指定図書を図書館で借りるという文化があるそうだ。
日本でも各地で生涯学習の講座が開かれているとはいえ、高齢者の暇つぶしになっている印象があり、残念ながら文化とは程遠い。日本国内にあまた点在する生涯学習の場を文化の場に変革することは難しいだろう。そこで、図書館が施設内に文化的な営みの場を用意する。司書はその場のコーディネート役を担う。司書は必ずしも全ての書籍に精通している必要はない。その場に集まった人たちがその場に持ち寄った書籍に基づき、権力の性質について議論するプロセスをファシリテートする能力こそが重要である。文化施設としての図書館のあるべき姿はこのようなものだと考える。図書館が真に文化施設となった時、朝早くから図書館に入り浸って1日中新聞を読み続けるような、暇つぶし目的の高齢者を放逐することに成功する。
娯楽産業の代表格であるゲームやアニメであっても、流行り廃りを超えて作品の文脈を構築し、その文脈が埋め込まれた社会と、その社会を生み出した権力構造を明らかにすることができれば、確固たる文化である。日本のゲームやアニメといったポップカルチャーは、アメリカの政治学者ジョセフ・ナイの言うところのソフト・パワーの源泉である。ポップカルチャーが単にクールであるという理由によって海外で消費されているだけならば、未だ産業の域にとどまる。それがソフト・パワーの源泉であると言う時、日本国家が諸外国に対して発揮する政治的権力と密接に結びつく。ここで初めて、ポップ”カルチャー”と呼ぶことができる。
コミケが毎回政治家を呼ぶのにも理由があると思う。主催者はイベントの盛り上がりがほしくて政治家を呼んでいるわけではない。仮装した参加者は、主権を持った国民は必ずしも一面的な存在ではなく、様々な顔を持った人物であり、1人1票という現代民主主義の仕組みに収まらない価値を持っていることを政治家に訴求する。ある調査によると、二次創作が好きなオタク女子、いわゆる腐女子は、男は外で働き、女は家庭を守るという伝統的な価値観に対して否定的であるらしい。彼女たちがBLにはまるのは決して性的逃避ではなく、子どもを作ることが女性の役割でも恋愛の終着点でもないとする新しい価値観をBLに投影しているからである。二次創作があふれるコミケは、保守政治家に対する彼女たちの挑戦の場に他ならない。
権力は権威と異なり、人に帰属する。よって、権力と対峙する文化も、誰が発信したのかが重要となる。だから、匿名の文化というのはあり得ない。そして、興味深いことに、文化を発信する人は、あまり多くを語ってはならない。多くを語る人は、既に権力の性質を明らかにしてしまっている。多くを語らない作品の背後にいかなる意図があるのかを、同時代の人や後世の人が多角的に解釈するところに文化の醍醐味がある。過ぎ去った権力を事後的に深耕することにいかなる意味があるのかと言われれば、歴史を構築するためだと回答したい。
以前、「山本七平『比較文化論の試み』―「言語→歴史→宗教→道徳→政治→社会→経済」という構図について」という記事を書いたことがある。山本七平が提示した構図を今一度私なりに説明すると次のようになる。「はじめにロゴスありき」という有名な言葉あるように、人間の始まりは言語である。言語を使うようになると、人間は日々の営みを時系列で記録することができるようになる。その歴史から、「理由は定かではないが、共同体の人々が絶対的に信じる価値があるもの」が宗教として抽出される。旧約聖書が人類の歴史から生み出されていることを見ればよく解る。宗教は共同体にとっての絶対的価値であり、共同体の成員の日常生活を縛る実際的な規範を含む。その規範が道徳である。イスラームでは、クルアーンの内容がムスリムの生活を細かく規定しており、宗教と道徳が一体となっている。
道徳が発達してくると、その道徳を共同体の成員に強制する仕組みが必要となる。これが政治である。リーダーとなる人物をトップに立て、リーダーの権力を持って成員に道徳を浸透させる。やがて共同体の規模が大きくなるにつれ、成員間の顔が見えにくくなる。すると、離れた人々にも道徳的規範を遵守させるシステムが生まれる。共通の言語、共通の通信、共通の教育、共通の交通といった制度によって、道徳を広範囲に伝播させる。ここに一定の秩序を持った社会が成立する。とはいえ、様々な統一制度を持った社会を維持するには大きなコストがかかる。そのコストをカバーするために経済が不可欠となる。政治が先か経済が先かという問いに対しては、政治が先だと答えるべきだ。戦後の日本人がエコノミック・アニマルと揶揄されるのは、政治を差し置いて経済を発達させるというルール違反を犯したためである。
文化を構築するとは、「言語→歴史→宗教→道徳→政治→社会→経済」という構図を逆にたどっていくことに他ならない。まず、経済によって得た資金を元手に、我々の存在を成り立たせている社会の構造を明らかにする。その上で、社会システムの匿名性を取り払って、システムを構築した人物=政治的権力の正体を暴く。さらに、権力が基盤とした規範としての道徳、そして、道徳が基盤とした絶対的価値としての宗教の実態を解きほぐしていく。最終的には、絶対的価値が絶対的な価値を持つに至った物語である歴史を特定する。このように、文化は経済から遡って歴史を再生産する営みである。イギリスの歴史学者であるアーノルド・トインビーは、「歴史のない民族は滅ぶ」と主張した。繰り返しになるが、権力の性質を示す文化そのものは必ずしも必需品ではない。だからと言って高を括っていると、民族は最後に痛い目に遭う。
現在の日本文化は様々な面で危機に直面していると感じる。まず懸念されるのは、産業における”稼ぐ力”が過剰に意識されている点である。長期政権となった安倍政権が未だに最優先しているのはアベノミクスであり、日本の稼ぐ力を回復させることを目標としている。これと連動する形で、東京都の小池都知事も、グローバル都市としての東京の魅力を向上させ、東京を日本経済の牽引役に位置づけている。裏を返せば、それだけ日本の稼ぐ力が弱まっているという現実があり、文化に資金を供給する源泉が枯渇していることを意味する。
政府や東京都の施策には、頻繁に「生産性向上」という言葉が登場する。だが、稼ぐ力が弱まっている状態で生産性を向上させようとすると、企業は真っ先に生産性の分母にあたるコストを削減する。企業のあらゆる活動について、「それって必要ですか?」と尋ねる。費用対効果を追求する企業経営においてはそれでよいのかもしれないが、社会のあらゆる人が「それって必要ですか?」と聞くマインドに染まると、文化は窒息する。というのも、産業とは対照的に費用対効果を追求しない文化は、元来的に無駄や遠回りの集合体であるからだ。
「それって必要ですか?」と尋ねる人が多数を占める社会では、およそ教育は成立しない。学校で勉強することはほとんど実社会で役に立たないという批判はいつの時代にもある。確かに、現在の社会人で三角関数や有機化合物の反応式を使っているのは、その分野に従事する専門職以外にはいないだろう。しかし、教育の目的とは自分で考える力を養うことにあり、三角関数そのものを覚えることではない。三角関数の様々な公式を組み合わせて、論理的に解へとたどり着く力こそが重要である。自分で考える力を養うためであれば、極言すれば学習の材料は何でもよい。ただし、能力を伸ばすには、脳に対して過剰な負荷をかける必要がある。よって、教育は自ずと無駄を含んだものになる。効率的な勉強は、かえって脳を弱める。
「それって必要ですか?」と尋ねる人は、その人にとって無駄としか映らない教育に子どもを提供するのをためらう。さらに言えば、子育てそのものをためらう。子どもは絶対に親の思うようには成長しない。何を覚えるにも、何をするにも時間がかかるし、親がしてほしくないことを平気でする。効率重視の親には子どもの回り道が許せない。しかし、子どもがそれ以外の方法で成長することは不可能である。自分の理想が確実にくじかれるとあらかじめ解っている大人は、端から子どもを持とうとしない。現在の大人が子どもを設けないのは、子育ての資金が足りていないからではない。「それって必要ですか?」と聞くマインドが子育てを阻害している。このマインドが浸透している限り、仮に大人が稼ぐ力を身につけても、少子化は解決しない。
こうしたマインドは天皇にも向けられる。天皇に相当する英語はEmperor、つまり元首であるが、実際に国家を代表して外交を行っているのは首相である。憲法において象徴と位置づけられている天皇には、正確に対応する英語が存在しない。天皇は日本に特有の存在である。天皇が象徴であると明記したのは現行憲法が初であるものの、日本の長い歴史を振り返ってみると、天皇は「君臨すれども統治せず」という形で幕府の上にあった象徴的存在である。象徴という実態が見えづらい存在は排除して、いっそのこと日本も共和制にすればよいと主張する人がいる。また、皇室の儀式に首相が参席するのは、政教分離の原則に反すると批判する人もいる。特に、大嘗祭や新嘗祭は槍玉に上がりやすく、憲法訴訟に持ち込まれる。
しかし、首相の行動を非難する人は、政教分離の原則を字義通りにしかとらえていない。政教分離とは、政治が個人の内面的な信仰に介入しないことを表明した原則である。宗教には個人的に救済を求めるという側面と、共同体の規範を供給するという側面の両方がある。後者については、前述の「言語→歴史→宗教→道徳→政治→社会→経済」という構図でも触れた。宗教の後者の側面は、実際的な道徳へと転換され、政治によって社会へと浸透する。天皇が大嘗祭や新嘗祭で神々に祈りを捧げるのは、農耕社会で重視される和の精神を確認するためである。祭祀に首相が参加するのは、和という道徳的価値を、自らの政治を通じて社会へと広めることを約束するためである。これは政教分離の原則とは次元の違う話である。
そもそも、世界には宗教と密接な関係を持つ政党が少なくない。アメリカの保守党はキリスト教の価値観を強く反映しており、中絶反対の方針を公約として掲げている。新約聖書の中で中絶が禁じられていたからという理由を超えて、中絶禁止は広く社会の規範として受け入れられているし、また受け入れられるべきだというのが保守派の主張である。ここでもまた、「宗教→道徳→政治→社会」という展開が見られる。ドイツには、キリスト教民主同盟(CDU)という、その名の通りの宗教政党が存在する。CDUはもっと根源的なところでキリスト教の価値観と結びついている。基本綱領には「キリスト教の理解によれば、人間、自然、環境は神の創造によるものである」と明記されている。人間は神の創造物であるから、尊厳、自由、平等が担保される。これは、近代の啓蒙主義が導き出した普遍的価値と共通する。
我々は「あの人は頭がよい/悪い」という表現を使う。私はこれに、「頭が強い/弱い」という軸を加えたいと思う。「頭がよい/悪い」という軸はあまりにも表現が直接的すぎるが、別の言い方をすれば、記憶力が高いかそれほど高くないかを表している。一方、「頭が強い/弱い」という軸は、思考力が高いかそれほど高くないかを意味する。「頭がよくてかつ強い」人が理想形であるものの、滅多にそのような人はいない。「頭は悪いが強い人」、もっと棘のない言い方をすれば、「記憶力はそれほど高くないが思考力が高い人」は、手持ちの語彙を様々に組み合わせて、人生を生き抜く重要な知恵を独自に編み出している。漫才師の島田洋七さんが作り出した佐賀のがばいばあちゃんというキャラクターは、このタイプを体現している。
往々にして、すぐに「それって必要ですか?」と聞く人は、「記憶力は高いが思考力がそれほど高くない」人である。記憶力に優れているため、様々なことを知っている。しかし、情報量が増えるにつれて情報の間の矛盾も出てくるのに、彼らはその矛盾の謎を解こうとしない。よって、自分が理解できないことは「それって必要ですか?」と聞くことで切り捨ててしまう。彼らの文章には1つ大きな特徴がある。名詞の羅列が多いということである。記憶している言葉を並べることには長けている。ところが、言葉同士を結びつける思考力が乏しい。ひどい文章になると、カタカナ語を連発しているだけのこともある(外資かぶれのコンサルタントにたまに見られる)。
「頭がよくてかつ強い」人は、一見複雑に見える数学の命題をエレガントに証明するかのような文章を書く。数学では、単純な定理から単純な公式を導き出し、それらを組み合わせてより高度な公式を導き出す。そして、その高度な公式を駆使して解へとたどり着く。文章を書く時もまずは単純な概念からスタートし、複雑な概念をいくつか創造する。放っておくとどんどん分岐していく概念を、高次の概念で一気に包摂する。その高次の概念からはさらに複数の概念が分岐するが、より高次の概念を生み出すことでそれらを包容する。拡散と収束を繰り返しながら論理を組み立てていくのが特徴である。しかも、起承転結の展開が鮮やかである。
「頭がよいが弱い」人は、知識武装しようとしていつまでも知識を吸収する。ところが、あまりにも色んな情報を詰め込みすぎて、やがて記憶容量がパンクする。すると、基礎的な知識の意味が解らなくなることがある。「頭がよい」から「頭が悪い」に転落してしまい、実に初歩的なことでつまずいていると感じる。しかし、そこで諦めずに思考を巡らせると、「頭は悪いが強い」人に変身する。哲学者が愛、存在、言語、知覚、認識といった、我々が当たり前に理解できている(と我々が勝手に思い込んでいる)ことについてあれこれと逡巡するのはその例である。
哲学者の文章は実に解りにくい。「頭がよくてかつ強い」人の文章に比べると非常に回りくどい。起承転結という展開ではなく、起承転、転、転・・・と文章がとめどなく転がっていく。時には結がないのではないかと感じることさえある。しかし、彼らにとっては結論よりも思索のプロセスの方が大切である。この点で、哲学は文化的な営みだと言える。
哲学者になり切れずに「頭がよいが弱い」という象限にとどまり、「それって必要ですか?」と聞く人は、男系天皇にも疑問を投げかける。「男女平等の現代社会において、男系にこだわる必要はあるか?」と問うわけだ。しかし、私は男系天皇には意味があると考える。
日本の文化である皇室は尊い存在でなければならない。仮に女系天皇を認めた場合には、皇室の外部から男性を招き入れることを意味する。だが、皇室の外部は、経済・産業の世界である。日本には昔から金儲けを卑賎なものとする価値観がある。その卑賎な価値観に染まった男性を皇室の中に入れることは、皇室を汚す恐れがある。仮に、眞子様に天皇の資格があって、小室圭氏のようないわくつきの人物と結びついたら、皇室は大変なことになる。
その点、女性は子育てという、前述のように文化と共通点のある営みを行う存在である。文化的な存在である女性を文化的な皇室に招聘することで皇室の尊さを維持するためには、男系天皇でなくてはならない。だから、皇室をめぐっては、男女不平等に見える構造は避けられない。逆に、男女平等を進めて女性が経済・産業の中で活躍するようになれば、女性も卑賎な価値観に染まり、その価値観が皇室に持ち込まれるリスクすらある。
ただし、私の理屈では、文化に資金を提供する産業の方に価値があるのか、産業の上に成り立つ文化の方に価値があるのかという議論が温存されたままである。以前の記事「【第18回】「多様性社会」とは「総差別社会」である(1)|(2)」の言葉を使えば、「同一価値尺度上での対立」が残っている。この対立がある限り、社会は分裂状態に置かれる。私の浅知恵では全く解の見通しが立たないのだが、文化と産業の比較を超えて両者を包摂する新しい考え方を生み出す必要がある。そうでなければ、天皇の後継者問題はいつまでも解決しない。
産業と文化の対立は、単純化の誹りを恐れずに言えば、男性と女性の対立でもある。日本企業がダイバーシティ・マネジメントの名の下に推進している女性社員の活用は、産業に文化を取り込む行為である。一方は費用対効果を追求し、もう一方はそれを追求しないのだから、両者は真っ向から対立する。よって、女性の新しい価値観を創造力の源泉として競争力を高めるなどとはおいそれと言えない。それでもダイバーシティ・マネジメントを推進するのは、産業と文化の相克を超越して豊かな社会を創造するためである。そのヒントは、女系天皇を容認する論理(単に天皇がいないから認めるというのではない、真の論理)から得られるかもしれない。逆に、ダイバーシティ・マネジメントの英知(単に異質の融合から新たなアイデアを生み出すことにとどまらない、真の英知)が女系天皇容認の論理構成に貢献することもあるかもしれない。
【2018年反省会】記事一覧(全26回)
-
前の記事
【2018年反省会(20)】入管法改正、副業解禁、高プロ制度に関する一考(2) 2019.03.27
-
次の記事
【2018年反省会(22)】小国の国防には桜田大臣のようなシステムエラーを起こした人間が必要 2019.04.02