【2018年反省会(26終)】自分は「周囲の反対を押し切れるタイプ」か「意見を聞くべきタイプ」か?

【2018年反省会(26終)】自分は「周囲の反対を押し切れるタイプ」か「意見を聞くべきタイプ」か?
 

【2018年反省会】記事一覧(全26回)

東京に帰ってきたのは今年1月の半ばである。退院したその足で市役所に行って諸々の手続きを済ませ、一旦実家に戻って残りの荷物をまとめて宅急便で送り(この時も段ボール5箱しかなかった)、いち早く岐路に就いた。まさに、東京に「逃げ帰る」という表現がぴったりであった。2か月半も入院していたのに、退院の日に新幹線で400km以上も移動する人はそうそういないだろう。ここまで無理して帰京したのは、私が再び所属することになった城北支部の新年賀詞交換会(新年会)にどうしても出席したかったからである。

とはいえ、新年会で他の診断士の先生方に顔を合わせるのは怖かった。昨年9月末に今生の別れのような挨拶文を送って実家に戻ったのに、わずか3か月あまりで帰ってきたのだから、笑いものにされると思った。だが、私の心配は全くの杞憂であった。城北支部の先生方は私を非常に温かく迎え入れてくださった。本来は私の方から挨拶にうかがうべきなのに、会場で私を見つけてわざわざ挨拶に来てくださった方もいた。本シリーズで私は意図的に、実家には「戻る」、東京には「帰る」と書き分けてきた。地元の友人たちには申し訳ないが、実家は帰る場所ではなかった。私にとってのホームはやはり東京であり、この城北支部である。

2018年を振り返ってみると、自分でこうしようと決めたことがことごとく裏目に出た1年であった。資格学校で他の講師の尻拭いをし、報酬をめぐる交渉で優位に立とうと目論んだこと、就労移行支援事業所で仕事をしようと試みたこと、障害者雇用枠で会社員に戻ろうとしたこと、そのためにアルバイト生活からやり直そうとしたこと、実家に戻ったこと―ここまで負の連鎖に陥ったことは今までの人生で経験したことがなかった。小泉純一郎元総理は、「人生には3つの坂がある。上り坂と下り坂、そしてもう1つは『まさか』である」と述べたことがある。「まさか」とは、上り坂で調子に乗っていたら、思わぬ落とし穴にはまることがあると戒めるための言葉である。しかし、私の場合は、下り坂を転げ落ちていって、もうこれ以上落ちることはないだろうと思っていたのに、さらに下り坂が続いていたという意味での「まさか」であった。

以前の記事「安岡正篤『運命を創る(人間学講話)』―私は、社会が私を発見してくれるのを待っている」で、私は人生における重要な決断を自分で下すのではなく、周りの人が決めてくれた方が上手く行くと書いた。昨年の私は周囲の意見をあまりにも聞いていなかった。帰京してから解ったことだが、私の友人は実家に戻ることに反対していたという。だが、もう少し考えてみると、単に周囲の声に従えばよいという簡単な話ではなさそうである。海外関連の仕事も資格学校の仕事も、私から営業をかけて受注した仕事ではない。それ以外にも、私が後から止めておけばよかったと後悔した仕事は、ほとんど全て相手から持ちかけられたものである。

その時に私は、別の第三者にもっと相談をするべきであった。以前の記事「【2018年反省会(23)】WAIS-Ⅲ(成人知能検査)の結果の見方について」でも書いたように、私は将来を見通す直観力が弱い。特に、リスク感性が鈍い。時間をかけて考えても、そのリスクを認識できるとは限らない。だから、私にはそのリスクを指摘してくれる人が必要であった。さらに言えば、そのリスクを根拠に、時には私の選択肢を全力で否定してくれる人が必要であった。

私の場合、やってみて初めてリスクに気づくことが多い。就労移行支援事業所や障害者枠での仕事のリスクは、比較的早く解った方である。実家に戻ることのリスクは、たった1か月で発見することができたから、私の人生上最速であっただろう。しかし、資格学校の仕事のリスクに気づくまでは2年ほどかかったし、海外関連の仕事に至っては4年ぐらい費やしている。手痛い失敗をしないと、私の人生からその選択肢が消えない。私があまりにも他人に相談をしないので、わざわざ失敗を味わわせているのは神ではないかと思う。本ブログで私はしばしば日本の神にも言及しているものの、その記述があまりにもいい加減なため、神の逆鱗に触れたのかもしれない。だから、私は神を怒らせる前に、第三者の冷静な判断を仰がなければならない。

『致知』2019年2月号には、セブン・イレブンの元会長である鈴木敏文氏と、ダイソー(大創産業)の創業者である矢野博丈氏の対談記事があった(「不可能を可能にする経営哲学」)。流通構造を刷新した2人のイノベーターは、考え方が180度異なる。

 鈴木:何かを提案して反対されると、これはやる価値があるな、成功するなと考えるんです。逆に、皆がいいなと賛成することは誰もが考えることですから、あまりやる価値はないし、成功しない。そういうふうに思い込むようになった。

 矢野:あと好きな言葉は自己否定。要するに、僕よりも他人のほうが偉いんだから、自分の意見は後回しにして、皆さんの意見に素直に耳を傾けようと。

気韻生動 致知2019年2月号
2019年1月
致知出版社

一般的にイノベーターと言えば、鈴木氏のように周囲の反対を押し切ってでも実行するタイプである。鈴木氏がセブン・イレブンを展開しようとした時も、コンビニでおにぎりを販売しようとした時も、PB商品を導入しようとした時も、セブン銀行を立ち上げようとした時も、周囲の猛反対に遭っている。これに対して、鈴木氏は「お客様の立場で」反論を繰り返した。鈴木氏は「お客様の立場で」と「お客様のために」という言葉を使い分けている。「お客様のために」と言う場合、供給者はあくまでも供給側にいたままであり、ややもすると自己保身に陥る。一方、「お客様の立場で」となると、供給者が顧客側に回り、真の顧客主義が実現される。

商店街が大型小売店によって壊滅しているのに、コンビニのような小規模店舗は成功しないという声に対しては、小規模店舗でも生産性を上げれば大型小売店との共存共栄が実現できると主張した。家で作れるおにぎりをわざわざコンビニで販売する必要はないという声に対しては、今後は女性の社会進出が進むにつれて中食需要が増えると主張した。PB商品は安かろう悪かろうで終わるだけだという声に対しては、NB商品を上回る品質を実現すれば高くても買ってもらえると主張した。ATMの手数料だけで事業が成り立つわけがないという声に対しては、日本中のコンビニにATMがあれば金融機関を上回る利便性を実現できると主張した。

セブン・イレブンの役員会では商品の試食会が行われることはよく知られた話である。新商品を導入する時や、既存商品の品質を確認する時には試食会が開かれる。試食会では、鈴木氏がたびたび強烈なダメ出しをする。新商品の赤飯おにぎりに対しては、顧客が普段食卓で口にしている赤飯のようなモチモチ感がないことを理由に作り直しを命じた。既存商品であるチャーハンはパサパサすぎると指摘し、同じく既存商品であるカレーパンも、中身のカレーとパン生地がくっついているためにパンがベタベタしていると苦言を呈した。

担当者が「そこそこ売れています」と言い返そうものなら、鈴木氏はかえってヒートアップする。「馬鹿野郎、お前はこんな商品でセブン・イレブンを潰す気か」などと、烈火のごとく怒る。そして、その商品が全国のセブン・イレブンの陳列棚から一斉に消える。商品の品質を上げるためには設備から見直す。赤飯おにぎりは釜から、チャーハンは鍋から再設計を行った。その結果、商品の再投入まで時間がかかることもある。チャーハンが再び陳列棚に並ぶまでには、実に1年8か月もかかっている(鈴木敏文『朝令暮改の発想―仕事の壁を突破する95の直言』〔新潮社、2008年〕、同『働く力を君に』〔2016年、講談社〕より)。




働く力を君に
鈴木 敏文
講談社
2016-01-20



対照的なのが矢野氏である。屑屋、書籍の訪問販売員、魚屋など9回の転職を繰り返した後にたどり着いたのが、移動販売であった。各地の公民館やスーパーなどの一角を借り、トラックで運び込んだ商品をベニヤ板の上に載せて販売する。ある時、雨が降ったせいでトラックの到着が午前10時になってしまった。会場を借りている時間に限りがある移動販売では致命的なロスである。既にお客様はチラシを持って待っている。これから商品の陳列をし、値札を用意していてはとても間に合わない。お客様から「これはいくら?」と尋ねられた矢野氏はとっさに「100円」と言ってしまった。別の商品を手に取った次のお客様から「これはいくら?」と聞かれた時も、「それも100円」と答えてしまった。これが100円ショップの始まりである。

100円で販売するようになってから客足は飛躍的に伸びた。ところが、お客様から「100円の商品なんて所詮安かろう悪かろうだよね」との言葉を浴びせられて、矢野氏は大いにショックを受けた。矢野氏は100円でもこんなにいい商品があるのだということを示したいがために、原価80円という、小売業としては考えられないくらいに原価率の高い商品を増やした。中には原価が98円という商品も含まれていた。100円ショップというビジネス自体は模倣しやすいため、大手小売業を含め競合他社が多数参入した。しかし、矢野氏のようなコストパフォーマンスの高い商品を用意できず、軒並み撤退していった。利益重視の競合他社が潰れ、利益度外視の矢野氏が結果的に利益を出すことができたのだから、不思議なものである。

スーパーの催事場を使った移動販売を拡大していた頃、ダイエーの中内功氏から、「移動販売をやると催事場が汚れ、スーパーのイメージが損なわれる」とクレームをつけられて取引が中止になった。当時、全体の商品のうち6割がダイエー向けであったから、経営にとっては大打撃である。そこで矢野氏は、ダイエーに行く顧客がよく通るところに店舗を出せばよいと考えた。これが大当たりし、店舗販売という現在の業態を築くきっかけになった。

2018年3月時点で、ダイソーの約5,000店舗のうち、海外店舗は1,992店舗にも上る。だが、矢野氏は最初は海外進出に乗り気ではなかった。海外展開の初期の頃、シンガポールでショッピングセンターを経営するIMM社から出店を持ちかけられた。最初はダイソーが1,000万円出資するはずだったのに、いつの間にか2~3億円出すという話になっていた。矢野氏が出店を断念する旨を告げたところ、IMM社は「ダイソーを訴える」と騒ぎ立てた。そこまで言われてしまっては仕方ないと渋々出店してみたら、矢野氏の想像をはるかに上回る売上を実現することができた。こうした出来事もあって、ダイソーはその後海外出店を加速させることになる(大下英治『百円の男 ダイソー矢野博丈』〔さくら舎、2017年〕より)。



鈴木氏は自ら選択肢を増やし、周りの反対を蹴散らしてその選択を実現していった。他方、矢野氏の場合は、周囲の声によって選択肢を狭められた結果、現在のダイソーになっていった。端的に言えば、鈴木氏は「他者否定」であり、矢野氏は「自己否定」である。通常は、イノベーターと言えば他者否定によって道を切り開くものだが、矢野氏のようなイノベーションもあることに気づかされた。選択肢が消えていくことは、必ずしも不幸ではない。

事業で成功した人は、「結果が出るまで実行したこと」が成功の秘訣だと語ることがある。松下幸之助は中小企業の経営者向けの講演会で、どうすれば経営が上手く行くかと尋ねられて「最後までやり続けることですなぁ」と答えた。会場が失笑に包まれる中、身体に強い稲妻が走るような感覚を覚えたのが稲盛和夫氏であった(稲盛和夫『生き方―人間として一番大切なこと』〔サンマーク出版、2014年〕より)。ただ、ある物事を途中で諦めていればそれで成功することはなく、逆に成功したということは、成功するまでそれをやり続けたことを意味する。

生き方―人間として一番大切なこと
稲盛和夫
サンマーク出版
2014-07-01



「結果が出るまで実行したこと」は成功の必須要件ではあるものの、全ての条件ではない。成功した経営者も、全体としての経営では結果を出している反面、個々の製品・サービスでは失敗や撤退を重ねている。全ての製品・サービスが売れるようになるまで販売し続けることは不可能であるし、全ての研究開発が製品化・サービス化するわけではない。逃げることは恥かもしれないが役に立つ。いや、逃げることは恥だと恐れる必要もないに違いない。

近年は、企業が社員のキャリアパスを用意するという日本の伝統的な人事慣行が崩れ、社員が自らのキャリアを主体的に開発する時代だと言われる。主体的なキャリア開発とは、自分で自分の可能性を発見し、道を押し広げていくことを意味するのだろう。私の前職の企業が提供していたキャリア開発研修も、この考え方に則っていた。しかし、実は選択肢を消す方が重要なのではないかと思う。イノベーターでさえそのようなケースがあるのだから、私みたいな凡人はなおさらそうしなければならないと思う。人によって、選択肢を自分で消すのか周りの人に消してもらうのかという違いはある。私は後者でないと生きていけないみたいだ。

選択肢を消した方が、かえってその後の選択肢は増える。ゲイリー・ハメルとC・K・プラハラードが提唱した「コアコンピタンス」とは、企業が多様な製品・サービスを生み出す源泉となる中核の技術を指した(その後、コアコンピタンスの概念は拡張され、技術以外にも広く組織能力を指しているというのが一般的な見解である)。逆に言えば、技術を絞ることで、製品やサービスの選択肢が広がる。同じことが人間にもあてはまるだろう。

例えば、20代の頃は様々な職種を経験しながら、自分の選択肢を限定していく。不得意分野から手を引くことはもちろんのこと、得意であってもやるべきでないことを見極めることが重要である。以前の記事「【2018年反省会(19)】障害者は自らの「トリセツ」を訴求した方がよい」でも書いたように、上がり目のない仕事を続けても苦痛でしかない。だから、その苦痛は早期に切り離す必要がある。この点で、日本のジョブローテーションは非常に有益な制度である。反対に、政府が推進しようとしているジョブ型雇用は、私から見れば愚の骨頂である。

30代は、残った選択肢で頑張る時代である。この期間に、自分の能力に磨きをかけていく。30代の初め頃は大した強みだとは思えない能力であってもよい。10年かけて強みへと仕立て上げればよい。巷でよく言われるような、2~3年でプロフェッショナルになるべきというのは空想にすぎない。そもそも、プロフェッショナルという言葉は安易に使ってよいものではない(前掲の記事を参照)。30代で研ぎ澄ませた能力は、40代、50代で活きてくる。ボウリングでセンターピンを狙うと残りのピンが倒れやすいように、30代の能力がトリガーとなって様々な可能性が見えてくる。いわゆるT字型人間というのはこの年代で発達する。理想のキャリアは、選択肢が「多い」⇒「少ない」⇒「多い」と変化するから、図にするとちょうどリボンのような形になる。

私の場合、会社員であった20代の間は選択肢が狭く、29歳で独立した後の方が選択肢が広いという奇妙な人生を歩んできた。30代になってようやく色んな選択肢が消えていった。正確に言えば、自分で消したわけでもなく、他人に消してもらったわけでもなく、神によって消えた。海外関連の仕事、資格取得支援の仕事、会社員として働くこと、大人数の現場で働くこと、BtoCのビジネスをすること、地元で働くこと―それ以外にも、この業種はやらない、こういう属性の企業とは仕事をしないというネガティブリストがいくつかある(具体的に書くと、過去に仕事でご一緒させていただいた方々に失礼にあたるため、ここでは控える)。

昔の私ならば、消えかけた選択肢であっても、何とか極めてやろうとしがみついたに違いない。自分が得意だと思っていることであればなおさらである。だが、この1年を振り返ってみて、大事なのは潔く負けを認めること、そして負けを取り返そうとやり直さなくてもよいことだと知った。選択肢に満ちた多様性のある時代だからこそ、そのような生き方が必要になる。私は今年38歳になる。自分の選択肢を消すのに時間がかかりすぎた。それでも、40歳になるあと2年の間に、まだまだ選択肢を消さなければならないと感じる。消すスピードを上げるために、周りの人たちのアドバイスに耳を傾けよう。通常の人よりも10年遠回りをしたことになるが、10年分を取り戻すために10年長く働こうとはせず、それもまた人生だと割り切ることにしよう。

帰京してからようやく、昨年10月にリリースされたMr.Childrenのニューアルバム『重力と呼吸』を聴くことができた。実家に戻った当初は音楽を聴くこともできないくらい精神的に参っていたため、CDを買う気にならなかった。入院生活の後半ぐらいから、このアルバムを聴きたいと願うようになった。購入後すぐさま、私にとっては同作が名盤であることが確定した。

重力と呼吸
Mr.Children
トイズファクトリー
2018-10-03



ミスチルは、CDから音楽配信へと流通形態がシフトする中、自分たちを目標とするミュージシャンにミスチルにはかなわないと思わせ、本物のロックとはこういうものだと提示し、形に残る音楽を目指してニューアルバムを制作したという。だが、今の音楽シーンでミスチルを目指しているアーティストはほとんどいないだろうし、私から見れば(そして、おそらく世の中の大半の人もそう見ているように)、ミスチルの音楽はロックというジャンルにくくることができない。それに、今さら形に残る音楽を作らなくても、ミスチルの音楽は後世に残ると断言してよい。

ただし、「ミスチルなりのロック」というのは確かに存在すると思う。「解りやすい演奏」と「桜井さんの動き回るメロディー」が組み合った時、名曲が生まれる確率が高い。私が中学生だった頃と「ミスチル現象」の時期はちょうど重なっており、周りにはミスチルのコピーバンドがたくさんいた。ミスチルの演奏は他のバンドに比べるとそれほど難しくないため、コピーバンドとしては入りやすい。しかし、ほとんどのバンドは歌える人がいなくて挫折してしまった。

デビューから27年の間に、歌う内容は変化している。社会風刺は全くしなくなったし、反戦歌は一時的であった。2人の愛も、歪な関係を想定するのではなく、何気ない日常から特異な経験を浮かび上がらせる形で描写するようになった。とはいえ、「解りやすい演奏」に「桜井さんの動き回るメロディー」という黄金のパターンは、実は今でも変わってないと考える。

2010年代は、このパターンを崩そうと模索した年代である。2010年の『SENSE』は成功したものの、デビュー25周年の2012年にリリースされた『(an imitation)blood orange』には迷走が見られた。「解りやすい演奏」と「あまり動き回らないメロディー」の組み合わせが「常套句」や「インマイタウン」であるし、逆に演奏もメロディーも凝ったのが「Happy Song」であったと感じる。その後、小林武史氏のプロデュースからセルフプロデュースに移行し、改めてロックと向き合った結果として制作されたのが『REFLECTION』(2015年)である。「幻聴」、「Starting Over」、「未完」といった名曲と、「I Can Make It」、「Jewelry」、「WALTZ」のように妙に凝った曲が共存し、全体として評価しにくい(個人的にはあまり好きになれなかった)。

結局、「解りやすい演奏」に「桜井さんの動き回るメロディー」という原点に回帰したのが『重力と呼吸』だと思う。ミスチルの原点の力強さを示すには23曲も並べる必要はなく、たったの10曲で十分であった。率直に言うと、同作を聴くまでは、私は不安でいっぱいであった。先行して公開された「Your Song」と「SINGLES」、それにシングル発表された「himawari」と「here comes my love」が良歌であることは解っていた(「SINGLES」のサビ終わりのメロディーがあんなに跳ねるのは反則ものだ)。残りの曲が「解りやすい演奏にあまり動かないメロディーの組み合わせ」か「演奏もメロディーも凝ったもの」になっていないかどうかが心配だった。

私の心配はまたしても杞憂に終わった。「day by day(愛犬クルの物語)」など、タイトルからして間違いなくミスチルが変な遊びをするだろうと懸念した曲も、黄金パターンに忠実であった。さらに、歌詞もまた、何気ない日常から特異な経験を浮かび上がらせるという黄金律に従ったものであるから、私はこのアルバムから先ほどの4曲以外に良曲を1つ挙げよと言われたら、この曲を推す。原点からは外れているという意味で、「Happy Song」のような路線に傾いていた「ヒカリノアトリエ」を、シングルでありながら収録しなかったのは正しいと思う。

『重力と呼吸』を聴きながら、今年1年は死なない程度に頑張ろう。「苦しみに息が詰まったときも/また姿 変えながら/そう今日も/自分を試すとき」(皮膚呼吸)(完)。

《簡単な編集後記》
はじめに」で、本シリーズは2018年の悪い思い出、特に実家での出来事を洗いざらい書き出すことで、負の感情を放出する「ジャーナリング効果」を狙ったものであると書いた。しかし、よく考えてみると、我々は何かを覚えるために書くものである。だから、単に書いただけでは、かえって記憶を強化してしまう恐れがある。私は昨年の出来事に限らず、何年も前のネガティブな話を繰り返し書いて、周囲の人から「いい加減にもう忘れよ」と注意されたこともある。

日記であれデスノートであれ、ジャーナリング効果を獲得するには、書いた後に「ノートを閉じる」という行為が必要なのだろう。記憶をパッケージングし、目につかない場所に格納しておくことで、マイナスを断ち切る。だから、私も今回のシリーズで何本かの記事を非公開にしたのは、とりわけ苦い思いをした経験を仮想空間に放り投げておくためである。

【2018年反省会】記事一覧(全26回)